よい・良い・善い


倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦 (哲学教科書シリーズ)

倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦 (哲学教科書シリーズ)


諸事情により、再読。これはまぁ、制度的な意味での倫理学の本ではないが、前のエントリで書いた倫理学への不満の(ごく)一部は解消された。伊勢田著を読みつつ、実在論(認知主義)≒外在主義で、反実在論(非認知主義)≒内在主義という整理がどうしても釈然としなかったのだが、この永井著では「反実在論者で外在主義者」という可能性がきちんと指摘されているので(188-189頁)、多少スッキリした。そりゃあ、この分類法で行くなら当然にあるはずだよな(と言うか、それしか考えられない…)。


それとは別に気になったところが一つ。これは前から引っ掛かっていたのだが、倫理学では「良い(よい)」と「善い」が言葉として区別されないのだろうか。そんなはずはなかろうと思ってしまうが、実際この本では「よい」は常に(文字として)「善い」であり、あらゆる価値の評価は「善い‐悪い」で記述されるのである。もちろん意味として道徳的判断ではない「よい(いい)」の存在は認められているが、それは「道徳的でない直接的な「善」」と記述され、道徳的意味でない一般的な価値評価の記述語が「善」であることは譲られていない(12、149頁)。

なぜかはよく分からない。こだわりがあるのか。知らない。ただ永井に限らず倫理学一般で考えると、英語ではどの道“good”であるから、おそらくそういう事情に引きずられて、「よい」と「良い」と「善い」を言葉として区別することが為されないでいるのかな、とは推測される。英語と言ったが、もちろんその源流にあたる言語においても事情は似たようなもので、他の言語もまぁ同じような感じかな、という雰囲気はうかがわれる(要検証)。ま、日本語だって厳格な区別があるわけではない。とはいえ、「善い」と言われると通常は道徳的な評価を指すという印象を受ける人が多数なのではないかと思われるから、「天気がよい」とか「いい時計だ」などといったその他一般的な価値評価言明にも「善い」という言葉を使われると、若干の違和感を覚えずにはいられない。


倫理を扱う上で基礎中の基礎となる言葉遣いの問題が、これでよいのだろうか。他の本ではどうなのか。加藤尚武『現代倫理学入門』にはそういった問題の取り扱いを期待することはできない。大庭健『善と悪』の冒頭には、「よい・わるい」といった言葉にまつわる整理が若干為されている。おそらくそこが、最も参考にしやすい手がかりかなぁ、と言う気がする。

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

それでもスッキリするまでには至らないので、英語との対比で少しだけ考えてみた。英語の語彙群に引きずられる必要は無いし、日本語に固有なものを見出せるのならその意義を大切にするべきだが、日本語でしか通用しない議論をしても仕方が無いので、複数の「よい」を巡るニュアンスの差異をどう伝えることができるのかを考えることは必要だろう。


まず、「良い」と「善い」の中心的な意味を明らかにするために、それぞれをどう言い換えるのが最もしっくりくるかを考えよう。つまり辞書的に言い換える。すると、「良い」は「好ましい」とか「望ましい」、「善い」は「道徳的な」「道徳にかなった」「倫理的な」「倫理にかなった」「有徳な」などが妥当だと考えられる。英語で言えば多分前者が“likable”“preferable”“desirable”、後者が“moral”“ethical”“virtuous”などといったところだろうか。

なお、「良い」には「有利な」「有益な」(“favorable”“advantageous”“beneficial”“profitable”)、「善い」には「公正な」「正当な」(“fair”“honest”“clean”)といった意味がそれぞれ含まれることがあるように思える。しかし、これらは「良い」または「善い」と意味が重なることが多いものの、区別して考えることが不可能ではないため、類義語の扱いをしておいた方が良いと思われる。

“good”の語は、「良い」と「善い」を包括し得る更に一般的な語彙としての「よい」と対応させるべきだろうと思う。“good”には「良い」の意味も「善い」の意味も含まれているので、どちらかには決し難いからである(違いはあるが、“right”や“well”も似ている、か?)。その点“nice”には「善い」の意味は薄く、「良い」に対応させても構わないようにも思えるが、しかし対義語を考えると“good”と同様“bad”を用いるのが通常だと思われるので、「良い」への独立した対応は結局かなわないかもしれない(“good”と同じレベルで使った方がいいかもしれない)。「善い」には「不道徳」「悪徳」(“immoral”“evil”)などの独立した対義語があるように、「良い」にもそれがあって然るべきだからだ(“unlikable”“undesirable”)。

こう考えてくると、必要なのは「よい」言葉の区別以上に、「わるい」表現の多様化なのかもしれない。それとも、「よい」と「良い」は結局区別できず(するべきでなく)、その下位カテゴリとして「善い」があるのだと考えるべきなのだろうか。