倫理学には入門する価値があるか


動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門


科学哲学の啓蒙書や論理的思考の指南書などで好評を得ている著者が*1、「なぜ動物は殺してよいのか」「動物に人間と同じ権利が認められないのはなぜか」などの問いを含む動物解放論を中心とした応用倫理学的問題系について語りながら、倫理学そのもの(メタ倫理学・規範倫理学)の展開と分布を説いていく入門書。扱われている範囲は広大であるが、文章は平易であり、文献案内も充実している。

すなわち良書である。が、つまらない。倫理学への導入を助ける一冊として、一般的には迷い無く推薦できる水準と言えようが、私にとっては心底退屈な本だった。序盤から既に辛く、中途半端な知識を補完するために頑張って通読しようと志していたのだが、結局半ばまで至ったところで、ひとまず読み終えた気になることにして済ませた。


思うに、このつまらなさは倫理学そのものの所為である。分野の一級の本がつまらないということは、そういうことだろう。それでも敢えて著者の問題に属することを指摘するなら、生き死にの事柄が論じられながら、生命の手触りが感じられないという点になろうか。私たちの社会の極めて根源的な部分が語られているはずなのに、ヒリヒリするような焦熱も、ゾッとするような戦慄も感じられない。それは批判されるべきことではないかもしれないが、果たして満足されてよいことなのだろうか。

もっとも、この点は著者自身の如才無さだけに由来するのではなく、英米系の分析哲学の流れを汲む倫理学そのものに由来しているのだと言える部分が大きかろう。分析哲学的思考の多くは、特有の屈託の無さで想像の箱庭の隅々を照らして見せ、時に極めてグロテスクな論理的可能性を呈することにも怯まないが、そのグロテスクさを生きようとすることはしない。彼らがコミットしようとするのはあくまで論理のパズルであり、生き死にそのものではない。そこで展開されるのは、いかにして自らの手を汚さずして生きることができる(と信じることができる)か、という課題への従事以上ではない。殺したり殺されたりする現実が、自らのこととして引き受けられることはない。

本書では様々な立場が採り上げられており、その論理的拡散は豊かだが、落とし所は大概知れたものだという印象を受ける*2。入門書としての性質から、著者は細部の議論は避けるとの方針を示しているが、本文で検討される主張間の差異の多くも十分細密で、云々することの意味がほとんど感じられない場合に事欠かない。それでいて、このような可能性はなぜ考慮されないのか、と気持ちの悪さを感じさせられる場面にも出くわす。これは、単に私が倫理学とウマが合わない、というだけの問題なのだろうか。


個人的には、相対主義の扱いにおける相変わらずの進歩の無さに落胆させられた(11-12頁)。率直に言って、この部分は相対主義論一般の中でも水準が低い。それから利己主義(第4章)については、進化倫理学(内藤淳など)と倫理的利己主義(永井均など)を批判して心理的利己主義(シュティルナー)を擁護する仕事が必要なのかな、と感じた。それが倫理学の不毛を清算し、政治学へ/を前進させることにも繋がるだろう。相対主義と利己主義についての私の見解は、「倫理学の根本問題」の参照を乞う。本書での一貫した話題である動物その他への道徳適用の可能性と是非については、特に新しい刺激は無く、今のところ、修論の第3章で展開した議論はまだまだ通用するな、との思いを強くした。

*1:

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

*2:その風景は、どこか憲法学を思わせる(!)。