シュティルナー関連のつぶやき


これまでにtwitterで書いたシュティルナー関連のつぶやきを、備忘の為にまとめておきます。既にブログに引っ張ってきたことがあるものや、ほとんど意味がないつぶやきは省いていますが、だからといって以下に転載するつぶやきが大した内容を持っているわけでもありません。単に散逸を防いでいるだけです。あくまでもその時々のつぶやきで、変な誤解が生まれても良くないので、それぞれに一言ずつコメントを付け加えておきました。

そういえば、シュティルナーってJ.S.ミルやトクヴィルと全くの同時代を生きているんですよね。20年ぐらいしたら、三者の比較論なんて書けるようになるのでしょうか。
12 Jan via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/7671190827

妄想です。

大屋(雄裕)さんは、シュティルナーには「この私」と対等な他なる「私」が存在しえないからエゴイズムは社会の在り方を問う理論にはなり得ない、と断じたけど、「唯一者」はあまねく個体を意味するだけなので、その理解は失当。
6 Feb via HootSuite http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/8721972165

しかし重要なのはその先で、エゴイズムが尖鋭なのは「社会の在り方を問う理論」なるものたり得ないことではなく、その「問い方」そのものをまるきり変えてしまう可能性を持っている点。全体の調和などではなく、「私」のための「社会の在り方」を問う理論。それがエゴイズムの可能性。
6 Feb via HootSuite http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/8722077519

大言壮語です。

フォイエルバッハの会通信」第74号は、『マックス・シュティルナーヘーゲル左派』著者の滝口清栄氏インタビュー。 http://bit.ly/9R6L7O
14 Apr via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/12108880353

紹介です。

英語圏でもシュティルナー解釈上の主要な論点は大して変わらないと思う。日本語圏と違うのは、マルクス的解釈の影響力がさほど強くないこと。マルクスとの関係よりもニーチェへの影響の有無への関心が高い印象。但し、これは時代も関係あるかも。
25 Apr via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/12822838390

時代でしょうね。

海外のtweetから。「シュティルナーの人生は彼の本以上に物語る」。そうかなぁ、第三者的に見てつまんない人生だったと思うけど。
2 May via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/13228758892

余計なお世話です。

忘れないようにつぶやくか。昨日再読してみた片岡啓治氏(『唯一者とその所有』訳者)のシュティルナー論では、バタイユ風の消尽やマルクーゼ風の自己恢復に引き付けた理解がされていた。成程この筋の根は存外深い。住吉さんによる「再解釈」も、要すればここに繋がる話ではないか。すべき仕事が増える
24 May via HootSuite http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/14591887389

宿題です。

しかし、デリダを介しながらシュティルナークリプキ的に解釈するという誤謬を目にすると、私がこれから書こうとしていることにも一定の必然性があるのだなという気がする。
11 Jun via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/15928518278

クリプキについては)書きました。

例えば記念日的なものは,日付そのものには意味はないとしても,忘れやすい私たちが「これについてはこの日」と決めておくことで,必要な行為を最低限の水準で安定的に遂行させるために在る.それがあれば十分というものではない.しかし,日付への固定を否定して必要な行為を全日常化するのは困難.
7 Aug via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/20522629487

私たちの関係が「日付」のようなものに物象化されるとしても,その物象化の目的合理性を絶えず意識して忘れることがなければ(私たちにはそれも易しくないが),物象化に呑み込まれることなく物象化を「利用」できる.これは表象(=代表)についても同じことが言える.表象の合目的性を忘れないこと.
7 Aug via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/20522849119

つまり私たちは,人々の関係が物によって表象されたり,個々の思いや利害が別の誰か/何かによって代表されたりするとしても,それが何のために使われているのかを忘れなければいい.表象はあくまでも最低限であり,それに留まらない行為を否定しない.表象から「自由」になるよりも,それを用益する.
7 Aug via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/20523111092

さて,かくのごとく述べると,シュティルナーにおける自由と自己性の差異をイメージしやすくなるだろうか(笑).まぁ,「目的合理性」と述べたように,シュティルナー的な考えというのは実はポストモダン的でも何でもなく,むしろ近代的合理的人間像と結び付いていることが解るかと.
7 Aug via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/20523347636

思い付きです。

以前,辻潤訳の『唯一者とその所有』は近代デジタルライブラリーにあると書いたけど,改めて見てみたら,あれは1920(大正9)年刊行の日本評論社版だから,第1部だけの部分訳でしたね.全訳(まぁ重訳だけど)は翌年に改造社から出た『自我経』から.これはないのか.
22 Aug via TweetDeck http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/21818470513

日本評論社版だと「スティルネル」表記なのに,『自我経』になると「スチルネル」にしているんだよな.これはどういう….http://bit.ly/9ihYod
22 Aug via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/21818697368

『世界第思想全集』版(1928)もあったぞ.凄いなGoogleブックスhttp://bit.ly/9UZlHy
22 Aug via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/21818832205

もしかして生田長江/高橋清訳の『社会思想全集』版(1929)もあったりする?と思ったが,さすがにそれはデータ化されてなかった.ちなみに先程の『自我経』は,改造社版ではなく冬夏社版だった.同年に出たもので,中身は同じのはずだが.
22 Aug via TweetDeck http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/21819335742

日本語以外もウェブで入手できます。

牛乳屋曰く,非利己性は目的が自らの所有を離れた瞬間に発する.目的が固定観念,独善に堕する.目的が私自身のものであり,私が目的の盲目的手段とならず・絶えず目的への懐疑を保ち続けるならば,非利己に陥ることはない.
3 Oct via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/26258554106

反省的な意識を持つと同時に,その反省において自らを可塑性の中に置く.絶えず自分の足場を掘り崩しながら進むようなものだろうか.そういう「非固定」がどうやって可能になっているのか(あるいは不可能なのか)は,一度詰めて考えてみたいところではある.
3 Oct via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/26258868408

回復すべき本質も到達すべき理想像もないまま,ただ利だけを基準にして移ろい続けるようなことがどうして可能であるのか.基準を参照しているのは誰か.いつの私か.自らが所有するところが自らであるわけだが,その所有を為す自らとは何か.利己とは結局何に基づいているのか(あるいはいないのか).
3 Oct via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/26259771006

問いの瞬間に私はどこに立っているのかが問題かな,と.こうあるはずの,あるいはこうあるべき自らの像があるならそこに準拠できるんでしょうが,無いとなれば.
3 Oct via web http://twitter.com/#!/ryusukematsuo/status/26262057260

宿題2です。


あとは、以下など。

http://twilog.org/ryusukematsuo/hashtags-MaxStirner