生命倫理論からdemocracy論へ


2007/02/01(木) 21:33:12 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-317.html

岡本裕一郎『モノ・サピエンス』(光文社:光文社新書、2007年)によれば、消費者社会=超消費社会においては、消費者による自己決定・自己責任が支配原理となる。人体を含むあらゆるモノは使い捨てられ、消費者の欲望に応えるためのデータベース型管理が促進されることにより、自由な選択と多様性が尊重されながら人間が単一化(モノ化)していく。


本書を読んで、そういえば生命倫理についての考え方も整理しておく必要があるな、と思い至った。在庫整理を一応済ませたつもりではいたが、積み残している問題もあって、大坂さんに突っ込まれたのを契機にそちらもまとめておきたいのだが、先にこちらを書く。使えそうな「在庫」はこれで使い切れそうなので、そこそこ長いが、3年程前に書いた「習作」をそのまま載せておきたい。今の考えはその後に述べよう。


1.はじめに
僕らはロボットだ。古い部品を取り替えて“生きている”。
自分のクローンを何人も培養しておいて、何か重大な病気にかかったら、クローンの臓器を自分に移植する、ということが当たり前になる時代が来る。老化したり健康でなくなったりした器官は、次々に取り替えて生きていく。そう遠い未来じゃない。
実際に臓器を提供されて命を永らえた人は、気を悪くするだろう。だが、本当に医学はいい方向に進んでいるのだろうか。臓器移植でたくさんの命が救われ、医学の進歩のために死後の肉体を捧げる人もますます多くなっている。人ひとりの生命は地球よりも重いし、より多くの人により長く生きてもらいたい。しかし、「死んでもらいたくな」ければ、何をしてもいいのだろうか。
臓器移植の全否定をしているのではない。臓器移植に対する認識が一般化とまではいえないものの、ある程度定着してきている現在においては、一定の部分で許容はされ得るとは思う。ただ、生命の本質に隣接するこの問題に対して、無思考のまま「進歩」だけを追うようなことになれば、後に大きな問題に発展するであろうことは、容易に予想がつく。
では、何が問題なのか。


2.合理主義とカニバリズム
あなたは、カニバリズム(人肉食)を肯定できるだろうか。人間が何を食べ、何を食べないかは、歴史・風土・環境・信仰など、種種の条件が絡み合って基準が生まれるものであろうから、安易に「人を食べるなんて野蛮だ」などと否定したくない。だが、相互に信頼・協調し、安全かつ健全な社会を営むには、好ましい風習でないことは確かだろう。カニバリズムには、死者を弔う意味を込めて死肉を食すといった、宗教色を帯びたものもあるようだが、そういった形のものも含めてもとをたどれば、特定の地域・気候的条件下では、人肉が貴重なタンパク源になるという事実が大きな要因だろう。
とある閉鎖された集落で深刻な食糧難により、人肉しか食べるものがなくなったら。集落の指導者は、当初はもちろん、自然死した人の肉に限って、人肉食を許可するだろう。だが、それで足りなくなれば、当然、他人を殺してその肉を食べようとする者が出てくる。平時には「文明人」達は、野蛮だと嫌悪するであろうが、現実にその場に居合わせたら、おそらく人を食べるであろうし、それを一方的に非難もできない。同時に、実はこれは、近代世界で高い地位を占めている、合理的精神に合致する行為である。効率を重視するなら、人肉であろうとも栄養摂取の手段として除外できない、むしろ魅力的な選択肢の一つである。
実際にカニバリズムが行われるかどうかが問題なのではない。効率至上主義、合理化絶対主義に立つのならば、カニバリズムに等しいような、人間の身体を単なる道具として考えることになる、ということが言いたいのだ。
具体的には、臓器移植のための臓器製造や試験管ベビーなどを承認して、人間製造工場のような設備で生まれ、病気・怪我に見舞われたらパーツの補修・取替えをする、という社会に近づいていくためのステップが、着実に上がられている。


3.医療とは何か
さて、次に問題となるのは、臓器移植を否定するのなら、医療にはどこまで許されるのか。そもそも医療とは何を指しているのか。こうした非常に困難な疑問に突き当たる。辞書で「治療」「治癒」「医療」を調べてみたところ、いずれも「治す」という語に行き着いたので、調べてみたところ、「具合の悪い状態をよくする」とある。なんとも煮え切らなく、どうにでも解釈可能な定義である。しかし、こうもあった。「本来あるべき状態にする」。
医療とは、人間の自然治癒力を助ける役割を担うものだ、と聞いたことがある。つまり、ある人自身の身体が本来持っている能力を超えるような干渉は、原理的な意味での医療・治療から逸脱するということであろう。しかし、「本来持っているもの」という表現・考えも曖昧で明確な基準は有り得ない。なぜなら、生物は自らの外部から取り入れたものを分解・合成して吸収することによって成り立っているからである。また、肉体にとって全くの異物であっても、場合によっては、生物はそれを取り込み、一体化する可能性も持っている。つまり、どこまでが自然なもので、どこからが非本来的なものであるか、という線引きは困難、と言うより不可能に近い。生や死のグラデーション過程を見てもわかるように、万物は常に外部との連続性を保っているのである。
原理的に、自然治癒の助力から逸脱するものを、全て改造と位置づければ、整形や人工臓器、臓器移植から、献血・輸血や手術にも批判の矛先は向かうであろう。しかし、どこまでが自然であるかを明確化できない以上、どこまでが医療として認められるかを断じることはできない。手術などは、やはり改造の側面があるのは否定しがたいとは思うが、現代社会と未来の理想を検討した上で、手術や輸血も認めない、というのは適切でないと思う。しかし、だからといって現存する全ての医療行為を承認するというわけではないし、明らかに不自然な行為や、問題を多く含んでいるものは行われるべきではない。
苦痛だからといって、積極的な安楽死を選ぶのは支持できないが、生物固有の自然治癒力からかけ離れたような、不自然な延命は避けるべきである。生命は何より尊重されるべきだが、それは必ず終わりを迎えるから尊いのである。運命なんかではないが、人生のひとつの節目としての死は、受け容れられずとも、受け止めなくてはいけない。
生まれてから十何年も、延命装置なしでは生きられないでいる人に死ねと言うのか、と憤る方もいるだろう。もちろん、個人の自由意思を尊重するが、生物が自らの肉体に著しい機能不全を抱えていたり、弱体であったりする場合、死ぬのは避けられない。酷なようだが、それは一見健常者に見える我々にも言えることであり、一度も入院しなかった人が年中ベッドの上にいる人より先に死ぬことは珍しくない。数学者が何と言おうが、この世の確率は全て二分の一であり、誰もが次の瞬間死ぬ可能性を持ちながら、二分の一の連続をすり抜けていく。死は平等であり、だからこそ、その公理を揺るがす殺人や自殺、その他の生命に関する問題は人に強い衝撃を与えるのである。


4.短期的・周辺的・方法論的諸課題
臓器移植や中絶は、本来なら行うべきでないとは思う。もちろん純粋な殺人である中絶と、多面的解釈が可能な臓器移植を一括りにして論じるものではない。しかし、これらは倫理的に問題性を含んでいるにもかかわらず、現状追認的に広く行われている。そして、それが必要とされる社会状況が存在するのである。中絶は強姦による妊娠や経済的事情、母子両方の生命の危険などがある限り、やむをえない現状がある。しかし、社会保障や福祉の充実、社会意識の転換などの状況改善が成されれば、救われる生命がある。つまり、倫理的問題が論じられることは重要であるが、それに決着をつけずとも救える命のために、まずやるべき改革があるということを忘れてはならない。
結局、どこまでが治療であり、どこまでが自然であるかは、誰もはっきりとはわからない。だからこそ、自制を知らず暴走しやすい科学技術に枷をはめ、できるだけ根元から、理性絶対主義者達が目指すもの(優生、脳死判定での臓器移植、クローン、遺伝子治療安楽死その他)をやらない、という方向を目指したいと、個人的には思う。それは、合理化・効率化を進めて人間がロボット化したような社会は、自然界のダイナミクスが失われ、人間的価値を尊重する幸福な世界になるとは思えないからであり、生命軽視や全体主義新自由主義国家の隆盛が懸念される。
筆者個人の考えは、少数派に過ぎないかもしれない。だが、だからこそ、現状追認型の社会意識形成による改造主義の実現は慎まなくてはならない。これからの社会基盤を左右する、生命の本質そのものを転換させかねない、重大な変革が進められようとしているのであって、これは、全人類的論議が必要とされる問題である。経済的先進国の一部がビジネスや好奇心、独善的使命感に基づいて勝手に遂行していい行為ではない。自然界の法則も動揺させかねない変革は、既成事実の積み重ねという形で行われていいものではない。まず、立ち止まった上で、広く世界に諮るのがあるべき姿である。
何より求められるのは、諸個人の自律であり、人間の有限性、理性の限界を認識した上で、自然界の一員として、どうやったら社会の一人一人の苦痛が縮小され、より幸せな世界が実現できるかということを、真摯に考えることである。


今の考えは、以上の主張とは少し/だいぶ違う。延命や臓器移植は別に構わないと思うし、人工授精はもちろん、代理母出産や着床前診断も状況によっては認めてもいい気がする。場合によってはクローン人間も認めるかもしれない。ただ、着床前診断などによる積極的な優生が問題だと言われれば肯くし、臓器移植ありきで安易に移植のハードルを下げることには反対である(もちろん、日本人が金に物を言わせて海外の移植市場に乗り込んでいくことがいいことだとは思わない)。あと、「死ぬ権利」とは言わないまでも、死にたい人は死なせて構わないと思う。要するに、個別論点是々非々だ。「できるだけ根元から…」といった考え方はしていない。


生命倫理に関わる問題を考える場合には、三つ程の否定しがたい前提を置くことができるように思う。一つは、上で述べているように、何を以て「自然」であるとか「本来的」であるなどと言えるのかについて、自明な答えはないと言うこと。第二に、一般的な道徳感覚に照らしてそれなりに正当な欲求が訴えられており、その実現を可能にする技術が(特に民間に)存在するならば、自由意思による技術の使用を制限する強力な根拠を見出すことは難しいということ。最後に三つ目は、人々の道徳感覚は技術の進歩や社会状況の変化に伴って変容していくということ。


論理的に考えるなら、この三点は否定しがたいはずである。そうであるなら、結局のところ、生命倫理もそれに基づく技術の規制も、その時々の社会状況と一般的道徳感覚を見定めながら、是々非々でやっていくしかない。すると、重要なのは生命倫理そのものよりもむしろ、いかにして広範な議論に基づいた社会的合意(何がよくて何がダメなのか)を形成し、その合意に基づいた適正な政治的決定を遂行することができる手続きないし枠組みをつくることができるか、という点ではないか。行政やマスコミによる民意の忖度や専門家の判断だけに「合意」や「決定」を任せてしまわないような手続き/枠組みについてどう考えたらよいか。最近の私の思考はどうもそちらに向かう。


問題を手続き論だけに還元するのはよくないかもしれないが、少なくとも「人間とは…」式の本質主義的議論や、子どもへの無償の愛がどうとか(そんなものは無いし*1あってもナンセンス*2)、親のエゴで子どもの成育に影響がどうとか(子ども作ること自体エゴだろ)、といった議論に終始するよりは圧倒的に有益である。だいたい、こういう容易に結論を出しかねる問題になると「国民的議論が必要とされる」とか何とかメディアは言うのであるが、どういう状況になれば「国民的議論」がなされたことになるのかはさっぱり解らない。ただ、この点は私も自省・自戒を必要とするところであって、具体的にどういう手続き/枠組みを構想すべきなのかもっと考えねばならない(討議民主主義勉強しないと)。


モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類 (光文社新書)

モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類 (光文社新書)

参考


倫理つれづれ話 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20061006/1160131799

TB


「逸脱」と「逸脱もどき」 http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-268.html