菊池理夫のコミュニタリアニズムについて


2007/02/12(月) 22:49:21 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-322.html

以前書いた通り菊池理夫『日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門』(講談社:講談社現代新書、2007年)は何が言いたいのか、何を批判したいのか、よく解らない本だった。軽く検索してみる限りではさほどの影響力も無さそうなので、そのままにしてもいいのだが、一応、菊池理夫『現代のコミュニタリアニズムと「第三の道」』も読んでみた。相変わらず、どこかぎこちない文章は読みづらいところがあるが、固有名を明示しているだけ、内容的にはよほど見通しがよい。


そして、結局リベラルとコミュニタリアンの差異が曖昧であることが明らかになっている。そもそも菊池もある程度認めているように、コミュニタリアンの側には具体論が豊かとは言えず、曖昧にしている部分が多いために総論賛成的な立場になっている面がある。リバタリアンとは尖鋭に対立しそうだが、後で少し述べるようにそれも結果的には怪しいところがある。リベラルとの対立点と言えば一つには「負荷なき自我」批判だが、「負荷なき自我」的な人間観でよいと開き直る人はあまり多くないのだから、これも総論賛成的になる。すると最後に残るのは「正」と「善」の対立である。


コミュニタリアニズムは、様々な「善」(価値)が自由に追求されるための基盤を成す「正」(正義)を「善」に優先させるリベラルを批判し、社会の「共通善」を重視する立場であるとされている。だが、菊池によれば、現代のコミュニタリアンは熟議を通じて「共通善」に到達することを重視しているのであって、必ずしも予め定まった目的へ至ることを主張しているわけでもないという。ただ、コミュニタリアンはそうした熟議を成り立たせる政治社会を断片化させないためには、共通の目的や意味が必要だと考える。例えば菊池はサンデルを引きながら、「同性愛の権利を認めない人」や「奴隷制度を認める人」を熟議の対等な相手と見做すべきかについて否定的な見解を示している(158頁)。


つまり、予め共通する価値が無ければ、議論は始められないということなのだろう。それならば、話は割合すっきりする。例えば、ホロコーストは無かったと主張する人に言論の自由を認めるべきだろうか、それとも刑罰を与えるべきだろうか。公共的討議に加わる前提としての「共通善」へのコミットを求めるコミュニタリアンであれば、処罰に賛成しそうである。逆に、リベラルは寛容を維持しなければならないだろう。処罰に賛成するリベラルは、コミュニタリアンと大差ない。「価値中立的」なリベラルは、少なくとも現実に他者を脅かさない限りは、不寛容な者にも寛容を貫かねばならない。


だが、そもそもリベラルが「価値中立的」であるというのは神話だと私は思っている。あるいは、その点で政治社会は価値中立的では有り得ないというコミュニタリアンの立場と一致するのかもしれない。でも、たいていのリベラルはその程度のことは解っていると思うのだが。リベラルが「善」に優先させる「正」自体、一つの「善」でなくて何だと言うのだ(「神と正義について」参照*1)。自分の立場が価値中立的だと思っているリベラルはナイーブ過ぎるだろう。だから結局、リベラルとコミュニタリアンの対立というのは、公共的討議を開始する前提となる「共通善」(あるいは「正」)の範囲をどこまでととるかの程度問題だと言ってよいように思う。リバタリアンも含めて、基本的に現代の政治対立というのはリベラルの土俵の上で展開されている。


さて、それでも敢えて、コミュニタリアンの、と言うより菊池の最大の問題点を挙げておきたい。菊池が「ポストモダン左派」と呼んでいるのが酒井隆史渋谷望であることは解ったし、その批判もある程度理解できるのだが、ゲイテッド・コミュニティを巡る酒井批判はやはりいただけない。菊池は酒井が「アメリカの富裕層が外部からの犯罪者などの侵入者を排除するために、要塞化した閉鎖的なコミュニティ」を作り出していることを「コミュニタリアンの夢」であると表現している、として反発する(64頁)。菊池によれば、コミュニタリアンにとっての理想のコミュニティは「所得、人種の異なる人々が日常の生活において出会う公的な場」であり、それゆえサンデルをはじめとするコミュニタリアンはゲイテッド・コミュニティを批判しているのである(66頁)。しかしながら、酒井の文章に当たってみると、菊池のこのような反論が的外れであるか、少なくとも不十分であることが明らかとなる。


 そして最後に(3)インナーシティ、インナーサバーブにおけるセキュリティゾーン・ゲーティッド・コミュニティ。近年、もっとも急速に増加をみせているのがこのタイプのゲーティッド・コミュニティである。このコミュニティでゲートを構築するのは、デヴェロッパーではなく住民であり、犯罪や外部者の侵入からの防衛強化を主要な動機としている。それは選択あるいは商品というより、必要(という住民の感覚)によって構築されている。犯罪や無秩序への恐怖から、住民たちは自らの近隣住区の境界を明確にし、アクセスを制限することによって、コミュニティの感覚や機能を設立し強化しようと試みているのだ。ここではもはや階層は無関係である。最上級階層から最低の階層を横断して、住民たちは砦を建築する。ジョック・ヤングによれば、貧困層によって形成されるバリアは、富裕層によるそれと同じく差別・選別的な場合もあるが、ほとんどの場合、防衛的排除と見なしうる。(中略)
 セキュリティの心理‐論理をもっとも体現するのが、この最後のタイプのものである。ブレークリーたちは次のように述べている。「近隣居住区をゲート設置へと走らせるもの恐怖やストレスがいかなるものであれ、最終目標はコントロールである。恐怖は無力や攻撃されやすさの感覚からやってくる」。また、犯罪がそれほど深刻でない場合も、脅威が現実的にあってもなくても、恐怖はきわめてリアルに感受されるとされている。マイク・デイヴィスは「社会が脅威を認識するのは、犯罪率の高さゆえにではなく、セキュリティという概念が流通した結果」としているが、たしかに恐怖は現実とはほとんど関係がないのである。


酒井隆史『自由論―現在性の系譜学』青土社、2001年、272‐273頁、太字は原文、文献注は省略)


ゲーティッド・コミュニティは従来の<内‐外>の弁証法を基軸に据えた場としての「市民社会」をどこまでも真空化するが、逆に壁に封じられたコミュニティにおいて見事にシミュラークル化された古代ギリシャ的デモクラシーの舞台、あるいは「自主管理」的な市民社会のイメージを生産するのである。マクラフリンらが言うように、要塞コミュニティは、現代社会の「ルーツレス」状況に対するコミュニタリアン的、あるいはもっと一般化すれば、かつての市民のヘゲモニーによる「都市的なもの」の構築や参加型民主主義実現といったヴィジョンを肯定的に満たすものである。住民はもう一度、空間を管理・支配する失われたヘゲモニーを自らの手に取り戻すのだから。


(同、280頁)


以前に『自由論』を途中で投げ出した私が改めてパラパラと頁をめくるだけでこうした文章に出会うのだから、菊池の読みが十分であるとはとても言い難い。もちろん、私はアメリカの実情については全く知識が無いので、酒井が依拠している情報や分析が正確なものであるかどうかは知らない。だが、少なくとも酒井はゲイテッド・コミュニティの構築が階層や人種とは必ずしも関係しない事態についても述べている。菊池はその点に全く触れておらず、おそらく(故意に無視したのでもなく)気づいていない。これで論破した気になってはいけないだろう。


菊池によれば、「現代のコミュニタリアニズムが問題としているのは、(中略)極端な個人主義が強まることによって、コミュニティ的価値が軽視され、社会的な絆が弱まり、コストを負担しないフリーライダーや反社会的な犯罪者が増大していくという動きが現実に強まっていることである」(63‐64頁)。これに対して、酒井は現実の治安状況にかかわらず、他者への恐怖と不安がゲイテッド・コミュニティを呼び寄せる構造を指摘している。つまり、自由と多様性ゆえに「社会的連帯感」が弱まっているという認識に基づく不安からコミュニタリアン的理想に駆り立てられた時、元々の意図とは違っても、結果的にゲイテッド・コミュニティへと行き着いてしまいかねない/しまっている、というストーリーが酒井の論旨(「コミュニタリアンの夢」)であったろう。そして、このようなストーリーは、少なくとも、「日本の治安が悪化していることは間違いないと思います」「日本でもコミュニティの「社会的連帯感」が強いときは治安がよかったのです」としれっと述べてしまう菊池=コミュニタリアンの著作(前掲『日本を甦らせる政治思想』、159‐162頁)において、見事なまでに体現されてしまっているのである(菊池には、とりあえず浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会 誰もが「不審者」?』を薦める)。


ここにおいて、酒井や渋谷がコミュニタリアンリバタリアンの共犯関係を見出すとしても、無理からぬところがある。根拠の無い不安に基づく治安共同体への前進という罠は、コミュニタリアニズムの出発点からしてなかなか逃れ難いかもしれないが、少なくともネオリベラリズムを批判したいのならば、まずは自分の足元を見直してみる必要がある。あと、官製の権力でなければよいと思っているように見えてしまうのも、どうかと思う。町内会構想そのものを否定するつもりはないが、いささか楽観的過ぎないか(総じて、こちらも参照)。


日本を甦らせる政治思想~現代コミュニタリアニズム入門 (講談社現代新書)

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現代のコミュニタリアニズムと「第三の道」 (政治理論のパラダイム転換)

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自由論―現在性の系譜学

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犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

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