確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(3)

目次

1.確率と亡霊
2.可能性と単独性
3.唯一者と絶対性(本記事)
4.政治と未来

3.唯一者と絶対性


「ありえた私」が幽霊なら、過去や未来の私も幽霊である。D.パーフィットを中心として唱えられている、人格の同一性は程度の問題であるとする説に拠ろう。パーフィットらは、記憶・欲求・信念・性格・意図などの一連の心理的状態の継続が過去・現在・未来における人格の同一性を存立させると考えるが、私自身は心理的・物理的・社会的を問わず、様々な「利害関係stake」の共通性が主体の同定を可能にしていると主張したい。しかしここで重要なのは、「一生を通じた人格の同一性」が、個々の時点における人格の同質性ではなく、特定の状態の継続性に基づいて「構成された観念」であり、相対的でしかない、という考え方である。


昔とは全く別人になってしまったように思える人を、昔と同じあの人であると認めることは、いかにして可能になっているのか? 今、二時点間の状態が(心理的・物理的・社会的その他の基準において)直接に繋がっていることを「連結性connectedness」と呼ぶ。そして15歳の私と35歳の私、35歳の私と55歳の私にはそれぞれ連結性が認められるが、15歳の私と55歳の私では外見も内面もすっかり変わってしまって、何らの連結性も見られないとする。しかし、15歳から35歳までと35歳から55歳までの連結性は互いに重なり合っている部分があるはずだから、その重合によって繋がっている一連の連結性が認められるなら、15歳の私と55歳の私の間にも「継続性continuity」は存在する。このように考えれば、人格の通時的な同定可能性を理解できる。

過去の自分と現在の自分は、強い継続性を持つ限りで同一だが、何らかの「連結性の乏しい人格は、その希薄さの程度に応じて異なった人格とみなされるべきである」。マリコを愛していた頃の彼とノリコを愛している今の彼は、その限りにおいて別人だと認めてよい。同一の人でも次第にその心理的状態・物理的様態・社会的関係は変わっていくので、「人格は絶えずうつろいゆく」。身体を構成する物質も記憶も感情も全く同じとは言えない昨日の私と今日の私を同じ私と「みなす」ことを可能にしているのは、「ありえた私」と現に在る私の関係の場合と同様の類似、すなわち一群の共通性質である。


さて、この私が絶えずその時々の「私」から脱れ出る、刹那的な「移ろいゆく自我」でしか在り得ないとすれば、私たちの行動原理である利己主義は、「利今主義」としてしか存立し得ないように思える。「今の私」だけが私だとすれば、自己利益に基づいた行動は常に、その時点における自己の利益のみに基づいた行動となるはずだからである。実際には、今の私は未来の私と深く結び付いているから、「今の私」だけのことを考えて行動するような者はほとんどおらず、このことによってエゴイスト的主体が何も為し得なくなるわけではない。

だが、存在するのが刹那的な「この私」だけであるとすれば、今の自分のために行なったことを現に享受するのは、未来の自分である。今の私を最優先すると言っても、意識し得る「今」は常に過去になってしまっている。「今」と言った瞬間に、その私は消え、次の私が来ている。行為の動因を持った「思う私」は既に消え失せた過去の主体であり、近い未来に利益を享受する主体として「思われた私」は、あくまでも過去の「思う私」が観念した仮想の主体でしかなく、「今」の私と同一ではない。ならば、今・此処を生きる私の行為は、究極的には何の根拠もないことになる。では、エゴイストなど存在し得るのか? 今や、エゴイズムが拠って立つ何かが掘り崩されてはいないか?


私が生きるのは「今」だが、その振る舞いに拘束されるのは未来を生きる別の私である。これは「関係の絶対性」と呼べる。私は今から選ぶかもしれないが、それによって形作られる私は、今の私とは異なる。私たちが選ぶのは自分自身の生ではなく、自分とよく似た別人の生である。この私より前に「選んだ私」は、私ではない。その意味で決定は常に他者についての決定であり、他者による決定である。つまり私たちは幽霊たちと、「関係の絶対性」によって結び付いているのである。


東浩紀は、「ほかにも多様な物語がありうること、すなわち、現実がゲーム的であることを受け入れたうえで、私たちひとりひとりが単一の物語しか語れないし生きられないことを描く、解離的でアイロニカルなリアリズム」を語る。つまり、偶然的な出来事の組み合わせとしての生を確率的に捉えながらも、その「選択肢の組み合わせ」が一回限りであることに、「この生」の単独性を見出す。

しかし、現実はゲームではない。ゲーム的に思えることもあるかもしれないが、決してゲームではない(そう信じる)。私たちにとっては、今・此処の「単一の物語」しか、そもそも在り得なかったからである。私たちは、「無限に多様な物語がありうるなか、それでもこの私はつねにひとつの物語を選んでしまっている」、のではない。そもそも選択の余地などなかった。私たちは最初から、既に在った。無限の選択肢を選び得たなどとは、まさに錯時的誤謬――アナクロニズム――に基づく妄想に過ぎない。私たちの存在の前にそれを選ぶ主体など居なかった。


存在は必然的である。そのようにしか有り得なかったからではなく、そのようにして在るからこそ、必然的なのである。全ては偶然だが、起こった後ではそれが全てになる。全てと見なされるのではない。現に全てなのである。他でも有り得た・が・現に在り得なかったなら、それは私たちにとってそれ以外ではもはや在り得ない。想像される過去の可能性=「有り得た/有り得なかった(在るかもしれなかった)」と、現に在る今の可能性=「在り得た/在り得なかった」を区別しなければならない。可能性は常に現実と一致するのだ。


宮台真司は、例えば「一〇〇の偶然、一〇〇〇の偶然が重なって、僕が今ここにいる」ことのような「ありそうもなさ」を、「砕け散った瓦礫」の中に「星座」を見出す――予め知られるのではなくその時その場で発見される――ことの可能性を語る。この思想は、「死の一回性」に対して「生の一回性」を持ち出し、「反復可能な物語のあいだを横断する経験そのものの単独性の視点」を構成しようとする東の立場と似ているようで、決定的に違う。

生にいかなる意味を見出すかは、個々別々に追求せられればよい。重要なのは、確率的=偶然的な代替可能性を踏まえながら導き出される現実の単独性が、錯時的に構成される一回的なそれであるのか、必然的に構成される唯一的なそれであるのか、という差異である。


一回的であることと唯一的であることは異なる。東による「一回性onceness」の思想は、「生まれ直し」の思想と同質の、傲慢な錯誤に基づいている。現実が選択可能なゲームではない以上、単独性は一回性ではなく「唯一性uniqueness」を意味しなければならない。個体はそれだけで単独的である。したがって、唯一者である。そしてそれゆえに必然的であり、絶対的である。


唯一者としての主体が絶対的に拘束されていると考えることは、「宿命」の肯定に繋がるだろうか? 私はそうは考えない。宿命に映るものを形作るのは過去の私であり、未来を構築するのはあくまでも今の私である。私が明日吸える蜜の乏しさは、今日の私の無力ゆえであって、過ぎ去った幽霊たちのせいではない。今・此処に在る私が、未来の話を引き受けている。「彼ら」の話はもういい。


(続く)



付記

  • 本記事については、以下を参照されたい。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100913/p1

  • 本記事の全体版は、下記のサイトから読むことができる。

http://sites.google.com/site/politicaltheoryofegoism/works

  • ブログ掲載にあたり、注を省略している。