正しさは社会を良くするか
2007/02/08(木) 19:33:55 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-320.html
パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』(筑摩書房:ちくま新書、2007年)
面白くて、とても良い本である。社会科学との付き合い方について、とても説得的な議論がなされており、『反社会学講座』と併せて大学の「社会科学入門」みたいな講義で是非活用すべきだ。著者は二冊目の著書とその内容をきっかけとした論争でネット上では評判を落としたが、それを理由としてこの本が読まれなかったり、はじめから嘲笑の対象としてネタ化してしまったりするとすれば、残念でならない。私も二冊目の内容はいまひとつだと思ったし、巻末の短編小説みたいなのは意図が不明だったので評価していないが、この本は素晴らしい。700円少々、払って読む価値は十分ある。
最近「ニセ科学」の話題などが盛り上がったが、それを横目で見ながら何か私はスッキリしなかった。人は信じたいものを信じるのだし、論理論理で来られると嫌気が差したり反感を覚えたりするものだ。啓蒙が重要だというのはもっともなのだけれど、「正しさ」だけではやっぱりダメなんだな。そこが難しいところであり、それゆえに批判ではなく「つっこみ」として「ボケ」を笑いに昇華させてあげよう、という著者の考え方なり方向性なりには凄く共感できる。異を唱えるにしても相手をボケ役に回すことによって彼は「笑われる」のではなく「笑わせる」ことになる。相手の顔も立てることが重要なのだ。確かに個別のテーマで誤りや問題点はあるかもしれないし、私自身も「ボケは天才のもの、つっこみは秀才のもの」(大意)という分類には違和感を覚えるが、重要なのはそこじゃない。
本書を貫いているのは「正しさ」そのものへの懐疑であり、それゆえに専門知/世間知みたいなつまらない二分法で切り捨てることは適切でない。何と言うか、確か同じようなことをisedか何かで東/北田/鈴木あたりが話していた記憶があるのだが、「トンデモ」批判的なコミュニケーションが(局所的ではあれ)一種流行になって、「トンデモ」なものを批判なり嘲笑することが自己目的化する(「繋がりの社会性」?)ような場合がある気がして、私はそれはとても不毛だと思う。もちろんニセ科学的なものや誤った言説を正しておくことは重要なのだけれど、時にその作業自体が「正しさ(らしさ)」を基準として相手を見下し自分を高い地位に押し上げるゲームと化しているような印象を受ける場合がある。特に、「トンデモ」批判を読んだ人が「正す人」の尻馬に乗り、自分自身も「トンデモ」なことを言ったり信じたりしている人達に対して無意識にでも優越感を覚えることは好ましいことではないし、それが対象となっている言説や本を聞いたり読んだりしていない場合であれば最悪だ。
これはもちろん自戒を込めて言っている。「トンデモ」なことを言ったり信じたりする人々に対しては、何となく知的レベルが低くて感情的な人々であるようなイメージが貼り付けられる傾向があるが、そんなことよりも「トンデモ」批判をしたり読んだりしている時のお前の優越感情は何なんだと。実際に「トンデモ」な人々(と言ってごめんなさいね)が知的レベルが低かったり感情的であったりしたとしても何なんだと。論理の重視はいいが、論理の信仰はいただけない。少なくとも、研究者達の専門的な「トンデモ」批判を読んで(あるいは読みもせず)無意識にでも優越感情を味わっている「お前」にはこう言っておこう。お前は何者でもないぞ、と。何だか脱線した感が否めないが、とりあえず本書を読んでみて欲しい。

- 作者: パオロ・マッツァリーノ
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/02/06
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コメント
正しさではやっぱりダメなのは、その通りだと思うのですが。何しろ、「人は信じたいものを信じるのだし、論理論理で来られると嫌気が差したり反感を覚えたりするものだ」と決め付ける人につけるクスリはないわけで。
…だったら面白くすればいいってことにはならないですよ。面白いかどうかは、結果に対する責任というきっかけを保障しませんから。
正しさへの懐疑とか言ってるけど、正しさの懐疑という立場自体はどう考えられてるんですか。面白くなければ正しくてもダメっていうとき、面白さってどう考えられてるんですか。
マッツァリーノ氏は間違いなく正しい意図を持って論じてますけど、彼以外の人間が彼の意図を「面白く」理解してくれる保障なんて、どこにあるんです? 「面白くない」結果になったとき、マッツァリーノ氏は自分の広めた「面白さ」重視の見解について、どういう立場をとるつもりなんですかね?正しさから逃げられるのは、神だけですよ。
2007/02/21(水) 06:26:33 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
正しさっていうのは、相手なしでも(相手によらず)成立すると想定されるのに対し、面白いってのは相手によってしまうということが予め明らかである、ということであって…
2007/02/21(水) 09:36:48 | URL | うま #- [ 編集]
>「あいつらはバカだからわかってない」とか、「ここ一連の論調は床屋政談だ」などと自らの正しさを主張した挙句に、コミュニケーションを停止するような愚考は、避けなければなりません。http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_9ef1.html
2007/02/21(水) 20:32:46 | URL | とり #- [ 編集]
>無理ですさん「結果に対する責任というきっかけ」とは何を意味しているのかいまひとつ判然としませんが、後半の文面からその意味を推測してお答えしますと、正しいかどうかを基準にしたところで、言論人が言論の結果に対して責任を取る事を保障可能にはならないでしょう。その点は理解しておられるので「きっかけ」という言葉を使っていらっしゃるのかもしれませんが、責任のとり方というのは個別に判断するもので、正しさ重視だろうが面白さ重視だろうが、一般的な語り方をするのは難しいと思いますよ。実際にそういう状況になった時にパオロがどう振舞うのかを見てご判断なさればよいでしょう。
あと、正しさと面白さは相互排他的ではないです。面白さ重視の罠、解りやすさ重視の罠、というものは確かにありますので悩ましいところですが、面白さ重視の罠を危険視するあまり正しさの壁で囲まれた象牙の塔に引きこもるのは逃げや怠慢でしかありません(特定の誰かを念頭においているわけではないです、念の為)。繰り返して書くように、適材適所でありますので、誰もがパオロのような仕事をする必要はありませんが(その意味で、自身の役割について自覚的な逃げ=別方面へのコミットメントは問題ないと私は思います)、正しさを重視するからといって面白さを忌避すべきではありません。パオロ自身、大衆に媚びる必要はないと言っていますし、面白さ重視の危険性を知らないわけではないでしょう。もちろん、正しさを軽視しているわけでもありません(私も正しさ「だけ」ではダメと書きました)。
2007/02/21(水) 20:44:30 | URL | きはむ #- [ 編集]
>きはむさん【「正しいかどうかを基準にしたところで、言論人が言論の結果に対して責任を取る事を保障可能にはならない、という見方は、その通りだと思うのですが。何しろ、「正しいかどうかを基準にしたところで、言論人が言論の結果に対して責任を取る事を保障可能にはならない」と決め付ける人に責任をとらせるのは場当たり的なわけで。】
《言論人が言論の結果に対して責任をとろうとすることを保障しようとする態度が正しさなのでは。》【】は、2007/02/21(水) 06:26:33 をもじった、「(少なくとも、HN:無理ですから見て)正しい」だけでない揶揄です。この手の揶揄は、一般にみられる「面白さ」(ノリ)の一部ですよね。
マッツァリーノ氏が念頭におく「面白さ」(ノリ)は、より穏当なものですが、実際の「面白さ」はそれに尽きるものではありませんよね。極端な話、「いじめ」をする人は、ある種の「面白さ」のためにそれをやるというのは、周知の事実です。で、「面白さ」の実際がそのようなものであるとき、そこで正しさを媒介とせずに「穏当な面白さ」を前提させる方法ってあるんでしょうか?
マッツァリーノ氏や彼の方向性を支持する人は、まさかこの点について「正しさ」を持ち出すわけにはいかないですよね。だとすると、マッツァリーノ氏(や彼の方向性を支持する人)は、どういう種類の言説と競合することになるんでしょう? 「そういう方向」に流れていくのって、結局不毛だと思いませんか?
また、私は【】に続けて、《》の一文を必ず入れるべきだと思うんですよ。ところで、《》のような説明を付け加える態度は、面白くなく、つまらないものですよね。ですけど、実際には【】だけの文章よりも、相手を立てることになっていませんか?
面白さは相手を立てるもので、論理や正しさは、相手を立てないものだというのは、単なる思い込みに過ぎませんよ。相手をたてる行為の最たるものである「慰め」も、「面白く」やるのではないでしょう。面白くやることそのものが、ある種のやるせなさの共有になるから、「面白さ」が生きるのでしょう?
面白さには、何らかの正しい価値判断が必ず前提されてなければいけないんですよ、身もふたも夢もない話でつまらなくて申し訳ないですけど。だいたい、「正す人」の尻馬にのる言動って、「面白い」からやってるんじゃないのですか。「論理への(正しい)信仰」を「相手の顔も立てることの重要さ」にすげかえるようなマネをした後に、「論理の重視」が残ると本気で思いますか? 私はそんなバカな賭けは全く「つまらない」ものだとしか思えないのですが。
私はマッツァリーノ氏の著書も、彼の言うこともかなり好きです。たしかに彼の言うことは、何より明るく面白いです。でも、すごく見もふたもない話ですけど、それって才能と努力のなせるワザなんですよ。
2007/02/22(木) 00:21:55 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>「無理です」さんいまいち良く分からないのですが、想像で書きます
これまでの議論では、「正しい」という言葉は主に
真善美の「『真』に関する正しさ」を今まで指して
いたと思うんですね「正しさ」という言葉で「『善』に関する正しさ=
正義」のことを指していたんではなくて、ですね…
2007/02/22(木) 00:56:49 | URL | うま #- [ 編集]
>うまさんマッツァリーノ氏は、『つっこみ力』いよいよ発売(2007.2.3) の中で「論理の正しさを啓蒙し、教養を広めることで社会や人間のありかたを正すという、お勉強秀才が好む方法論は、限界に近づいてるんじゃないですか。かといって、論理か情かの二者択一ってのも、極端でいただけない。その落としどころが「おもしろさ」なんです。これからの時代は、正しいだけじゃダメなんです。おもしろくなければね。」と述べてます。左の文章は、論理の正しさ(真偽)と、社会や人間のありかた(善悪)の両面を、「正(しさ)」という語に含めて語っています。うまさんがしたような区別は、マッツァリーノ氏の議論の中で前提になっていません。
また、実践的に考えれば、真に関する正しさは、それに関わる責任(善)と関連付けなければ、意味を持ちません。自己の発言に責任をとらない公的な発言の信用が問題になりうるということは、「正しさ」を、(うまさんのいう)「正義」と分けて考えることを認めない、ということです。
2007/02/22(木) 01:40:16 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
訂正;誤 自己の発言に責任をとらない公的な発言の信用が問題になりうるということは
正 ある発言者が、彼の公的な発言に責任をとらない場合に、彼の発言者としての「信用」が問題になりうるということは(失礼しました。)
2007/02/22(木) 01:42:37 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
どうも、うまさんの区別に答えてしまったために、話がみえにくくなっているので、私なりの理解を付け加えてみます。「正しさ」が、「真偽」と「善悪」という要素によって構成されているとして、それを直接に説く方法論は、マッツァリーノ氏によれば、限界に来ている。これから受け入れられうるのは「おもしろさ」だ、ということになります。
HN:無理ですの考えは、「真偽」や「善悪」がからむ問題について、それらを直接説かずに済ませられ、なおかつ穏当な結果を導く「面白さ」は実際上存在しない、というものです。
2007/02/22(木) 01:51:06 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>「無理です」さん論理の正しさを啓蒙し、教養を広める(手段)→社会や人間のありかたを正す(目的)
という訳で「真が善に結びつくとは限らない場面が多くなっている」と読めるのですが…
氏の本については知らないので、私の印象は当たっていない可能性も大きいとは思いますが…
2007/02/22(木) 01:52:31 | URL | うま #- [ 編集]
>うまさん
うまさんの理解ですと、正される社会や人間のありかたが、善悪ではなく真偽になり、正される人間は啓蒙される主体ではなくて、教化される客体ということになってしまいますが。それだと、どちらかというと、本能に従うのが「正しい」とかいう話であって、啓蒙とは違う考え方になってしまいます。うまさんは、字面の流れだけから手段と目的の関係を見出していますが、それらの間に手段と目的の関係は成り立ちません(例えとして使われるかどうかはともかく)。正される社会や人間のあり方とは、抽象的な「目的」ではなくて、個々の人間そのものですから、論理の正しさ自体がいくら説かれても、真と善が結びつかないのは、もともと次元が違う問題だからで、当然でしょう。「真が善に結びつくとは限らない」のは、それらがそういう概念だからであって、場面がどうとかは関係がありません。マッツァリーノ氏に限らず、一般に啓蒙とか教養とか言われるときに、うまさんのいうような区分を前提する人はいないと思います。
2007/02/22(木) 02:28:12 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
無理ですさん、って凄く頭がいいんですね。僕には全然わからないや。
2007/02/22(木) 05:20:11 | URL | tori #- [ 編集]
基本的に、うまさんの>これまでの議論では、「正しい」という言葉は主に真善美の「『真』に関する正しさ」を今まで指していたと思うんですね
という言が当たっていると思います。真理性と妥当性の問題を明確に切り離せるか否かは一つの論点になり得るかもしれませんが、少なくともパオロの本や私のエントリでは「正しさ」は真理性、または論理的整合性や合理性などの意味で使われていたと思います。
そして、パオロは妥当性、と言うか、それこそ善悪や道義的責任といった日常的感覚レベルでの「正しさ」については、これをかなり重んじていますよ、明らかに。「面白さ」とはそういう日常的感覚に拠って立つものですし、どこまでが笑えてどこからが笑えないのかを決めるのも同じ感覚でしょう。パオロがいじめの現場に出会ったら、普通に注意すると思いますよ、まず間違いなく。『つっこみ力』を読まれたなら、彼が直接的な人間関係を非常に重視していたことを思い出すはずです。彼はむしろそういう日常的感覚レベルでの「正しさ」(と言うべきではないでしょうが)に基づきながら真理性レベルでの「正しさ」の効用を懐疑したのです。
ですから、無理ですさんの心配は、率直に言って杞憂です。パオロの主張をそこまで包括的・排他的に捉えるべきではありませんし、捉えることは出来ません。
実は、このエントリを書くときに「正しさ」の意味を明確化しておくべきか少し考えたのですが、文脈からして誤解可能性は小さいだろうと判断してその作業を怠りました。その限りでの責は私にもあります。でも、パオロには同じ責を求めないであげて下さい。彼はあくまでも戯作者ですから、言葉の綿密な定義を求めすぎるのは無粋です。
2007/02/22(木) 13:29:52 | URL | きはむ #- [ 編集]
>きはむさん私がきはむさんに向けたコメントは、2007/02/22(木) 00:21:55 なのですが、それに全く触れずに、きはむさんにとって都合のよいコメントのみに触れるような態度は、「相手の顔も立てる」ことを説く人のものとは思えないのですが。
まあ、それはいいとして、私は、マッツァリーノ氏本人が、善悪や道義的責任を軽んじていると書いたわけではありません。彼のいう「面白さ」は穏当だとはっきり書いています。私は、彼の書いたものは、現実的な「面白さ」の多様性ゆえに彼の意図する形では伝わらない、彼がいう方向性で社会がよくなると考えるのは無理があると書いたに過ぎません。
きはむさんは、【パオロは妥当性、と言うか、それこそ善悪や道義的責任といった日常的感覚レベルでの「正しさ」については、これをかなり重んじていますよ、明らかに。「面白さ」とはそういう日常的感覚に拠って立つものですし、どこまでが笑えてどこからが笑えないのかを決めるのも同じ感覚でしょう】とあっさり述べていますが、そこでいう「面白さ」が共有されていると素朴に前提できる理由が私には全く分かりません。そんな前提が成り立つんなら、わざわざおもしろさを説かなくも、人は十分におもしろくあるんじゃないでしょうか。
《彼はあくまでも戯作者ですから、言葉の綿密な定義を求めすぎるのは無粋》と書いてますが、問題は、彼が重んじている「日常的感覚レベル」の正しさが、「厳密な定義」なしに、ただ「おもしろく」することで伝わるのか、ということでしょう。
実際、2007/02/22(木) 05:20:11 みたいな文は、これを書いた当人なりの「おもしろさ」があって書いてるんだろうと思うのですが、私は単に「間違っている」し「つまらない」なあ、と思うだけなわけです。でも、彼は多分マッツァリーノ氏のいうことを、評価しているつもりなんですよねぇ。そんなんで本当に問題ないんでしょうか?
いい加減でもいいってのは、そういうことじゃないわけですが、いい加減でいいじゃない、という言い方は、そういうことじゃないことを伝えられませんよね。マッツァリーノ氏やきはむ氏は、「正しさ」の扱い方を軽くすることの結果を軽く見すぎてるんじゃないでしょうか。
2007/02/22(木) 20:55:19 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
あるいはこう書いてもいいかもしれません;「正しさが正しさゆえにスバラシイ」と一般化するのが「つまらない」以上に、「面白さが面白いゆえにスバラシイ」と一般化することは「つまらない」。
面白さも正しさも、たまにやってくるくらいがちょうどよく、基本は「つまらない」けどそれに耐えられる、というラインで、「テキトー」に生きよう、くらいの方が落としどころとしていい。
「おもしろさ」はそれが一般的・肯定的にとらえられると、道徳や論理の比較にならないくらいうっとうしい上にウソくさい。「日常的感覚レベル」での妥当さを保とうとすると、技術や配慮が必要になって、舞台裏が常に「つまらなく」なってくる。マッツァリーノ氏が一般的に説く「おもしろさ」が説得的なのは、彼の本が具体的に「おもしろい」からであって、彼の説く「おもしろさ」におもしろいからではない。「おもしろく」する技術は、配慮と一緒くたになる。マッツァリーノ氏の考え方をフツーに受け取ると、理屈を使った「ためになる配慮」をお互いに受け入れあわない、狭量な性質の人間が、互いに表面的に「おもしろがりあう」関係がどんどん増えていくことになりかねない(もっとも、それでいいという考えなのかもしれないですが)。
マッツァリーノ氏の本の内容を「おもしろく」受けいれる能力は、あくまで「正しく」読む力であって、「おもしろく」受け取る性格の問題ではない(マッツァリーノ氏が、自著に対する学者からの批判に答えている文章を読めば、よくわかります)。
2007/02/22(木) 21:48:21 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>当人なりの「おもしろさ」があって書いてるんだろうと思うのですが、私は単に「間違っている」し「つまらない」なあいえいえ、正直申しますと、私も「無理です」さんの文章についてそう思ったので、ああいう風に応じてみた訳です。
繰り返しますが、面白さは相手に依存することです。真であることとはこの点が違います。ただし、これは真についての通俗的な理解に基づいてはいます。真が相手に依存するか、どうかという点については深入りするだけの準備が私にはありません。
2007/02/22(木) 21:53:44 | URL | tori #- [ 編集]
訂正;(…マッツァリーノ氏が一般的に説く「おもしろさ」が説得的なのは、彼の本が具体的に「おもしろい」からであって…)
誤 彼の説く「おもしろさ」におもしろいからではない。
正 彼の説く「おもしろさ」がおもしろいからではない(「おもしろさ」に期待できるからではない)。(どうもすみません)
2007/02/22(木) 22:00:22 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
> 現実的な「面白さ」の多様性ゆえに彼の意図する形では伝わらない、彼がいう方向性で社会がよくなると考えるのは無理があるう〜ん。単に「人を見て法を説け」でいいんでないの
それとも「善を実現する一般的手続き」を真理として
開発すること(および、その普及)に励むべき?
2007/02/22(木) 22:04:51 | URL | tori #- [ 編集]
>toriさん>いえいえ、正直申しますと、私も「無理です」さんの文章についてそう思ったので、ああいう風に応じてみた訳です。
私は、toriさんが、私の文章が「間違っていて」「つまらない」と思っているにも関わらず、「ああいう風に応じ」たことを指して、単に「間違っている」し「つまらない」なあと書いたのです。後になって「正直申しますと、…」
と述べるような態度は、最初の私の指摘をさらに自ら上書きして証明して見せていることに過ぎません。toriさんが感じる種類の「おもしろさ」を堂々と正当化するような人は、彼の本にこめられた意味なんかてんで理解しませんよ、ってことです。「おもしろさ」が「相手に依存すること」だというのは、むしろ私が批判の根拠として挙げていることであって、マッツァリーノ氏の議論に含まれている帰結ではありません。
2007/02/22(木) 22:07:49 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>toriさん(2007/02/22(木) 22:04:51)>単に「人を見て法を説け」でいいんでないの
マッツァリーノ氏の本は、読者に合わせて自動的にうまい具合に書き換わるんですか?
>それとも「善を実現する一般的手続き」を真理として開発すること(および、その普及)に励むべき?
私はマッツァリーノ氏のように「おもしろさ」を一般的・肯定的に捉えるやり方はうまくいかないよ、と述べているだけなんですが… toriさんは、「HN:無理ですのような意見を述べる人」に対する勝手な思い込みに基づいて書くことを決めてるのではないですか。そういう質問には、どうとも答えようがないです。
2007/02/22(木) 22:14:34 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
まず、私はマッツァンの本を読んでいないのです。ですので、>マッツァンは「おもしろさ」を一般的に捉えている
と仮定を明確にした上で、述べて頂かないと通じないのです。
その仮定の妥当性を私は断ずるつもりはありませんが、通常は
「おもしろさ」というのは一般的なものではなく、相手に依存
するものと捉えられていることが多いと思います。>>マッツァリーノ氏の本は、読者に合わせて自動的にうまい
>>具合に書き換わるんですか
彼なりに読者を想定して書き、その読者が本を手にとって読む
ような工夫をするというだけです。まあ、常識的なことですね。
2007/02/22(木) 22:25:22 | URL | tori #- [ 編集]
>toriさんtoriさんは、「特に、「トンデモ」批判を読んだ人が「正す人」の尻馬に乗り、自分自身も「トンデモ」なことを言ったり信じたりしている人達に対して無意識にでも優越感を覚えることは好ましいことではないし、それが対象となっている言説や本を聞いたり読んだりしていない場合であれば最悪だ。 」という言葉と自分の発言とが整合的か、ちょっとは考えたほうがいいんじゃないでしょうか。
>通常は「おもしろさ」というのは一般的なものではなく、相手に依存するものと捉えられていることが多い
一般的・肯定的と書いたはずなんですが、なぜ「肯定的」を抜かしてるんでしょうか?
「おもしろさ」とは、具体的には「人それぞれから見た、よくあるおもしろさ」のことですから、それを「つまらない」と思うことは、よくある話でしょう。そういう状況を踏まえれば、「おもしろさ」は、一般的・<肯定的>に捉えられないよ、と書いてるのです。
Aさんがある種のおもしろさを前提としているときに、Bさんがそれを前提できないとき、それらの人の間で共有できるおもしろさを決める材料になるのは、結局何らかの意味の「正しさ」です。
「よりおもしろい」という判断が可能なら、その判断は、カンタンにAよりBが「おもしろい」《ことが正しい》、という観点に転化してしまうんです。その場合に、マッツァリーノ氏のやり方だと、うまく対処する方法がありません。おもしろければいい、ではダメだというのは、そういう意味です。●最近の仕事と心を病む優等生(2006.3.1)の後半あたりを読むと、よくわかります。無論、対処できないから「悪い」という気はありません。ただ、「心を病む優等生」が好む面白さは、優等生だけが興ずるところではないだろってことです。toriさんも興ずるだろ、ってことですよ。それと「単に「人を見て法を説け」でいいんでないの」と書いたのと矛盾する前提に立った強弁を、常識と称するのはやめてください。読者を想定した工夫をすることは、「単に」人を見て法を説けで済む、というような話なんですか?
2007/02/22(木) 22:51:28 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
あの、私は読んでないマッツァンの本のことは特に否定(肯定も?)してないんです。(細かい注意ですが、それは私でなくて「きはむ」さんが書いたものです。)>Aさんがある種のおもしろさを前提としているときに、Bさんがそれを前提できないとき
決めるもの何も、そもそも「共有していない」ことを前提にしていて何を決める、というのかよく分かりませんが…
『共有してる部分を見つける』という話なの?全般的に、私の読解力では、どうも「無理です」さんをフォローしていくのに、困難を感じております。
2007/02/22(木) 23:09:00 | URL | tori #- [ 編集]
>toriさん私は、当然、きはむさんの言葉とわかっていて引用したのですが。
そういう風にとぼけるやり方が、きはむさんに好意的に受け取られるかどうか、見物ですね。2007/02/22(木) 05:20:11 ⇒ 2007/02/22(木) 21:53:44 のように書いた後に、なお「全般に、私の読解力では、…」と書くような態度って、私にはマッツァリーノ氏的な感覚から言って、病んでるとしか言えないと思うんですけどね。
そういう人は、結局のところ、元の文章を断片的に引用して、「よくわからない」と断言し、それを「おもしろそう」にみせることしかしませんね。確かにそういう人が他人の意見をフォローすることに困難を感じるのは、当然だろうと思いますよ。
2007/02/22(木) 23:26:53 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
「無理です」さんすこし私の趣味を説明しますね。
「自分がやろうとしていることは正義だと思って、人をイジメている人」を
私はイジメたくなるんですよね。当然、彼にはイジメの自覚がない、と私は思っているのです。そして、私は
『私のイジメ』を通して「君のやっていることは正義じゃない」ってことを
自覚して欲しい、と思っているのね。それでも、私の行為はやっぱりイジメ
なのね。
2007/02/22(木) 23:38:29 | URL | tori #- [ 編集]
後付で妙な合理化を図るのは、非常にみっともないです。
2007/02/22(木) 23:47:39 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
それと、これは私の意見であり、また常識と思いたいところなんですが、自分の行為がイジメだと自覚している場合に、それに別の事情(例えば相手のイジメ)をくっつけて正当化するような人間は、最低だと思います。
2007/02/22(木) 23:58:45 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
「無理です」さんは私にイジメられたと思っている?因みにイジメと言っても「言論」の範囲ですよ
2007/02/23(金) 00:04:08 | URL | tori #- [ 編集]
私は 2007/02/22(木) 23:38:29 に応じただけですが。イジメる/イジメられる の区分を持ち出したのは、toriさんであって、私ではないので、イジメがどうとか考えていません。toriさんの発言はみっともないと思い、そう指摘しただけです。「言論」の範囲、みたいな留保に意味があるなら、そもそも 2007/02/22(木) 23:38:29 のような説明をする実質的な意義がありません。いったいtoriさんは何をしたいのでしょうか。自己正当化ですよね。すごく「つまらない」ですよ。
2007/02/23(金) 00:14:04 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
(たとえネット上の)「言論」の範囲でもイジメってありますよね
2007/02/23(金) 00:17:07 | URL | tori #- [ 編集]
私がそのことを否定したような文章を書きましたか? あまりにも往生際が悪いと言うか…。
私からはこれ以上toriさんに言うことはありません。
2007/02/23(金) 00:20:44 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>私からはこれ以上toriさんに言うことはありません。イジメられるのは、もう嫌だから?
2007/02/23(金) 00:37:47 | URL | tori #- [ 編集]
2007/02/22(木) 23:38:29 以下のやりとりを見れば、(HN:無理ですの意見に賛成できるかどうかに関わり無く)toriさんの発言がおかしいことが明らかです。そして、その点が明らかなら、HN:無理です が、toriさんを相手にしないことは、一般に適当とみなされるだろう(適当とみなされるべきだろう)と判断するからです。この判断が「人は信じたいものを信じるのだし、論理論理で来られると嫌気が差したり反感を覚えたり」する人たちの間で受け入れられるかどうかは知りません。
2007/02/23(金) 00:51:15 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
> toriさんの発言がおかしいだって、これはイジメだもん
2007/02/23(金) 01:16:59 | URL | tori #- [ 編集]
2007/02/22(木) 05:20:11 ⇒ 2007/02/22(木) 21:53:44 のように書いた後に、なお「全般に、私の読解力では、…」と書くような態度をとる人が、そんな風に繊細なフリをしても、何の説得力もないと思います。
2007/02/23(金) 01:29:17 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>きはむさん私からきはむさんに向けた直近のコメントは、2007/02/22(木) 20:55:19 と 2007/02/22(木) 21:48:21 です。
toriさんとのやりとりが長くなってしまったので、明示しておきます。多分、きはむさんを納得させることは難しいのかもしれませんが、私から見ますと、このエントリの流れ自体が、「おもしろさ」を基調とする風潮がどんなものかの、いい縮図になってると思います。
マッツァリーノ氏的な「おもしろさ」は、本当にすばらしい、正しさよりもずっと好ましいと私も思いますが、それが一般的なものかというと、とても疑わしいです。
形式的に「相手を立てる」といえば、「相手への批判をイジメにしたてることもおもしろおかしくやりかねない」という実質に転化するのが、現実的な世の中のありようというものです。
2007/02/23(金) 01:36:59 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>批判をイジメにしたてることえーと、これはあくまで一般論ですが、「相手へのイジメを批判にしたてて真面目に議論する」よりはいいんじゃないかと思います。あくまで、これは一般論ですけどね
2007/02/23(金) 01:45:02 | URL | tori #- [ 編集]
誤 「相手への批判をイジメにしたてることもおもしろおかしくやりかねない」という実質に転化するのが、現実的な世の中のありようというものです。
正 「「自分」とみなす相手からの批判を、イジメにしたてることもおもしろおかしくやりかねない」という実質に転化するのが、現実的な世の中のありようというものです。>toriさん
その部分は書き間違いです。すみません。
2007/02/23(金) 01:47:59 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
あの〜、ここでは私がイジメを実行してるんですが…
2007/02/23(金) 01:53:00 | URL | tori #- [ 編集]
2007/02/23(金) 01:53:00 についてですが、2007/02/22(木) 23:38:29 に、「自分がやろうとしていることは正義だと思って、人をイジメている人」を私はイジメたくなる」と書いてあります。
2007/02/23(金) 02:14:24 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
あ〜、「無理です」さんがここでイジメをしているとは思っていません。別の場所で、正しさを振り回してイジメを正当化される方なのかなあ、と想像してしまったもので、私は「無理です」さんをイジメたくなってしまったんですよね。ここでは「無理です」さんはイジメられる一方ですんで、悪しからず
2007/02/23(金) 02:28:52 | URL | tori #- [ 編集]
もうひとつ付け加えます…。toriさんが、主観的にHN:無理ですのことをイジメているつもりらしいことは分かりましたが、「実行されている」とは思えませんでした。子供じみた嫌がらせを受けても、相手がバカみたいだと思うだけ、というのはよくありますが、まさにそういう感じの印象しか受けませんでした。ただ、不快になりはしたので、それがイジメ(の効果?)なんだといわれれば、まあそうなのかなと思いますが、ネット越しにそういう図式を強調してくる人って、一体なんなのかなぁという感じはします。
2007/02/23(金) 02:34:01 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>toriさんイジメを正当化したのは他でもないtoriさんだと思いますが(2007/02/22(木) 23:38:29)。
別の場所でイジメていると想像して行うイジメって、単なるイジメに過ぎないと思うんですけど。イジメなのに問題がないと考えているんだったら、それは何らかの正しさを振り回してるんでしょうし。
正しさという言葉を使わないぶん、余計タチが悪いし。本当にどうしようもないですね。
2007/02/23(金) 02:42:46 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>きはむさん私からきはむさんに向けた直近のコメントは、2007/02/22(木) 20:55:19、2007/02/22(木) 21:48:21 です。
いったん、2007/02/23(金) 01:36:59 で上のように書いたのですが、その後も toriさんとのやりとりが少しあったので、もう一度断っておきます。
2007/02/23(金) 02:52:19 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
>イジメなのに問題がないと考えているんだったら、それは何らかの正しさを振り回してるんでしょうし。>これまでの議論では、「正しい」という言葉は主に真善美の「『真』に関する正しさ」を今まで指していたと思うんですね
2007/02/23(金) 09:08:54 | URL | どっかい力 #- [ 編集]
何か、楽しそうだなぁ…。他人の家の庭先で勝手に盛り上がらんで下さいよ。あと、誰だ、あんまり関係ないのに稲葉さんの所にURL貼ったのは。まぁ、それはいいとして、無理ですさん、前回と前々回の私のコメントをもう一度お読み下さい。既に十分な回答になっていると思います。前回のコメントは、ご主張全体が誤解に基づく杞憂であるから個別的な答え方をする必要は無い、という判断からああいう形になったのですが、通じませんでしたでしょうか。ご指摘の通り、私自身は相手の顔を立てたり笑いをとったりすることが苦手なのです。つっこみ力不足ですね。めんご。
あと、私は「日常的感覚」や「面白さ」の感覚が共通していることを前提になどしていませんよ。同じ内容でも状況によって笑いが生まれるかどうかは異なりますし、きっと、それだからこそ直接的な人間関係におけるコミュニケーションが重要なのではないかな。
それにしても、パオロの本を巡ってこんなしかめっ面を想像させるような内容の話を続けていること自体が滑稽ですね。どうぞ、肩の力を抜いてくださいよ。『つっこみ力』なんて、そんな眉間にしわ寄せて読むような大した本じゃないですよ。無理ですさん程の方が真剣に採り上げるまでもない下らない戯作じゃないですか。よっ、大統領!(…ほら、苦手だ)。
2007/02/23(金) 14:05:23 | URL | きはむ #- [ 編集]
>きはむさんご自分のエントリの文章をもう一度よく読んで、実際に自身の示した考えどおりに行動できるものなのか、よく検討して見てはいかがでしょうか。語るに落ちるとはよく言ったものですね。
結局のところ、苦手だと言いながら、印象付けを「おもしろく」振りまきながら、自らの「正しさ」を擁護し、相手を嘲笑するようなやり方しか、してないじゃないですか、きはむさんは。
2007/02/23(金) 21:24:14 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
もうひとつ。きはむさんは、自ら「つっこみ力」不足だの、相手を立てるのが苦手だの、自戒を込めてるだのと述べれば、自分が主張した立場との間に齟齬がないかのような態度をとってますが、そのような態度をとる人が、他人に対して「つっこみ力」「相手を立てる」ことを求める実質的な意義って、どんなもんなんでしょうね。きはむさんみたいなタイプの人って、よくいますよね。他人を大事にすることを他人に向かってだけ説くような人。
2007/02/23(金) 21:35:17 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
いやぁ、ついに語るに落ちちゃいましたか、私。それは申し訳ない。至って真面目なのですが。全然面白くないでしょう、私のコメント。嘲笑にもなっていない。いや、お気を悪くされたのなら謝ります。ただ、「お前は結局自分の正しさを主張しているじゃないか」という批判の仕方は当然出て来るものとしても、有効じゃないでしょうね。最初から正しさも大事だと言っているのですし、結果的に「そこまで包括的・排他的に捉えるべきではありません」と言ったことの証明になっていませんか。なっていなかったら申し訳ないですが、はい。それで終わりでいいと思います、この件は。2007/02/23(金) 21:38:35 | URL | きはむ #- [ 編集]
>きはむさんいや、申し訳なく思う必要は全くないですよ。私は、きはむさんの一連の発言がとても「おもしろかった」ので。もっとも、マッツァリーノ氏的でない意味でですけれども。新しいコメントも「おもしろかった」です。「全然面白くないでしょう、私のコメント。」に続けて、「嘲笑にもなってない」が「さりげなく」入ってるとこなんか、最高ですよね。
それと、「最初から正しさも大事と言っているのですし…」とのことですけど、私は、そのような発言に対応するまっとうな実質があるのかと問題にしているのでして、そこを無視して「でもでもぉ、その点はちゃんと断ってるもーん!」の一点張りでは、話にならないと思いますよ。
2007/02/23(金) 21:56:03 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
何というか、こういう(ディス)コミュニケーションは疲れますよねぇ。私のせいですか、そうですか。もう応答責任を切断してもいいのですが、試しにもう少し続けてみます。念の為言っておきますが、嘲笑するつもりがあったわけではないです。これは誤解されても仕方ない書き方でしたね。で、「まっとうな実質」が何を意味しているのか最初から曖昧な気がしているわけですが、それについては私なりに既に答えていると思ったので、前のコメント見て下さいと申し上げているわけです。私の理解力が足りなくて申し訳ないですが、まだ飽きていなかったら改めて論点を整理して下さいますか。こちらが理解できたら答えさせて頂きます。既に飽きていらっしゃったら、これで終わりですね。
2007/02/23(金) 22:22:01 | URL | きはむ #- [ 編集]
これまでに書いた文章で、一応の説明はついていると思います。そもそもきはむさんは、私の「正しさ」の定義について、受け入れ不可能という理由ではなく、単に自分が意図した範疇にないから、というだけの理由で認めず、以降の議論を門前払いする、という対応をしています。「正しさ」を、現実的な意義を意識して扱っているなら、また、これまでにマッツァリーノ氏が書いてきたものを総合的に踏まえるなら、そういう対応には根拠がないはずですが、この点についていちいち説明しないとだめだと突っぱねてくる人に、これ以上まともに応じる気にはなれません。もう一つ、きはむさんは、コミュニケーションに対する「疲れ」という「いかにもまともそうな感覚」を示してみせることで、何がしたいんでしょうか(私は、疲れているかどうかなど、問題にしていないのですが)。実際のところ、そういう言葉は、きはむさん自身の承認欲求、単なる自己正当化の表れにすぎませんよね。だから、「疲れ」るハメになった原因の一端について「私のせいですか、そうですか。」と茶化すようなマネをしたりもするわけで。そういうことをするんだったら、このエントリにあるようなお説教は、やめたらいいんじゃないかと思います。自分に無理なことを、他人に求めるのは、やめたほうがいいということで。
それから、私は、きはむさんの理解力に問題があるとは思っていません。本当は相手について思っていることを、自分に対して言って見せているような面があるなら、そういう面も反省したらいいんじゃないかな、くらいには思っていますが。
2007/02/24(土) 02:26:22 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
訂正;私の「正しさ」の定義 → 私が「正しさ」に含めた意味内容
2007/02/24(土) 02:33:26 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
やはり通じていませんね。煩雑になりますが、以下、確認です。>面白いかどうかは、結果に対する責任というきっかけを保障しませんから。
>マッツァリーノ氏は間違いなく正しい意図を持って論じてますけど、彼以外の人間が彼の意図を「面白く」理解してくれる保障なんて、どこにあるんです? 「面白くない」結果になったとき、マッツァリーノ氏は自分の広めた「面白さ」重視の見解について、どういう立場をとるつもりなんですかね?
「正しいかどうかを基準にしたところで、言論人が言論の結果に対して責任を取る事を保障可能にはならないでしょう。その点は理解しておられるので「きっかけ」という言葉を使っていらっしゃるのかもしれませんが、責任のとり方というのは個別に判断するもので、正しさ重視だろうが面白さ重視だろうが、一般的な語り方をするのは難しいと思いますよ。実際にそういう状況になった時にパオロがどう振舞うのかを見てご判断なさればよいでしょう」。
>マッツァリーノ氏が念頭におく「面白さ」(ノリ)は、より穏当なものですが、実際の「面白さ」はそれに尽きるものではありませんよね。極端な話、「いじめ」をする人は、ある種の「面白さ」のためにそれをやるというのは、周知の事実です。で、「面白さ」の実際がそのようなものであるとき、そこで正しさを媒介とせずに「穏当な面白さ」を前提させる方法ってあるんでしょうか?
ありません。「パオロがいじめの現場に出会ったら、普通に注意すると思いますよ、まず間違いなく。『つっこみ力』を読まれたなら、彼が直接的な人間関係を非常に重視していたことを思い出すはずです。彼はむしろそういう日常的感覚レベルでの「正しさ」(と言うべきではないでしょうが)に基づきながら真理性レベルでの「正しさ」の効用を懐疑したのです」。
>マッツァリーノ氏や彼の方向性を支持する人は、まさかこの点について「正しさ」を持ち出すわけにはいかないですよね。
上記の通り、持ち出します。
>面白さには、何らかの正しい価値判断が必ず前提されてなければいけないんですよ、身もふたも夢もない話でつまらなくて申し訳ないですけど。
上記の通り、同意します。
>「面白さ」が共有されていると素朴に前提できる理由が私には全く分かりません。
「私は「日常的感覚」や「面白さ」の感覚が共通していることを前提になどしていませんよ」。
>まあ、それはいいとして、私は、マッツァリーノ氏本人が、善悪や道義的責任を軽んじていると書いたわけではありません。彼のいう「面白さ」は穏当だとはっきり書いています。私は、彼の書いたものは、現実的な「面白さ」の多様性ゆえに彼の意図する形では伝わらない、彼がいう方向性で社会がよくなると考えるのは無理があると書いたに過ぎません。
>《彼はあくまでも戯作者ですから、言葉の綿密な定義を求めすぎるのは無粋》と書いてますが、問題は、彼が重んじている「日常的感覚レベル」の正しさが、「厳密な定義」なしに、ただ「おもしろく」することで伝わるのか、ということでしょう。
「同じ内容でも状況によって笑いが生まれるかどうかは異なりますし、きっと、それだからこそ直接的な人間関係におけるコミュニケーションが重要なのではないかな」。パオロが対人関係についての叙述にページを割いていたことを思い出してください。真理性ではない意味での「正しさ」、「面白さ」の感覚が依拠するそれは、何も言説活動だけに現れるわけではないのです。まして戯作だけで社会を良くできるわけないでしょう。無理ですさんは総じてパオロの意図や主張を過大に捉えて過剰に警戒しすぎなのです。私が「パオロの主張をそこまで包括的・排他的に捉えるべきではありませんし、捉えることは出来ません」とか、「無理ですさん程の方が真剣に採り上げるまでもない下らない戯作」などと言った所以です。
>「おもしろく」する技術は、配慮と一緒くたになる。マッツァリーノ氏の考え方をフツーに受け取ると、理屈を使った「ためになる配慮」をお互いに受け入れあわない、狭量な性質の人間が、互いに表面的に「おもしろがりあう」関係がどんどん増えていくことになりかねない(もっとも、それでいいという考えなのかもしれないですが)。
直接的な対人関係を重視する『つっこみ力』が素直に読まれることを前提にすれば、そうした心配は杞憂です。
――――
あとは些末な点です。
>マッツァリーノ氏が一般的に説く「おもしろさ」が説得的なのは、彼の本が具体的に「おもしろい」からであって、彼の説く「おもしろさ」におもしろいからではない。
それはそうでしょう。そして、それで何も問題ありません。
>面白くなければ正しくてもダメっていうとき、面白さってどう考えられてるんですか。
「もちろん、正しさを軽視しているわけでもありません(私も正しさ「だけ」ではダメと書きました)」。
>面白さは相手を立てるもので、論理や正しさは、相手を立てないものだというのは、単なる思い込みに過ぎませんよ。私は「論理論理」で異論を攻撃することが相手を追い詰める結果になってしまう蓋然性を説いただけであり、そうした必然的関係についての断言はしていません。そしてまた、「パオロの主張をそこまで包括的・排他的に捉えるべきではありませんし、捉えることは出来ません」。
>「正しさが正しさゆえにスバラシイ」と一般化するのが「つまらない」以上に、「面白さが面白いゆえにスバラシイ」と一般化することは「つまらない」。
そうした一般化はしていません。「パオロの主張をそこまで包括的・排他的に捉えるべきではありませんし、捉えることは出来ません」。
>面白さも正しさも、たまにやってくるくらいがちょうどよく、基本は「つまらない」けどそれに耐えられる、というラインで、「テキトー」に生きよう、くらいの方が落としどころとしていい。
決して否定しません。「パオロの主張をそこまで包括的・排他的に捉えるべきではありませんし、捉えることは出来ません」。そして、それは趣味の問題です。
>マッツァリーノ氏の本の内容を「おもしろく」受けいれる能力は、あくまで「正しく」読む力であって、「おもしろく」受け取る性格の問題ではない。
戯作ですから、基本的には笑いのセンスの問題です。その前提としての識字能力と読解力は確かに「正しく読む力」でしょうが、だから何なのでしょう。「もちろん、正しさを軽視しているわけでもありません(私も正しさ「だけ」ではダメと書きました)」。「パオロの主張をそこまで包括的・排他的に捉えるべきではありませんし、捉えることは出来ません」。
――――
もう一度確認しますが、パオロの主張を何も面白さ帝国主義みたいに捉える必要はないのです。面白さを履き違えて、いじめなどの笑えないことを始める輩には笑えないと言って直接注意するか、つっこみ力で笑いを生みつつ止めさせればいいのです(例えば「いじめ、カッコ悪い」と言うとか)。それだけの話で、何も難しく考える必要はありませんし、過剰に警戒する必要もありません。何度も繰り返すように、「正しさと面白さは相互排他的ではな」く、笑いを生むことの出来ない人も笑いを拒絶・忌避せず、笑いに開かれていればよいのですから。
但し、パオロの主張と私の解釈・主張が一致しない可能性はもちろんあります。パオロが面白さ帝国主義に陥るのなら、私も批判します。ただ、彼がそう見えるような言い方をしたとしても、それが戯作である以上、ある程度まではギャグとして捉える必要もまたあるのですが…。
2007/02/24(土) 17:51:22 | URL | きはむ #- [ 編集]
きはむさん、このエントリにご自分が示した立場を信じているなら、2007/02/23(金) 22:22:01 のようなことを述べたら、そこでやめておくのが賢明だと思いますよ。私の 2007/02/24(土) 02:26:22 を受けて、2007/02/24(土) 17:51:22 のような対応をすることは、結局のところ、きはむさんが「正しさ」に固執していることのあらわれであることは、もはや明らかとしか言えないでしょう。口先でだの「おもしろさ」だの「相手を立てる」だの言うのは簡単ですが、実質を伴わせるのはとても大変できついことですよ。
きはむさんは当初、明らかに私をバカにしてかかりましたよね。だからこんなことになったんですよ。
2007/02/24(土) 19:47:07 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
訂正;口先でだの → 口先で
(どうもすみません)
2007/02/24(土) 19:51:28 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
妄想か?現実化w
2007/02/24(土) 20:24:10 | URL | タカトシ #- [ 編集]
うーん、通じない…。
2007/02/24(土) 23:16:36 | URL | きはむ #- [ 編集]
きはむさん、2007/02/24(土) 19:47:07 に対して、2007/02/24(土) 23:16:36 のような反応をすることを、「通じない」と言うんですよ。
2007/02/25(日) 00:53:22 | URL | 無理です #JalddpaA [ 編集]
うーん、さすがスネオ系だ…。
2007/02/25(日) 01:45:56 | URL | 比ヤング #- [ 編集]