確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(2)

目次

1.確率と亡霊
2.可能性と単独性(本記事)
3.唯一者と絶対性
4.政治と未来

2.可能性と単独性


この傲岸さに理論的形象を与えている形而上学的イデオローグは、S.A.クリプキの名で呼ばれている。固有名を現実世界についての複数の「物事がそうでありえた仕方ways things could have been」としての「可能世界possible world」を通じて同じ対象を指示し続ける「固定指示子rigid designator」として捉えたことで知られるこの人物は、固有名を「確定記述definite description」に還元する立場(記述説)を論駁したとされている。

記述説に基づくなら、バラク・オバマという名前は、1961年生まれのアフリカ系アメリカ人であり、ハワイ出身であり、ハーバード・ロー・レビューの編集長を務めたことがある法学者であり、第44代のアメリカ合衆国大統領であり、2009年のノーベル平和賞受賞者であり、云々、といった対象が持つ性質の記述を省略したものである。だが、固有名はそうしたものではない、と彼は主張する。


記述説を修正したJ.R.サールの「記述の束」説に対しても、クリプキの態度は変わらない。サールは、固有名が指示するものは、その名に一般的に結び付けられている記述の内で、十分であるが曖昧で不特定な数の緩やかな束であると考えて、必ずしも全ての記述が確定されていなくてもよいとした。しかしクリプキは、サールが書いた以下のような文章を槍玉に挙げる

私たちが「アリストテレス」という名を引っ込めて、「アレクサンダーの教師」と言うことに同意したとするなら、その時に指示された男がアレクサンダーの教師であることは必然的であるが、アリストテレスがそもそも教育に携わったということは1つの偶然的事実である(もっとも私は、アリストテレスが彼に通常帰属されている諸性質の論理的和、すなわち両立的選言を持つことは必然的事実であると、つまりこれらの諸性質の少なくとも幾つかを持たないどんな個人もアリストテレスではありえない、と提案しているところであるが)。

クリプキによれば、「必然性」の直観的意味に照らして、サールの考えは間違っている。なぜなら私たちは、通常アリストテレスに帰せられているところのあれこれを、あのアリストテレスが全く行わなかったような状況を考えることができる。サールが言うように、それらはあくまでも偶然的事実でしかないからだ。アレクサンダーを教えなかったし、教育にも携わらなかったし、それどころか彼の業績とされているものの何らも行わなかった、そのような反実仮想的状況におけるアリストテレスを、私たちはなお「アリストテレス」と呼ぶ。サールのように考えるなら、このような主体はアリストテレスではないことになるが、それは受け容れられない。ならば必然的なのは、無数の可能性を横断して用いられる固有名「アリストテレス」による対象の名指しそのものであり、彼が通常アリストテレスに帰せられている諸性質を持っていたということではない。これがクリプキの言い分である。


大杉栄は長生きしていたかもしれない」という言明は、何を意味するだろうか。可能世界を現実世界が持つ性質の一種と考える「現実主義」(クリプキら)においては、史上のあの大杉が実際に持っていた性質以外の性質を持ち得た、と解釈される。他方、可能世界を具体的に実在する世界そのものと捉える「可能主義」(D.ルイス)では、現実世界とは異なって実在する可能世界の中に、私たちの知る大杉に似た「対応者counterparts」としての長寿の大杉が存在する、と考える。

こうした分岐に臨んで、ルイスの肩を持つべき理由はないだろう。しかしながら、現実主義の立場を採るにしても、「そうありえた/ありうる仕方」として捉えられた反実仮想的存在が現実の存在と同じであるとは考えられないし、考えるべきでもない。私が「現にもっていた性質以外の性質をももちえたという、当たり前のこと」は、実はそれほど当たり前の考えとは言えない。この私は、私が現に持っている性質ゆえに私であるはずだからだ。憲兵に虐殺されずに震災後を生き抜いた大杉は、もはや私たちの知る大杉とは違うために、大杉ではない。可能世界が実在すると考えるか否かにかかわらず、「そうありえた私」、「そうであったかもしれない私」は、重要な点で中身と状況・背景がよく似ており、その世界の他のどんな事物よりもずっとよく似ているのだけれども、私自身ではないような、「対応者」としてしか考えられない。


クリプキは、「ありえたオバマ」が現実のオバマに「類似similarity」の対応者でしかないのなら、あのバラク・オバマと同じ人間を想定しながら「オバマは大統領にならなかったかもしれない」と気軽に語るような私たちの日常的仕方が誤りになるから、ルイスは間違っていると言う。しかしながら、「私たちの日常的な思考法the way we ordinarily think」が哲学的思考法を直ちに退ける理由になるのであれば、哲学に価値はないし、そこで用いられる限りでの「直観intuition」は、現実を追認するための方便でしかなくなってしまう。

もちろん哲学に価値はある(そう信じる)。日常的な考えの方が誤っているのである。固定指示子の概念を用いたクリプキの議論の難点は、可能世界群を通じて固有名と対象が結び付く根拠が不明な点である。サールにおいては一群の記述に基づいて名と対象を括り付けることができるが、クリプキには指示を可能とする手がかりがないので、名は宙に浮いてしまう。固有名は固定指示子であり、無数の可能世界群を通じて同じ対象を指示し続けると言う。では、現に在るオバマに対して、大統領でも、アメリカ人でも、黒人でも、男性でもなかったオバマを考えよう。その時、名は何に固定されているのか


私たちの知るあのオバマとは全く異なるこのオバマβを、現に在るオバマαと同じ主体であると考えるべき理由がどこにあるのか。「規約stipulation」がその理由になる、とクリプキは言うだろう。つまり、固有名による指示はそもそも規約的に行われるものであり、「もし私がそれについて語っているのならば、私はそれについて語っているのである」、というわけだ。しかし問題は、規約である以上、そのように考えるべき必然性はないということである。規約は何も説明しない。

反実仮想を可能にするのは、一群の共通性、つまり「類似」であって、全くの同一性ではない。類似する事物同士を同一だと感じるのは私たちの日常的感覚であり、社会的・法的な制度は、これらを同一であると「みなす」。しかしだからといって、実際に同一であるとまで考えるべきではない。オバマという固有名が様々な可能世界における「ありえたオバマたち」を一斉に支持できると考えるのは、類似性を同一性と区別しない日常的感覚の延長としての錯覚に過ぎない。可能世界に観念される無数の「ありえたオバマたち」はそれぞれ別の存在であり、彼らが同じ「オバマ」として想像的に呼び出されるのは、あくまでも私たちの暴力的な「みなし」に拠っている。

発話の企図にかかわらず、個々の確定記述が真であるか否かの確証を得ることは、現実には困難である。それにもかかわらず私たちのコミュニケーションが不都合を感じないのは、あらゆる記述は、あくまでも「みなし」として用いられるのが通常だからである。不完全性定理を証明したのが実はゲーデルではなく、シュミットという別の男だったとすれば、不完全性定理の証明者である人として指示を行うために「ゲーデル」という名を使うことは誤りになるか。無論、ならない。私たちは「ゲーデル」という名で不完全性定理を証明したとされる人を名指しているのであって、現にその人が証明したのかについての確証とは無関係に、名指しは成立している。不完全性定理は実はシュミットが証明したのだったと分かった――そのように信念を変更するだけの十分な理由が得られた――時には、名が指示している対象の性質構成が変更されるだけのことである。中身が変わった対象が相変わらず同じ名で呼ばれるとしても、それは指示対象が同じであり続けることにはならない。固有名は対象を意味的に指示するのであって、本質的=必然的に指示するのではない。


「みなし」に基づく記述群、すなわち、対象を認識する側によって思われ、信じられている性質群が、名と対象を結び付け、指示を可能にする。固有名とは、他なる存在との差異関係に基づいて世界から切り出された一群の性質に対して、認識する側がそれを一個のまとまりとして感覚的・制度的に「みなす」ことによって、対象に貼り付けられるラベルである。したがって、個体の外延は常に揺らぎを持つし、名前それ自体には空虚な意味しかない。

結局、固有名は「記述群として機能するのでなく、記述群を引っ掛けておくための釘として機能する」のであり、そのことこそ「言語の記述的機能から指示的機能を分離するための必要条件」と考えたサールが正しかったのである。対象が私たちの知っているたった1人のあのクリプキであることと、対象がどういう名で呼ばれ、指示されるのかということは全く別のことであるのに、それらが混同されるから、議論が無駄に複雑化してしまう。個体が確定記述に還元されると考えなければならないわけではないが 、名前に大した意味はない。それはあくまでもラベルであって、指示される対象そのものではない。「固有名が個体を指示するのではなく、固有名を媒介にしてわれわれが個体を指示するのだ」。


確定記述のような「特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性」を「単独性singularity」と呼ぶ。私たちは人をまず特殊性によって知り、識別するはずであるのに、なぜ個体は単独性を持つようになるのか? それは固定指示子としての固有名を前提にした記述の訂正可能性に拠るのではない。私たちは、「ありえた彼」を想定せずとも、彼を彼たる個体として認識することができる。可能世界は現実世界から考えられているのであり、逆ではない。特殊性が訂正されれば個体としての内容・意味も変わってくるのであるから、その更新に対応すべき単独性は、特殊性の「剰余」としてではなく、その総体として捉えられなければならない。

固有名に「剰余」など何もない。類似する様々な対応者が同じ名前で指示されるからといってそれらが同じ対象でないのは、同姓同名の別人同士の場合と同様である。対象それぞれに異なる単独性が現れるのであって、同じ名で呼ばれる対象全てに共通する超越的な固有性としての単独性があるわけではない。何を個体と「みなす」かは主観に拠っており、世界から切り分けられるという起源において、私たちは相対的である。だが、その切り分けられ方は唯一的であるから、個体はそれだけで単独性を持つ。個体が単独性を有することには、それが個体だからという以上の理由はない。単独性は、偶然的事実としての形式的個体性をしか意味しない。


個体には、異なる「ありえた」切り分けられ方、「こうであったかもしれない私」が、絶えず幽霊としてまとわりつく。幽霊を怖れるべきなのは、それらが本来的に私と全く対等な個体たり得るからである。自己にまとわりつく様々な幽霊を自らの固有名の支配圏内の問題として認識している人々は、本当の意味では幽霊を怖れてはいない。暴力性についての宇野常寛の表現を踏まえて言うなら、彼らは結局、「安全に怖い」ような仕方で怖れて見せているに過ぎないのである。


(続く)



付記

  • 本記事については、以下を参照されたい。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100913/p1

  • 本記事の全体版は、下記のサイトから読むことができる。

http://sites.google.com/site/politicaltheoryofegoism/works

  • ブログ掲載にあたり、注を省略している。