正義論お勉強ノート


2007/01/21(日) 15:42:21 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-312.html

http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20070112/p1を読んで、少し考えているうちに、過去に積み残しておいた問題について考え始めたら、もう少し積んでおこうかなと思っていた本も読まねばということになって、今日まで書かずにいた。最初の方だけ当該エントリに関係する部分であり、後は個人的な課題との関係で勝手に考え進めた部分である。


さて、ここでは、構築主義相対主義と平等主義との両立可能性あるいは整合可能性が問題になっているが、構築主義相対主義に理解を示しつつ平等主義を貫こうとすること自体は、不可能ではないだろう。


盛山和夫は、「社会経済的な不平等を、個人に責任が帰せられるものとそうでないものとに分けて、個人に責任がないものについては何らかの平等化や保障の措置をとることが社会の責任であり、正義にかなったことだとする責任‐平等主義」(169頁)を批判して、こう述べている。


 結論的に言えば、社会的世界を責任の有無やその帰属のしかたで「客観的」に区分けすることは、原理的に不可能なことである。「責任」とは、(中略)社会の中で人々の何らかの(しばしば暗黙の)合意によって組み立てられていくものである。それをどう組み立てていくかは、社会にとっての重要な課題ではあるが、あらかじめ客観的に所与として存在しているわけではない。したがって、平等主義の根拠を責任ないし責任のないことに求めることは不可能である。(174‐175頁)


だが、「責任」が構成的概念であることを認めたとしても、平等主義の根拠を責任の有無ないし帰属に求めることが不可能であるとまで言うことには無理がある。盛山が結論において主張するように、規範的原理を常に修正され得る「仮説」(339頁)と考える場合においても、「仮説」としての責任概念に平等主義の根拠を求めることは、それとして可能であろう。責任は確かに社会的合意によってその形態や範囲などを変えていくものかもしれないが、その時々の社会的合意に基づく「責任の有無やその帰属のしかた」に平等主義的施策の基準を求めることはできそうなものである。


例えば下地真樹は、私たちが生きるために充足しなくてはならない「基底的潜在能力」について、「何が「基底的」であるのか。それはまったく定かではない。私たちが作るリストがどのようなものであれ、そこには常に別のリストが提出される可能性を否定できない」と述べている(下地真樹「批判的合理主義の正義論」『情況』2006年5・6月号、211頁)。こうした認識自体は基本的に盛山の「仮説」と共通であるが、だからといって下地は潜在能力という客観的・絶対的尺度を手放すわけではなく、可謬主義に基づいて修正可能性を確保した上で、あるリストを当面の正義に措定するわけである。


したがって、「仮説」的考え方と何らかの正義構想が両立しないわけでは全然なく、構築主義相対主義に一定の妥当性を認めながら平等主義を追求することは不可能ではない。この点についての盛山自身の認識はこの際どうでもいいことに属するとして、なお残る問題について考えよう。


それは一つには、「責任‐平等主義」が自身の主張を一つの「仮説」と認めるかどうか、ということであるが、この点もさして重大な論点ではない。認めないならば「基礎づけ主義」として批判され続けるだけである。私自身は、基礎づけ主義から脱した上で「仮説」を訴えることにより、社会的合意や政治的決定に影響を及ぼす人々の道徳感覚や政治的立場を地道に動かしていく方が賢明だと思うが、そう考えない人もいるだろう。この点に拘泥することは生産的ではない。


より尖鋭な論点は、ひとまず基礎づけ主義批判を受け入れて、各人の主張を「仮説」と考えるとしても、我々が従うべき規範の選択をその時々の社会的合意や政治的決定に完全に委ねてよいのか、という問いとして現れてくる。絶対的な正義を否定した上で、我々が従うべき規範=正義を無限に修正可能なものとして扱うべき、という一見似た結論を出しているように思える盛山と下地の立場の違いも、ここに至って鮮明になる。


盛山は、「仮説」としての正義を修正する契機を「集合的な決定を作り出すプロセス」(340頁)としての政治に求めており、それゆえ我々が従うべき規範の在り方は基本的に政治プロセス以外には委ねられるべきでないと考えるであろうから、その意味で「社会のあり方を決定する手続きによって正義を考えよう」とする「手続的正義」の立場を採っていると言える(下地212頁)。


これに対して下地は、「帰結主義的正義」の立場を採り、正義の修正の根拠を何らかの帰結(下地の提案によれば、「社会のメンバー全員に対して、十全に生きられる状況を実現している」か否か)に根拠付けようとする(212頁)。帰結の正当性は手続的正統性とは独立に判断されるものなので、ここでの正義は現実の政治的決定とは切り離された次元で想定されることになる。それゆえ、下地によれば、正義が実現するべき帰結が実現されていないとの異議申し立てに反証できない正義=法は、現実の政治的決定および手続的正統性にかかわらず、正義としての信頼を失うのである(219‐220頁)。


ところで、私はこうした下地の立場をデリダなどの議論と併せて「否定神学的正義論」として「神と正義について」で批判を加えたのであるが*1、同様の立場に対するより高度かつ洗練された批判が、大屋雄裕『法解釈の言語哲学』(勁草書房、2006年)において既になされていた。


大屋によれば、デリダ井上達夫は、「ロゴスの外部にある普遍性に比較して自らの議論の不十分さを自覚し、それを少しでも普遍性に近づけるために対話を通じた正当化を継続するべきだ」と考えるのであるが(120頁)、それは、こうした「規制理念としての普遍的原理が存在しないと考えるとき、何が正しいかをめぐる議論は無意味化するだろう」との認識を有するゆえである(126頁)。だが、こうした態度は「すべての基礎付け関係の究極の根拠を想定し、だがこの世界に現前しないことを根拠としてそれが成立する」とする「不可視の基礎付け主義」に他ならない(122頁)、と大屋は断ずる。


確認しておけば、正義(法)が「よりよい」ものになるためには、その正しさを測る基準として実際には現前し得ないような究極的に「普遍」である参照点が必要である、というデリダ=井上の立場は、下地の立場と完全に重ならないまでも共通する部分が大きい。下地は「帰結主義的な正義、非帰結主義的な正義のどちらを選ぶかについて、絶対的に正しい答えはない」(219頁)と述べている以上、その立場を不可視の基礎づけ主義と言うことは(実は)難しいかもしれないが、彼自身は既に述べたように、正義は「在る法」とは別に想定されるべきであるとの立場を明確にしており、何かしら正しさを測る基準が法の外に存在するべきとの認識をデリダや井上と共有している。


だが、正しさの基準が確定していなければ規範的議論は不可能であるというデリダ=井上=下地の立場は、言語規則の意味が確定していなければ議論が成り立つことは有り得ないという立場と同様、誤りであると大屋は言う。規則の意味は不確定であるとする「根元的規約主義」の立場を採る大屋によれば、具体的文脈において法規則の意味についての意見の一致が得られない場合にのみ法解釈を行い、そうした個別的判断から法規則の意味を遡及的に確定させていくことによって、正義を創造していくことは可能である。この立場においては、正義は基準として(法の外に)まず措定されるものではなく、議論と実践の積み重ねによって(法それ自体として)構築されていくものとされることになる。それゆえ、規範の選択を政治プロセスに委ねる盛山の立場に近づく。


私の立場も、基本的に大屋=盛山の立場に近いものである。私の立場の特殊性は正義論において誰もが退ける相対主義とエゴイズムを積極的に肯定する点にあるが、このレベルの議論においては大屋=盛山とあまり変わるところが無かろうと思う。つまり、規範的議論の根元に不可視の基礎づけ主義や帰結主義を据えることを拒絶するという意味で。したがって、便宜的とはいえ手続的正義の側に立つことになるだろう。


下地は手続的正義に対して、「手続きそれ自体を究極的な正当化根拠として取り扱う」(218頁)との批判を向けているが、それは言い過ぎだろう。そういう結果となる危険性があることは否定しないが、手続きを重視することは、むしろ現実の無際限なパワーゲームを一定の枠内に押し留めようとする制度的工夫である。正統とされている手続きの外に正義を想定することを認めるならば、それぞれの主観的正義に基づく暴力を正当化しようとする人々で溢れるだろう。そういった暴力の正当化理由を潰して、正統な手続きの下に正統な暴力を一元化しておくことには、それなりの意義がある。帰結主義的発想から「法を信頼しない」と言ってみたところで状況が改善されるわけではないし、正統でない暴力に訴えて成功する可能性は高くない(成功するならそれはそれでいい)。それならば、一般的には、正統な手続きの範囲内で自らの望む結果が導かれるように、また手続きそのものがより改善されるように、ひたすら尽力する方が賢明である。


それにしても、大屋にせよ、盛山にせよ、一方で基礎づけ主義を明確に退けながら、何故あくまでも相対主義を拒否しようとするのか、私には理解しにくい。基礎づけ主義を否定したからといって必ずしも相対主義に陥るわけではないとか、倫理学的・哲学的に込み入った議論について私は詳しくないが、「重要なのは我々が(私が)私の責任において、私の意志において、何を正当なものと看做すかという実存的決断である」(203頁)という大屋の宣言は、そもそも相対主義者が最も言いたいことだったのではなかろうか。別に相対主義の立場を採ったからといって建設的な議論ができなくなるわけではないと私などは思うのだが、アカデミズムに足を突っ込んだまっとうな人は口を揃えて、相対主義はいけない、と言うのである。そこまで相対主義を怖れなくてはならない理由は何なのだろうか。井上=大屋の相対主義批判(「相対主義は自己論駁的である」)への反論はいつかきちんとした形で行う機会を持ちたい。ともあれ、この問題については、ケルゼンの率直な態度表明こそ尊敬に値すると私は思う。


なお、今回のエントリを書くにあたって、かつてのおおや‐mojimoji論争をざっと見返して、だいぶ参考になった。長文になりすぎて引用を控えたが、両者の著書および論文と併せて参照することを強くお勧めする。


リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

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法解釈の言語哲学―クリプキから根元的規約主義へ

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コメント

初めまして。
いつも興味深く拝見しております。私のエントリを参照して下さり、ありがとうございました(少し前のエントリへのコメントになってしまい、申し訳ありません)。私がやや感情的に書いてしまった論点を、きはむさんがより深く考察してくれて、なかなか考えさせられました。私自身は構築主義相対主義の有効性はケースバイケースで、扱う問題によっては(エントリでも書きましたが経済的不平等の問題とか)、構築主義相対主義を強調することは、そこまで有用ではないんじゃないかな〜と思っています。この問題も含め今後もきはむさんの考察を楽しみにしております。
2007/01/26(金) 11:58:07 | URL | Sillitoe #- [ 編集]


Sillitoeさん、はじめまして。こちらこそ拝見させていただいております。


不平等や貧困の問題を考えようとすると、確かに何らかの客観的・絶対的な尺度が必要になってくるでしょう。要はその「客観性」や「絶対性」を何に基礎付けるか(基礎付けないか)だと思います。


私の物事の考え方は学問的というよりは思想的なので、色々違和感を覚えることもあると思います。今後とも時々ご意見などお聞かせいただけると幸いです。
2007/01/26(金) 12:36:39 | URL | きはむ #- [ 編集]


大屋さんの議論について
大変興味深く拝見させていただきました。


ただ、大屋さんの議論は(『国家学会雑誌』版でしか読んでませんが)、デリダ解釈として妥当かどうかはとりあえず措いても、最後の方に「他人に危害を加えてはならない」という「危害原則」を、他者の「世界解釈を否定してはならない」という点から「規範的に正当化」する、言っていますが、しかし、それは逆だろう、と普通に思います。下地さんの議論の対象も多分そういうところにあるのではないか、と思います。
物理的暴力が禁止される理由は、単に「他者の世界解釈の尊重」等々のヌルい枠組みではない、と思うからです。
また、「すべてがその都度、その場で無根拠に立てられる(したがってそれが拘束力を有するか否かは発話の受け手に委ねられた)規約である」、といった議論には、
だからこそ、「では、あなたは《具体的》に、何を他者(たち)に説得したいのか?」と自問せざるを得ず、そのコミット抜きでは空虚なものにしかならないのではないか、と思いました。
2007/03/14(水) 23:59:58 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]


hotta yoshitaroさん、はじめまして。私は本になってから初見で、雑誌版は読んでいないのですが、第一にご指摘の部分に該当するのは、『法解釈の言語哲学』「おわりに」にある以下の部分でしょうか(201頁)。


「ここで根元的規約主義の下では、寛容論の文脈自体が問い直されることに注意しよう。客観的な・必然的なある規範の解釈が存在しないとしたとき、我々は何を根拠として他者の規範解釈を批判することができるのだろうか。言い換えれば、我々はなぜ不寛容になることが許されるのか。
 もし我々の個々が意識し解釈する主体であるという世界像を受け入れるならば(それを否定することは少なくとも理論的には十分可能であろうことを留保しておくのだが)、我々の個々が自ら解釈を行うことを認め、またそれに対して(例えば)客観的な解釈や意味といったものを根拠にして干渉することはできないのだということを承認する必要があるように思われる。そのとき、他者の解釈への干渉は我々の意思によるものであり、我々の主体性を引き受け、我々の責任において為されるものという性質を負うだろう。また、個々の解釈を尊重しなくてはならないという根拠が前提とされる世界像にある以上、その世界像に抵触する解釈、すなわち他者の存在を否定するような解釈は禁止されることになるのではないか。ここに他者危害原則の規範的正当化への可能性がある。」


ご指摘の部分とは異なるかもしれませんし、雑誌版とは記述が異なっているかもしれませんが、この部分を読む限り、大屋さんが危害原則の規範的正当化の根拠になり得ると考えているのは、他者の世界解釈を否定することの禁止ではなく、「他者の存在を否定するような解釈」の禁止だと思われます。他者の解釈への批判は(客観的・必然的とされる根拠によるのではなく)個々人の主体的な意思と責任においてなされるものであり、それゆえにこそ、そうした個別的解釈を支える基盤(危害原則)が維持されなくてはならない、ということでしょうか。このように読むならばそれなりに筋は通っているように思えるのですが、いかがでしょう。他者の「世界解釈を否定してはならない」と言っているとなると確かに論旨が混乱するように思えますので、雑誌版に当たって確認する必要があるかもしれません(あるいは別の箇所でしょうか)。


上記の私の読みを前提にして言いますと、確かに下地さんの枠組みでは「他者の存在を否定するような解釈」の禁止が先に立つように思えます(但し、ここでの「他者」は当該社会のメンバーに限定されますが)。とはいえ、下地さんも規範的論争が「神々の争い」であること(=個々の解釈を尊重しなくてはならないということ)を議論の出発点に据えていますから、その限りでは大屋さんとの差異はあまり無いとも言えます。メンバー選択の恣意性=原初的暴力の消去不可能性を受け入れていることといい、両者が理論的に対立する部分は割りと限定的なんですよね。その限定的差異が決定的なのだとも言えるかもしれませんが。


ご指摘の二点目については、もっともであると思います。ただ、そうしたコミットはあくまで個々の主体的な意思と責任においてなされるしかない、というのが著者の立場なのでしょう。「むしろ何も我々に本質的に課せられたものがないならば、重要なのは我々が(私が)私の責任において、私の意志において、何を正当なものと看做すかという実存的決断である。そして仮に理論的な基礎付けや科学的様式を正しいもの、望ましいものと考えるならば(私自身はそのように信じているが)、必要なのはそれが正しいという信念に可能な限り多くの人々の同意を得ること、真理へと人々を誘惑することなのであ」る(203頁)、と述べられていることですし(引用文中、傍点を全て省略しました)。


2007/03/15(木) 15:01:04 | URL | きはむ #- [ 編集]


ありがとうございます。
詳細に応答を頂きありがとうございました。


コメントさせていただいたのは引用していただいている部分です。当該箇所には雑誌版と引用されておられる版との異同はありませんでした。


たしかにご指摘の通り、私の読み方は正確ではありませんでした。他者危害原則が「他者の存在を否定するような解釈の禁止」によって根拠づけられる可能性がある、ということでしたら、仰るとおり、それなりに筋が通っているように思えます。


ただ、「他者の存在を否定するような解釈」が禁止される理由には、「個々の解釈を尊重しなくてはならないという根拠が前提とされる世界像にある以上」という条件がつけられています。「根拠が前提とされる世界像にある」という部分の文法的つながりは読み取りにくいですが、この文法的つながりをどう読んでも、「他者の解釈を尊重しなければならない」という世界像が、「他者の存在を否定し(危害を加え)てはならない」という原則を根拠づける可能性がある、という関係は変わらないと思います。
私の疑問は単純で、大屋さんの議論では、他者の「解釈」を尊重しなくてはならないという点が、他者の「存在」を否定の禁止を根拠づけるような形になっているけれども(あるいは両者は曖昧だが)、それはいかにも奇妙な話ではないか、という点にあります。きはむさんも留保されておられるとおり、危害原則が「その人の解釈は唾棄すべきだが、その存在を否定してはならない」と言えないような原則ならば(個々の「解釈の尊重」の上位(あるいはその根拠)に「存在の否定の禁止」を置かないならば)、「他者の存在を否定する解釈」を批判することはできなくなるからです。


二つ目については応答いただいたとおりだと思います。
2007/03/15(木) 18:48:54 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]


雑誌版との異同についての確認を取ることが出来てよかったです。こういう意図で書いていらっしゃるのかな、という感触は何となくあったのですが、何しろ文章(+内容)がややこしいので正確を期したいという思いがあったものですから。改めて補足説明していただいた分、一層わかりやすくなりました。ありがとうございます。


さて、hottaさんの問題提起を端的にまとめると、「他者の解釈の尊重」と「他者存在の否定の禁止」の間では、どちらが論理的に先行するのか、ということだと思います。そしてhottaさんは、後者が予め受け入れられていなければ、「他者の存在を否定するような解釈」も尊重されなければならなくなってしまうので、前者から後者を導く大屋式議論は妥当ではない、という立場を採られる。


しかし、私が理解する限りでは、「個々の解釈を尊重しなくてはならない」から「他者の存在を否定するような解釈は禁止されることになるのではないか」という記述は、多分に曖昧であるために解りにくいですが、おそらく「個々の解釈を尊重するためには他者の存在を否定するような解釈は禁止される必要がある」とでも変換して読むべきであると思います。この場合、他者の解釈の尊重が他者存在の否定の禁止を「根拠づける」という形には必ずしもなっておらず、どちらかの原理が先行するというよりも同時的に要請されることになり、hottaさんの疑問は実質的に解消されるのではないでしょうか。


思うに、ここでの大屋式議論は、自由主義リベラリズムのスタンダードな流れに位置する人々が割合広く共有している認識とかなり重なるもののように思われます。例えば長谷部恭男などは、それこそ多様な人々が有する個々の解釈(価値)を尊重するための枠組みがリベラル・デモクラシーであり、その枠組みを破壊する者に対して不寛容が貫かれるのは当然である、と明示的に述べています。長谷部と大屋さんでは理論的に対立する芽も沢山ありそうですが、少なくともこの点に関しては、大屋さんの立場は比較的一般的なものなのではないでしょうか。


もちろん一般的であるから正しいなどと言うつもりはありません。ただ、長谷部の議論などを見ても、個々の解釈の尊重と他者存在の否定の禁止は、いわばセットとして同時に成立すべきものと考えられており、それゆえ先のように大屋さんの記述を変換することは意図の歪曲にはならないと思います。思えば危害原則とは、単に他者へ危害を加えることを禁じる原則ではなく、他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)、という原則でしたから、その中では最初からセットなんですよね。
2007/03/16(金) 16:58:54 | URL | きはむ #- [ 編集]


>何しろ文章(+内容)がややこしいので


大屋さんの文章のことです。念の為。
2007/03/16(金) 17:01:05 | URL | きはむ #- [ 編集]


ありがとうございました。


仰るとおり、大屋さんの議論はとくにこの部分は「多分に曖昧」だと思います。そしてご指摘の、他者の解釈(価値観)の尊重と存在の否定の禁止が「セット」で要請されているという点、了解いたしました。たしかにそのように理解すれば、大屋さんの議論を、解釈尊重原理が存在否定禁止原理を根拠づけるあるいは基礎づける、という形式で理解した限りでの私の疑義は、解消されると言えると思います。


ただ、それでもやはり申し上げたいのは、「他者の解釈を尊重するためにはその存在を否定するような解釈は禁止される」ということと、「他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)」という危害原則では違いがある、ということです。


危害原則は、まとめていただいている通り、「他者に危害を加えない限り、何をして(考えて)もよい」ということです。これは、「何をして(考えて)もよい」という自由が、「他者に危害を加えない限りで」という原則に制約されている、あるいは条件づけられている、ということです。「他者の解釈を尊重すべし」という原則は、「他者の存在を否定すべからず(害すべからず)」という原則が遵守されている範囲内でのみ妥当する、と言ってもよいでしょう。危害原則は、解釈尊重原則と危害禁止原則とのあいだに、優先順位を設けています。だから、たとえ解釈尊重原則が守られていなくても危害禁止原則は守られるべきである、ということになります(全くその「世界解釈」を尊重できない相手に対しても、その者が他者に危害を加えていない限り、その者を拘束したり危害を加えてはならない、と言えます)。


それに対して、解釈尊重規範と存在否定禁止規範が「セット」であるとすると、この条件づけ関係あるいは両者の優先順位は解消してしまうと思います。


もちろん、「存在の否定」とは何かとか「危害」とは何か、に関しては具体的には様々な問題があると思います。しかしいずれにしても、この箇所に限って言えば、私は大屋さんの議論は成功していない(というよりもむしろ失敗している)と言わざるを得ないと思います。
2007/03/16(金) 18:23:51 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]


解釈(価値)の否定と存在の否定
hottaです。少しだけ補足させていただきたいと思います。


はきむさんによる的確なコメントとまとめによって、私自身も、大屋さんの議論のどこが問題だったのか、をクリアに理解できるようになったと思います。横からのコメントに真摯に応答していただき、ありがとうございました。


問題はやはり、その人の「解釈を否定する」ことと「存在を否定する」こととの関係にあるでしょう。あるいは「解釈」や「危害」という語の意味に関わっていると言えるでしょう。


両者の関係は、一方の肯定と他方の否定の連言を考えてみることで、ある程度理解できるでしょう。「解釈の否定」がすなわち「存在の否定(危害)」である、とは言えませんが、「存在の否定(危害)」はほとんど定義的に、その相手の世界「解釈の余地を否定」します。「解釈の否定」がすなわち「存在の否定(危害)」であるとは言えないならば、解釈を否定・却下しつつも、しかし危害を加えない、という事態が成立しうることになります。実際、私はしばしば、ある事態に対する特定の人の解釈(や考え方や価値観)を否定しますが、それがその相手に「危害を加えている」ことになる、などとは思いませんし、思えません。そして、ある解釈を否定することは、それを「否定する解釈」が事態に即して正しく、そして同時に「危害を加えて」いないならば、一般的に許容されます。しかし、その逆、つまり、「危害を加え」つつ「解釈を否定しない」ような事態が成立しうる、とは普通は思えません。


以上から、「解釈(価値)の尊重」と「存在の肯定」とが「セット」であるという、はきむさんによる大屋さんの議論の(いわば最善の)解釈も、両者の関係の的確な理解ではない、ということになると思います。
2007/03/17(土) 00:20:56 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]


私のコメントが的確であったかどうか、あまり自信は無いですが、わずかなりともお役に立つことが出来たのなら嬉しいです。


今回ご指摘の内容は、解釈尊重原則と危害禁止原則をセットとして理解すると、危害禁止原則が解釈尊重原則の制約条件になっている危害原則における論理的関係とのズレが生じる、というものかと思います。この点、私もそうかなと思うところが全く無いわけではないです。また、他者の解釈を否定すること(尊重しないこと)はその存在を否定することを意味しないということは当然仰るとおりであると思います。


ただ、私は大屋さんが言う解釈の「尊重」とは、かなり弱い意味で使われているのではないかという気がしているんですね。これも曖昧な書き方に発する問題ですが、つまりここでの「尊重」とは、前段にあるように個々の主体は独自に解釈を行うものであり、それに対して何らかの客観的(絶対的)根拠を持ち出して干渉することは出来ず、批判その他の干渉は個々の主体的責任で行われるものでしかないことを認めなくてはならないこと(つまり根元的規約主義)を意味するにすぎないのではないか。したがって、ここでの解釈尊重原則は、他者の解釈の中身を尊重しなければならないということではなく、他者が解釈する存在であることを認め、その解釈行為それ自体を尊重しなければならないということになる。


そうだとすれば、他者の解釈行為を尊重することが要請するのは解釈行為を妨げる危害行為を禁止することぐらいになりますから、「他者の解釈を尊重するためにはその存在を否定するような解釈は禁止される」ということと、「他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)」という危害原則との間には、ほとんどズレがないことになるでしょう。もっとも、このように考えると解釈尊重原則と危害禁止原則はセットと言うより一体的なもののように思われてきますが。
2007/03/17(土) 14:03:20 | URL | きはむ #- [ 編集]


応答ありがとうございます。


先のコメントできはむさんを「はきむ」さんと呼び間違えていました。大変失礼いたしました。


解釈内容と解釈行為(解釈する存在)は異なるとは思いますが、こういうことでしょうか。「独自の解釈に対して客観的根拠を持ち出して干渉できない/すべきでない」ということは、「何が危害であるか」について当人の「解釈」を超えて客観的に規定/限定してしまうことを禁止することである。そして、「何が危害であるか」について、当人の解釈を超えて、何らかの客観的根拠に基づいて干渉すること自体、ある種の「危害」である、と。
もしそういう含意だとすれば、たしかに、「何が危害か、は当人の解釈次第である」ということについてオープンエンドにできるという点でメリットはあると思います。ただ、諸刃の刃ではあるかと。そもそもそれが「メリット」になる、と言えるとすれば、その前提には、「通常は危害とされないものでも、当人の解釈では危害になるのかもしれない」という認識があるからです。そこでは、誰が見ても「危害とされるもの」が前提になっています。


逆にもし「何が危害か、は当人の解釈次第である」ということを、客観的な「危害」の定義を拡張する方向性ではなく認めてしまうと、本人が危害と解釈しないものは、いかに「危害」に見えるものでも干渉できない、ということになってしまいます。その立場からは、たとえば「適応的選好形成」等はまったく「問題」にできません。
もし、当人が「危害」と思っていないものでも危害ではないか、と言えるのだとすれば、それは「当人の解釈」を超える何らかの危害がある、と言えるからではないでしょうか。
2007/03/19(月) 00:34:23 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]


いえ、何が危害であるかの問題に踏み込みたかったわけではありません。何が危害であるかもまた、多様な解釈の対象になり得るでしょうが、一般的な危害の定義については個々の主体的解釈の集積から政治的に決定されていくと思います。個別的解釈の多様性にもかかわらず政治的決定を行うことは暴力ですが、このことを大屋さんは認めており、ここでは問題になりません。


ここで問題になっているのは、危害原則という個別的暴力を封じる装置を(暴力的に)強制することの規範的正当化でした。大屋さんは、個別的解釈が多様に行われる基盤(解釈尊重原則)を保障するためには、その基盤を破壊する個別的暴力の禁止(危害禁止原則)が最低限必要なものとして正当化することができると考えたのでしょう。最低限と言うのは、私の解釈によれば、大屋さんがここで前提としている「世界像」は他者の解釈内容の尊重ではなく、解釈行為の尊重を求めるものにすぎず、解釈行為の尊重のためには危害禁止原則で十分だからです。「他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)」という危害原則の下では、危害禁止原則が守られる限り、他者の解釈内容を肯定したり支持したりする必要はありません。そこでは、危害禁止原則が守られている限り、解釈(行為)尊重原則も守られていると言ってよいでしょう。


このように理解すると、既に書いた通り、「「他者の解釈を尊重するためにはその存在を否定するような解釈は禁止される」ということと、「他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)」という危害原則との間には、ほとんどズレがない」と言うことができるように思うのですが、いかがでしょう。


いささか繰り返し気味の記述になり、もしかすると退屈なされたかもしれません。私が問題点を的確に理解していないと感じられたなら、どうぞご遠慮なくご指摘下さい。それから、呼び間違いについては全然気にしていませんので、ご心配なく。
2007/03/20(火) 13:53:01 | URL | きはむ #- [ 編集]


話をズレさせてしまいすみません。
どうしても私も「繰り返し」になってしまいますので、このあたりでやめておいた方がよいのかも知れませんね。


ご指摘の点、つまり、他者が「解釈する存在」であることおよびその「解釈行為」を尊重するための「必要条件」として危害原則がある、というのはもちろんその通りです。しかし逆に、他者が「解釈する存在であるということの尊重」は、「危害を加えるべからず」という原則が成立するための必要条件ではないし、十分条件でもありません。


もし、相手が「解釈する存在である」ということを前提にしない限り、危害を加えてはならない、と言えないならば、相手が「解釈する存在」ではない場合、危害を加えてもよいということになってしまいます。しかしそうは言えないでしょう。「感覚する存在である」ということと「解釈する存在である」ということが同義である、というならば話は別ですが、感覚と解釈は異なります。与えられた感覚に対する「解釈」がある程度可能だとしても、「感覚が与えられた」こと自体について、それも「解釈」次第である、と言うことはできません。


きはむさんの議論では、「解釈する存在であること/解釈行為の尊重」が「危害を加えるべからず」という命題の成立にとって必要か否か、という問いには「必要である」ということになってしまうのに対して、私は(繰り返しで恐縮ですが)、前者は後者にとって必要ではない、と言えるし、言うべきではないかと思います(後者が前者にとって必要条件であるのは当然として)。つまり、両者には明確に「条件づける/づけられる」という優先順序があると思います。
2007/03/23(金) 10:04:35 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]


すみません。間違いがありました。「解釈する存在であることの尊重」は、危害原則の必要条件でも、《十分条件でもない》と書きましたが、十分条件ではあります。解釈する存在であることを尊重しつつ危害を加えることはできないので。それに対して、危害原則は、「解釈する存在であることの尊重」にとって必要条件だが、十分条件ではない、という関係にあります。上の基本的な主旨には変更はありません。
2007/03/23(金) 10:14:27 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]


私の回答が至らないために、何度もコメントさせてしまって申し訳ありません。ご指摘の内容は概ねもっともであると思うのですが、大屋さんの当該文章への批判としては当たらないのではないでしょうか。


大屋さんの論理の筋は、解釈尊重のためには危害禁止が必要であるから、前者を認めるのであれば後者も正当化できるだろう、というものです。Aを実現するためにはBの遂行が必要であるから、Aを求めるならBを正当化可能である、ということですね。すると、この論理展開の限りでは、Bの遂行のためにAの実現が必要であるかどうかは関係ないことになるはずです。


例えば、道路を右側通行にするか左側通行にするかといった調整問題の解決がAだとして、交通ルールがBだとします。調整問題の解決には交通ルールが必要です(ということにしておきます)ので、調整問題の解決を求める人に対して交通ルールを正当化することが可能です。この時、交通ルールの成立のために調整問題の存在が必要であるか否かは無関係ですし、実際調整問題が存在しなくともルールを作ることはできるわけです(調整問題を解決しないルールも有り得ます)。


同じように、ここの文脈では他者への危害を禁止するために解釈行為の尊重(存在)が必要であるか否かは無関係なのではないでしょうか。実際、ご指摘の通り、解釈を行い得ない存在に対しても危害を禁止すべきだとの主張は、極めて一般的であるわけですよね(この点は確かに大屋さんの主張の死角であるかもしれません。この場合に危害禁止をいかなる根拠によって禁止するのかはそれとして一つの大きな問題でしょう)。


結論的に言えば、大屋さんの論理の筋(を私が解釈したもの)からは、「解釈する存在であること/解釈行為の尊重」が「危害を加えるべからず」という命題の成立にとって「必要である」ということになってしまう、ということは無いと思います。回答として十分かどうかは分かりませんが、私が言えるのはこの程度でしょうか。
2007/03/23(金) 18:40:30 | URL | きはむ #- [ 編集]