「ニセモノ」ラベリングの意義と限界


2007/02/14(水) 21:51:49 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-323.html

ニセ科学」について、リアルタイムでは本当に「横目」で見ていただけなので、トラックバックを頂いたのを機に改めて少し考えてみようかと思った。それで関連のエントリを辿ってみたのだが、あまりに膨大なので断念する。何か改まって書こうとすると、どうしても科学哲学めいて込み入ってしまうので、やりたくない。何かの折りに見返すこともあるかもしれないので、最低限のリンクだけ貼っておこう。


視点・論点「まん延するニセ科学」@うしとみしよぞ
まん延する「まん延するニセ科学」テンプレ@utiliti


私が「正しさは社会を良くするか」で書いたことは*1、倫理の問題と言うよりは美意識の問題のような気もするし、具体的には、それ自体目的と化した批判が空転して実効性や生産性を失うことを問題にしていたのだと思う。ただ、それよりもっと本質的なところを考えてみるとすれば、「ニセ科学」批判の自己目的化が抱える問題点として何が出て来るだろうか。


一つには、科学的誠実さは「歯切れの悪さ」に宿るとして二分法を批判しながら、批判対象に「ニセ」のラベルを貼り付けることで「ホンモノ/ニセモノ」の二分法を自らなぞってしまう点が挙げられるだろう。


これは仲正昌樹がよく指摘している「二項対立を批判することによる二項対立」みたいな話と同じ構造であり、この種の構造を見つけること自体はそれほど難しくない。ただ、この構造は矛盾と言ってしまえば矛盾であるものの、この矛盾を指摘することが現実問題レベルでどこまで生産的であるかは疑問であるし、それこそわかりにくくなってしまうので、少なくとも(「視点・論点」のような)「啓蒙」の範囲で固執するような問題ではないとは思う。むしろ、そうやって解りやすい二分法で二分法批判に引き込んでおいて、「実はこの批判も二分法でした」的に議論を転倒させるのが賢いやり方なのだろう。


しかしながら、そういう(ある意味)スマートな議論状況になっているのだろうか。全体を見渡すことなどとても出来ないし、あくまで印象論ではあるが、「ホンモノ/ニセモノ」の二分法を転倒させないまま、わりとベタに二項対立図式に乗っかってしまっている人が多いような。「ニセ科学」を批判するという行為そのものが二分法であることなどは自明だと思うので、ほとんどの人は解っててノリでやっているのだと信じるが、どうも最近の「ブログ論壇」を眺めていると「ホンモノ/ニセモノ」的な基準にもたれかかった非寛容な議論の仕方が目立つように思えるのだよな。私の妄想なのだったとしたら嬉しいのだが、「立ち位置ゲーム」をする気はないと書いてから私は何となく自分を仲正・北田対談における仲正に重ね合わせているのだ(念の為言っておくが、あの対談時の真相など全く知らない私が伝え聞く限りで勝手に何となく思っているだけなので、変な邪推しないで欲しい)。

コメント

白か黒か
こんにちは
僕たちは科学とニセ科学とのあいだには(たぶんかなり広い)グレーゾーンがあり、きちんとした境界は引けないのだ、と繰り返し強調しています。ただ、どれほど灰色の領域があったとしても、世の中には「どう見ても黒いもの」や「どう見ても白いもの」はあるではないか、ということです。単純な2項対立の図式ではありません。


2007/02/15(木) 01:40:01 | URL | きくち #mQop/nM. [ 編集]


>科学とニセ科学とのあいだには(たぶんかなり広い)グレーゾーンがあり、きちんとした境界は引けないのだ、と繰り返し強調しています


その強調があんまり効いてないような感じがして


>ほとんどの人は解っててノリでやっているのだと信じるが、どうも最近の「ブログ論壇」を眺めていると「ホンモノ/ニセモノ」的な基準にもたれかかった非寛容な議論の仕方が目立つように思えるのだよな


という妄想になるのではないかと思います。私自身について言えば「これが妄想なのか、どうなのか、色々、確認して回っている」という感じなのかもしれません。
2007/02/15(木) 12:13:48 | URL | うま #- [ 編集]


私なんかは(例えば専門知を使って)世間知をより良いものにするのが啓蒙のような気がします。


専門知=ホンモノ、世間知=ニセモノとラベル付けをして、専門知を使って世間知を叩くというのは少し違うような気がするんですね。
2007/02/15(木) 17:54:22 | URL | うま #- [ 編集]


>菊池さん


はじめまして。啓蒙活動、お疲れ様です。まずはそのお仕事に敬意を払いたいと思います。


コメントの限りでの菊池さんのお立場は、白と黒の間、ホンモノとニセモノの間に、かなり広いグレーゾーンが存在することを認めるとしても、そうした二分法そのものを放棄するべきではない、ということだと理解しました。


この点について、私よりもっと詳しい方が沢山いるはずですし、私自身「ニセ科学」批判そのものに水を差したいわけでは別に無いので、あまり突き詰めた話をするつもりはないのですが、構築主義(あるいは相対主義)などの立場からは素直には受け入れられない立場なのではないかと思います。それこそ歴史やジェンダーの問題に引き付けて考えるとすればどうなるか、既に山ほど議論があるでしょう。


私自身としては、「どう見ても黒いもの」や「どう見ても白いもの」があるように思えることは認めるとしても、それは最終的には、そう「見える」「思える」ということである、とは言っておきたいですし、この点は忘れてはならないことだと思います。ただ、後段を過度に強調はしません。現実問題に対応する場合と理論的に突き詰めて考える場合の議論レベルを分けることは必要ですから。もちろん、便宜ばかりに引っ張られて突き詰めた議論の不在が続けば、よからぬ事態を招きかねないとは思いますが。


私がこんな事を書いているのは、よからぬ事態まで行き着かないように、異なる議論レベルの方から袖を引っ張ってみる、という感じでしょうか。引っ張るタイミングと引っ張り方が妥当かどうか分かりませんが。いずれにしても、菊池さん達による啓蒙活動そのものは非常に意義深いものだと思って好意的に見ているので、今後の一層のご活躍を期待しています。


>うまさん


確認完了したら教えて下さい。


2007/02/15(木) 18:38:00 | URL | きはむ #- [ 編集]


すみません。確認は完了するものではないので。語義
矛盾ですか?


当たり前ですが、そういった反応をされる方も少しは
おられようです。(私が少々、誘導している面もあり
ますしね…)ただ、やはり「空気の支配」を感じます
ね。
2007/02/15(木) 19:54:34 | URL | うま #- [ 編集]


結局、現実的にはバランスの問題だとは思うのですが、私自身は人文科学ではなくて、自然科学の方に親しいということがあって、それが他人の振る舞いの中に近親憎悪的に「自然科学帝国主義」を勝手に読み込んでしまう面もあるかもしれません
2007/02/15(木) 20:04:14 | URL | うま #- [ 編集]


>確認は完了するものではないので


そうですか。すみません。
2007/02/15(木) 20:15:57 | URL | きはむ #- [ 編集]


どうも。トラックバックさせていただいた者です。


「倫理的」というのは、自分の身に引き受ける、というような意味に使いました。美意識というのも一種の倫理であるように思います。


僕も菊池さんたちの作業は必要なことだと思いますが、「ニセ科学」という言葉が一人歩きして、なにか踏み絵みたいに使われるとイヤだな、と思うわけです。
なんか最近、左翼でないはずのひとが、左翼の悪いところだけを踏襲するかのようなことをやっているのを見かけることが多いような気がします。それにどうやって歯止めをかけるか、ということだと思うのですが。


2007/02/15(木) 22:21:53 | URL | 甲虫1 #ZcIFEoVM [ 編集]


「グレーゾーンがある」と言っているのが、なぜ「二分法」なのかわかりません。もちろん、「グレーゾーンがあるのだから、ニセ科学と科学という言い方には意味がなく、すべては同等である」とかいうたぐいの「強い相対主義」(言葉が正しいかどうかは知りません)の立場は否定しますが。そういうのは無意味なので。


また、歴史やジェンダーの問題に引きつける必要もないです。あらゆる問題に適用できる万能の処方などないので、歴史は歴史、ジェンダージェンダーでそれぞれに判断のしかたを考えればいいし、それらの境界領域(あるいは共通領域)では、徹底的に頭を捻って考えればよいでしょう。


端的に言えば、僕たちは「現実的な対応」をしたいのであって、観念的なところに踏み込むつもりはないし、定義もしようと思っていないわけです。「どう見ても黒」のうしろに「に見える」が隠れているのは当然だし、それが主観的な判断をともなうことも当然ですが、それが問題になる場合があるなら問題におうじて議論すればいいでしょう。
 

「科学」か「ニセ科学」か、という単純な二分法はあまり役に立たないので、あまりそういう方向に流れてもらいたくはないというのはあります。


2007/02/16(金) 01:13:50 | URL | きくち #HfMzn2gY [ 編集]


ニセ科学の批判として、一般的に言えることは


それぞれの科学的(のように見える?)主張を「グレーゾーン」の中のできるだけ適切な場所に位置づけることに資する


ことであって、それ以上のことは「個別対応」の問題なんだと思います。
2007/02/16(金) 01:29:14 | URL | うま #- [ 編集]


ニセ科学批判の論理的制約
>それ自体目的と化した批判が空転して実効性や生産性を
>失うことを問題にしていたのだと思う


なぜ「ニセ科学批判」に関して特にこの問題が気になるのだろう。


一般的には、自己目的化は「ある範囲を区切ってその中でやる」という処理をすれば問題のある行為ではない。(例えばオタクなど)


しかし、ニセ科学批判の場合にはこのような処理をしてしまうと、自己の目的を裏切ってしまうという逆説を抱えている。(この点はニセ科学に限らず、他の批判でも同じかもしれないが)つまりは、『オタクのように同じ興味を持つ者達だけで閉じることができず、目的を共有しない人々に対しても説得的でなければ、何の生産性もない』という制約を負っている。


ところが、科学そのものは、研究対象となる世界を限定して、その対象を理解するという行為であり、『その対象を理解したいという欲求を持たない者には興味を引かない』という現実がある。


ニセ科学の批判は『自己のオタク趣味を非オタクに向かって説くという条件を課されたオタク達』といったような困難を、あらかじめ抱えているのではないか。
2007/02/16(金) 14:16:59 | URL | うま #- [ 編集]


『一つ』の処方箋
>科学者もまた社会から影響を受け、また社会に影響を及ぼす存在である以上、自らの影響力に対してもっと「確信犯」になった方がよいのではないでしょうか。


>そしてもし自分たちが「影響力の拡大と有効活用」という、浅ましく「非科学的」な活動に向かないということであれば、もっといい「用心棒」を雇った方がいいのではないでしょうか。


創価学会と総科学界の違い
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50724736.html
2007/02/16(金) 15:27:04 | URL | うま #- [ 編集]


>甲虫1さん


どうも。私も最近、リフレ派はネット上のマルクス主義になるのだろうか、というような妄想を抱いていたりいなかったりします。


>菊池さん


単純な二分法(強い二分法)ではない二分法(弱い二分法)、といった程度の意味です。まさにグレーゾーンを認めながらも強い相対主義を拒否する立場として使いました。弱くはあっても、一応、二分法ではあるかな、と思ったのですが、まぁ確かに日常的語感ではこれを二分法とは言わないか。


引き付けるか引き付けないかは、議論の範囲をどこに設定するかの問題ですので、まぁ自由かと。あとは仰る通りだと思います。菊池さん達が最初から一貫して「現実的な対応」に終始しているのは理解しております。何度も繰り返している通り、私は「ニセ科学」批判そのものを問題にしているのではなく、「ニセ科学」批判的なものの無反省な流行や自己目的化がはらむ問題について書いているわけですし。どうも、あまり議論の範囲やレベルが整理されていなくて申し訳ないですが。
2007/02/16(金) 17:37:12 | URL | きはむ #- [ 編集]


知の欺瞞
きはむさん、すみません。軒借ります。


そもそも科学にせよ、ニセ科学にせよ、それを受容する一般の人々は「自分の好み」、「自分の興味」に従ってそれを受容しているのである。(正規の学校の授業等を除いて。)


それはアニメ、ゲーム、漫画などのオタク、より一般に趣味と言われるものと変わるところはない。ニセ科学の批判は「ニセアニメ」の批判や「ニセゲーム」の批判と変わるところはないのである。このようなことは他人の趣味の笑う「悪趣味」なこととして了解されるだろう。


しかし、過去においても、これと同じような事態が発生
したことがある。「知の欺瞞」から始まったニセ哲学の
批判である。私はこれに大変な嫌悪を感じたことをよく
覚えている。(嫌悪感を持ったのは「ニセ哲学批判」であって、それ以前の「ソーカル事件」には全く嫌悪感を持たず、むしろ意義のあることとして今でも受け取っている。)恐らく「ニセ科学批判」は私の中で「ニセ哲学批判」に感じた嫌悪を想起させるのである。

          • -


重要な注意:「ニセ科学」が学校の授業の中で科学的な
事実として教えられているとすれば、それは批判される
べきであろう。あるいは「ニセ科学」が詐欺に使われて
いるとすれば、詐欺行為を糾弾し、また注意を喚起する
ことは意味のあることである。その点で、菊池誠氏らの活動は大きな社会的な意義のあるものである、と思う。


ただ、趣味としてニセ科学(または、科学)を受容して
いるだけの人々を批判することには反対したい。ある人
ニセ科学を受容していたとしたら、「それはニセ科学である」という事実の指摘までに止めて、批判や説教は
行わないのが穏当である。もちろん、「悪趣味」を実行する自由はある。しかし、それは悪趣味である、という
ことは指摘しておきたい。


というか、私自身がかなり悪趣味ではあるのだが…
2007/02/16(金) 20:05:07 | URL | うま #- [ 編集]


山形氏?
>リフレ派はネット上のマルクス主義になる


そう言えば、「ネットリフレ派」、「知の欺瞞」、「ニセ科学批判」というのは少しづつ重なってる部分もありますね。
2007/02/16(金) 21:15:14 | URL | うま #- [ 編集]


うまさん、軒を貸すのはいいのですが、私自身はこの妄想話をそろそろ収束させたいです。「雰囲気」を問題にするという性質が大きかったとはいえ、元々の文脈(菊池さん達の言説)を丁寧にフォローしているわけではないのに、印象に頼った議論を広げすぎました。たぶん分かっている人は分かっているのだと思います(信じます)から、妄想が現実とならないように祈りつつ、私の口出しはお終いで。
2007/02/17(土) 16:28:54 | URL | きはむ #- [ 編集]


了解いたしました
2007/02/17(土) 16:33:40 | URL | うま #- [ 編集]


>きはむさん


TAKESAN(さん?)のほうに私が書いたコメントなんですけど、こちらにも補足ということで…


>向こう(kikulog ね)でも書きましたが、私の主旨は

>例えば

http://www.dreampower-jp.com/peace/xmas_messege.html

>については「科学にはなりようもないものを科学として紹介している」という点では批判されて然るべきでしょう。しかし、「考えることを放棄するように勧めている」と読める文章でなく、そのような批判は当たらないと私は思います。ですから、そこまで踏み込んだ批判をしているような印象を与える書き方は避けた方がいい、というものです。

>つまり『水伝について肯定的に書いていれば(…)である』と断定的に考えるのは…略…
2007/02/22(木) 01:02:34 | URL | うま #- [ 編集]


強調されるべき重要なグレーゾーンとして、ニセ科学疑似科学(=SFのようなもの?)の区別(二分法)があると思います


断定的に『貴方の言っていることは、疑似科学ではなくニセ科学だ』と言える場合はそれほど多くはなくて、灰色であることも多いと思います


うま
2007/02/22(木) 20:10:39 | URL | ニセ科学疑似科学… #- [ 編集]

TB


コピペやめてください… http://coleopteran.seesaa.net/article/33845776.html


科学的なるものの概念 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070707/p1