確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(1)

目次

1.確率と亡霊(本記事)
2.可能性と単独性
3.唯一者と絶対性
4.政治と未来

1.確率と亡霊


例えば今、此処が爆心地になったとしよう。「敵」は近くに潜んでいた。肉片になった私の名は、石か何かに刻まれる。それは「止むを得ない犠牲necessary cost」であったと、皆が言う。しかし、何が「止むを得な」かったと言うのか?


「止むを得ない」のは、それが私でなくとも、誰かが死なざるを得ないからだ 。つまり、そのコストは、確率的に要請されている。無論、1つしかない「この命」の献上を強いられる者にとって、そのような「止むを得なさnecessity」は、全く馬鹿げたナンセンスでしかない。しかし、大変遺憾ながら、命は既に勘定に入っている。私たちを統治すべき統計=算術は、遺漏なく私たちを頭数に入れてくれている――生かすにせよ、死ぬに任せるにせよ。避けられず必要な――necessary――数値が決まっている時、勘定の内訳に誰が含まれるかということに、「理由などありはしない」。


小島寛之は、J.ロールズの「無知のヴェール」を引き合いに出しながら、そのような確率的な思考法こそが、分配的正義を下支えし得ると論じる。個々の主体の幸福や不遇は、それぞれ偶然の結果でしかない。ならば、例えば「たまたま障害を持って生まれなかった私」から「そうであったかもしれない障害者の私」へ、といった具合に、「「そうであったかもしれない自分」に対する支払い」として、富の移転は強制ではなく、個人の自由意思に基づく事後的な最適化行動だと見なし得る。つまり、生死・病苦・幸不幸は既に――それが誰に振りかかろうと――「勘定に入っている」のだから、「そうであったかもしれない/そうなるかもしれない」自分の姿のためにセキュリティを整えておくことに協力するのは合理的だ、というわけである。人生の確率的な偶然性を前提にして、立場可換的な正義が正当化される。

確かに、正義を語る際には「ありえた/ありうるかもしれない」存在、確率的=可能的な誰か/何か、すなわち「幽霊Geist」について思考すべきではある。しかし、その思考が開くのは分配的正義の正当化可能性であるよりもむしろ、無限の正義の途方もなさのはずである。理論的事実として、死者の権利、過去世代の権利、未来世代の権利、生まれ得たけれども生まれなかった者――「ついえた可能性」――の権利などを構成することには、何の論理的不都合もない。幽霊はいつでも到来し得る。では、確率=幽霊を前に正義について思考するなら、幽霊の権利をこそ求めるべきではないのか?


J.デリダは、まさに「その霊=精神たちを勘定に入れねばならない」と語る。彼によれば、幽霊――「幽霊Gespenst」ないし「亡霊spectre」 ――たちの「尊重」を原理にしない限り、どんな倫理も政治学も不可能であり、正しくない。これはいささか突飛に聞こえるかもしれないが、デリダが示唆するような過去から未来への生殖=世代と相続、そして歴史について想うなら、それほど奇異な主張ではないことに気付くはずである。

デリダは、「もはやここに現前して生きていないあの他者たち、あるいはまだここに現前して生きていないあの他者たち」を幽霊と呼ぶ。その上で、「ここにはいない者たち」に対する「正義のための責任と敬意」がなければ、未来についての問いは立てられないと主張するのである。もちろん、死ぬどころか未だ生きたこともない者たちは、幽霊ですらない。強いて言えばそれは、「幻霊fantôme」とでも名指されるべきかもしれない。映し出された幻影を単なる錯覚として片付ける前に、生を約束されながら現前し得なかった誰か/何かについて考えよう。それは可能的存在の亡霊であり、もちろん幽霊ではないもの、だがせめて「幽霊の幽霊」とでも呼びたくなるような、「ついえた可能性」たちである。私たちがある選択をすることが、それ以外の選択によって生じ得た可能的存在を葬ることだとすれば、私たちは日々、絶えず無数の幻霊や幽霊の幽霊を――後ろだけでなく前にも――生み出していることになるだろう。

デリダが「幽霊」と呼ぶものの中には、霊と言うよりも「妖怪Spuk」、つまり理解不能で、恐ろしく、不気味で、驚きを与える、絶対的な他者としての「お化け」も含まれているように思える。「結局のところ、亡霊とは未来なのであり、つねに来るべきものであり、来るかもしれぬものあるいは再‐来するかもしれぬものとしてしかみずからを現前させることはない。しかし同時にまた、「幽霊はけっして死なない」。それらは常に、私たちの周囲を徘徊し、私たちにつきまとい、取り憑いているのである。


私たちの秩序は、こうした幽霊・亡霊・幻霊や妖怪たちを、すなわち過去および未来における死者や「ついえた可能性」たち、そして相容れない絶対的な「敵」や他者たちを、みな排除することで成り立っている。したがって、幽霊について思考することによって開かれるのは、計算可能な分配的正義の場などではない。確率=幽霊を正しく勘定に入れることは、むしろ私たちの生を脅かす。憑き殺されかねないからだ。私たちはどこかで勘定を止め、正義を断念する――幽霊を振り払う――ことによって秩序を成り立たせるほかない。

小島は、「銀の駒を左下に引いた」ことによって住む家を失わなかった棋士を例に出す。確かに、彼は銀を右下に引けば地位も名誉も全て失っていたかもしれない。だが、右上に出せば、もっと大きな成功を得ていたかもしれない。「こうであったかもしれない未来」は人それぞれ無数にあり、そのどれかを特権化するのは恣意的な読み込みである。特定の幽霊にだけ配慮すべき理由はない。ありえたかもしれない未来の全てに配慮しようとすれば、無限の要求が秩序を破壊する。確率的な思考によって可換的正義を擁護することはそれ自体として誤りではないが、勘定に入れられる限度をも同時に語らないのであれば、政治の消去可能性を無視していることになってしまうだろう。


私が生きているこの現実の周囲には、可能性としては「有り得た」のに、現に「在る」ことはできなかった無数の幽霊が漂っている。それらに取り憑かれながらも、しかし自らの身を譲ってしまっては、私は私でなくなる。必要なのは、幽霊たちを振り払い、踏みにじりながら、現に在るこの私を生きる意志ではないだろうか? 「ありえたかもしれない私」の殺戮によって今の私が成り立っているとすれば、「ありえたかもしれない未来」ではなく、特定の未来、つまり「今・此処」を生きている事実を引き受けることにこそ、存在の価値が在ると言えるだろう。


だが、自ら幽霊たちの中に身を投げてしまう者がいる。重度な障害を持って生まれたために、自分は「生まれてこない方が良かった」と訴え、「生まれない権利」を侵害されたとして医師に損害賠償を請求した「ロングフル・ライフ訴訟」の原告たちは、その一例だろう。自分は他でもあり得た・のに・そうはならなかった・から・不利益を被っている。その「損」はあがなわれるべきだ、と言うのである。ここには、「こう在るべきでなかった現在」から、「有り得た未来」への「生まれ直し」という思想が見られる。

この主張はもちろん間違っている。しかし彼らの誤謬の内で重要なのは、その主張を認めると訴えている本人の存在が不当なものとして消し去られるべきものになるとか、私の出生に先行して「生まれた私」と「生まれなかった私」の利害を比較し得るような視座を持つ主体は存在しない、などといったことではなく、現に在る自分と「有り得た自分」が同じ自分として観念されている点である。


現に在る私のみならず、「生まれなかった場合の私」(あるいは「生まれ得た状態としての私」)もまた自分であり、彼の権利もまた自らの所有下にあると信じて疑わない素朴な横暴さ。それが問題なのだ。たまたま生まれてきた――「きてしまった」のかどうかは知らない――という事実に寄り掛かって、生まれ得たけれども生まれなかった可能的存在たちの独立性を認めず、彼らの可能性の終焉の上に自らの現在が成り立っているという事実を見ようとしない。

今・此処に在ることの価値は、「他でありえた私」といった無数の幽霊たちを、まさに「他」でしかない、「自分ではないもの」として、独立に承認することに基づいている。「生まれ直し」の思想に現れているのは、こうした幽霊たちの存在を、同じ自分として横領的に詐取してはばからない傲岸な仕草にほかならない。


(続く)



付記

  • 本記事については、以下を参照されたい。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100913/p1

  • 本記事の全体版は、下記のサイトから読むことができる。

http://sites.google.com/site/politicaltheoryofegoism/works

  • ブログ掲載にあたり、注を省略している。