社会の個人化と個人の断片化


よく知らないのだが、最近twitterなるものの存在が目に入ることが多くなった。思い付いたことを思い付いた時に書き込んでいくものであり、ブログをより刹那的にしたものだと捉えてよいだろうか。

こういうツールは、素朴に見て、個人の通時的流動性(すなわち人格同一性の相対性)の意識化を促進させるように思える。ブログなら、ある程度考えをまとめてから書くだろうが、1行でいいから即座に書き付けていくなら、整合性とか気にせずに書けるわけだろう。すると、後から見ると自分の中の変化や矛盾や多様性を感じやすくなるのではないか。

使ったことがあるわけでも日常的に読んでいるわけでもないから、実際には分からない。でも自分のことを考えてみても、単にPCの前で長時間作業しているだけでも、当座には全然重要でないが気になったことを瞬時に検索して調べられるわけだし、パブリックなこともプライベートなことも仕事のことも趣味のことも同時並行的にこなせるということの意味は、あんまり軽くない。

今私の目の前にあるツールが無い時代には時間的・空間的にパブリック/プライベート、仕事/趣味は比較的画然と区切られていたはずで、それぞれのキャラやらペルソナやらがあるとしても、それは文脈ごとに割合統合的だっただろう。もちろん仕事しながらアフター5のことも考えているにしても、仕事の間に具体的なアクションを起こせたわけではない(電話ぐらいだろう――これもツールなのは言わずもがな)。対するに、今はそういう切り替えが瞬時に行われて、仕事(作業)してんだかリラックスしてんだか何だか不分明な時間が結構多い(人が多くなった)。解離というものの現代性も解る気がするし、ギートステイトってこういうことだったのかなと今更ながら思わないでもない。


でも、そういう個人の断片化みたいな話は理解しやすいんだけど、私が混乱するのは、その一方で時効制度への否定的見解が強まっているのをどう考えたらいいんだ、ということ。時効制度の有意義性を否定するということは、個人の通時的流動性を軽んじて統合性を重んじ、人格的同一性を絶対的に捉える立場に連なることを意味する。それは個人の断片化傾向と矛盾するではないか。この問題は結構前から気になっているのだが、あまりきれいな答え方はできそうにない。

時効制度への否定的見解が力を得ている背景については、既に一応「司法がより個人的な単位への応答性を高めることが要請される一方で、個人の通時的流動性よりも一貫性が重視されており、こうした事態の両面は、社会が本質化された個人の単位に完結した形で自己理解されるようになっているとの解釈可能性」を提示してみたことがある。これは「覚え書き」シリーズの「親密圏/人権」や「スピリチュアル/アイデンティティ」などでの議論が下敷きにあると思う。

二つの傾向を整合的に理解するための一つの選択肢としては、ポストモダン的な流動性上昇というものは、あらゆる単位に対して、より小さな単位への離合・分解を迫るものだ、と考えることはできるだろう。それが(企業や家族を含む)社会に対しては個人化を、個人に対しては個別のキャラ/ペルソナ、あるいは刹那的な「意識」へとバラけていくことを促しているのだ、と(さらに原子化した個人は「本質化」に向かいやすいことでもあるし)。だから、内的には断片化(刹那化)しつつある個人が、対他的・対外的には統合的人格観を押し出すようになるのは、決して矛盾ではないのだ、と。


さて、どうでしょう。まぁ、これは社会学の仕事なので、私は戯れに思考を巡らしてみるに過ぎない。メディアやキャラ関係の研究は山ほどあると思うが、それだけに終始しているものはあまり読む気になれない。良い本があったら誰か紹介して下さい。