馬渕浩二「シュティルナー『唯一者とその所有』」について



最近出た熊野純彦(編)『近代哲学の名著』に、馬渕浩二氏がシュティルナー『唯一者とその所有』の解説を書いています。馬渕氏は哲学・倫理学がご専門で、マルクスやその周辺を中心に研究されておられる方のようです。

シュティルナーについて書かれたものには誤解が多いので*1、どんな様子かなと期待半分不安半分で見てみましたが、巧くまとまっていると思いました(えらそうですいません)。参考文献にカール・レーヴィットと住吉雅美氏のものが挙がっていて、まぁそちらの筋で行けばそんなに変なことにはならないだろうとは思うのですけど、実際まともでした(そういう意味では住吉氏の功績はやはり大きいと言うべきなのでしょう)。哲学的な側面についての入門的なものとしては、これで十分なのかなという気はします。ただ、一昨年の末に出た滝口氏の著作も文献リストに加えておいた方が良かったとは思いますが。


哄笑するエゴイスト―マックス・シュティルナーの近代合理主義批判

哄笑するエゴイスト―マックス・シュティルナーの近代合理主義批判

マックス・シュティルナーとヘーゲル左派

マックス・シュティルナーとヘーゲル左派


特にシュティルナーの言う「力」と「所有」の問題をきちんと整理して書かれているのは、良かったと思います。シュティルナーにおける所有の問題は、これまで意外とあまり論じられていないと思いますので(住吉さんので、あったかなぁ?)。私の『情況』論文でも、所有については書いていないですし。

ただ、分量の問題もあってということなのでしょうが、書かれていないこともあります。自己性、享受、連合などがそうですね。自己性は言葉自体は出てきますが、説明されておらず、結局のところ自己性とは何を意味するのかをこれでは理解できないと思います。その辺のところは私がわりとこだわっているところなので、参考までに拙論を読んで頂ければ(こちらから読めます)。

細かい問題としては『唯一者とその所有』の刊行年が1845年になっていますが、これは間違いで、最初に出たのは1844年です。しかし、これは編集・校正上の問題でしょう(よくあるミスらしいです)。

あと、リードのところでアレントの一節が引かれていて、熊野氏執筆の序章部分でも「永井均氏の議論につながる…」などといったことが書かれているのですが、これはどうなのかなぁ。まぁ住吉さん以降の読み方がそちらに引っ張られるのは理解できますし、まして哲学畑では無理のないことだと思いますが。永井氏については『ヴィトゲンシュタイン入門』の中で哲学遍歴を語っているところで「読んだけど違かった」哲学者の1人としてシュティルナーを挙げていたと思いますし*2、実際彼の独我論/独在論や倫理的なエゴイズムとシュティルナーの思想は別のものでしょう。アレントについては私の理解が拙いものではっきり言えませんが、アレントのWhoとシュティルナーの「誰」を一緒にできるのかどうかはちょっと疑問が残りますね(馬渕さんが全く一緒だと言っているわけではないし、私も全く別だと言うつもりはないですが)。


ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)


そんなところでしょうか。あとは以下などもご笑覧頂ければと思います。文献目録も、そろそろ更新しなければなりませんね。

*1:比較的最近の例は、以下。http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080705/p1

*2:確認していないので、もし違う本だったらごめんなさい。

差別はなぜ許されないか――区別との区別


風評被害」の虚飾の下に、差別が拡がっています。差別は昨日今日、生まれたのではありません。レイシズムもセクシズムも、宗教差別も出生地差別も、疾病・障害や能力その他の特徴による差別も、過去から現在まで一貫して存在しているものです。起きたことは、新たな材料が手渡されたというだけです。この事態に私たちができることは、「差別はよくない」とお題目を唱え、お説教をぶつぐらいしかないのでしょうか。

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誰が都知事を選ぶべきか


進学について激励を頂いた方々、改めてありがとうございました。さて、ごく個人的なことをいつまでも最新記事に掲げておくのはどうも気恥ずかしいので、最近考えたことを簡単に。


以前「私たちはなぜアメリカ大統領を選べないのか」といった論点について述べたことがあります。アメリカ大統領は世界大の影響力を持っているのだから、その選挙権はアメリカ国民に限られるべきではないという考え方ですが、多くの人にとって流石にこれは随分突飛な話に聞こえることでしょう。いくら何でも住んでもいない国のトップを選ぶ権利なんて…と(では住んでいる国ならどうか――となると、これは定住外国人参政権についての話になりますが)。

さてでは、先般選挙が行われたばかりの都知事について、同じ考え方を(よりマイルドに)適用した場合にはどうでしょう。言うまでもなく、東京都には(わざわざ別に「首都圏」という言葉があるほど)近隣他県から多数の人々が通勤・通学していますが、これらの人々に選挙権が認められないのは不当ではないでしょうか? 彼らはその生産・消費の活動を通じて都の経済・財政に貢献しているはずですし、同時にその生活は、事業所・学校を管轄する都の決定に大きな影響を受けています。1日の大部分を都内で過ごし、寝るためだけに都外に帰る、といった人も少なくないはずです。それなのに、なぜ寝床がある街の選挙権だけが認められ、通勤・通学する先の街の選挙権は得られないのでしょうか。都民でなくとも、都内に通う人々には都知事を選ぶ権利が認められて然るべきではないでしょうか?


日本の統計」2011年版によれば、東京都の平成21(2009)年推計人口は約1286万人(ただし都の2011年3月推計によれば約1315万人)。その内19歳以下人口が約211万人なので、成年人口は約1075万人です。昼間人口のデータは平成17(2005)年分が最新なのでそれを見てみると、約1497万人であり、同年の東京都人口は約1257万人なので、差し引き約240万人の非都民が都内で就業・就学している計算になります。もっとも、これは都内に居住して他県に通勤・通学する人口との相殺後の数値なので、他県から都内に通勤・通学する15歳以上の人口自体は、より多い約302万人です(15歳未満を含めれば、さらに多いことになるでしょう)。

昼夜間比率は平成12(2000)年も大差ない(どちらも約1.2倍)ので、最新の国勢調査でもそれ程大きな変化は見られないのではないかと思います(都のサイトも参照)。他県から通勤・通学する人口の年齢構成は定かではありませんが、少なく見積もっても200〜250万人の成人が都外から通っているということではないでしょうか。大雑把な計算を続けますが、2009年時点での都の成年人口が約1075万人なので、最低でも昼間成年人口の6分の1は非都民が占めることになるのではないかと思います。帰結の議論はここでの本旨ではありませんが、他県から通勤・通学する人の年齢構成等は夜間人口とはまた異なるでしょうから、この層が選挙権を得れば、選挙結果への小さくない影響が予想されます。


数字の扱いは苦手なので、もっと良いデータがあれば教えて下さい。より正確な計算も、どなたかして頂ければと思います。とりあえず私の第一の関心は原理上の問題でして、帰結として大きな変化になるかどうかは副次的に考えてみたまでです。この種の議論がこれまでに全くないはずもないのですが、私は知らないので、詳しい方には教えて頂けるとありがたいです。

重要なことは、選挙権(ないし政治的影響力)の付与の根拠が何であるか、ということです。事実上、都の「被治者」で(も)あるならば、都民でなくとも選挙権が認められることには理由があります。都知事を選べる代わりに、神奈川県知事は選べなくなる、といった二者択一の話にしてはいけません。加重投票権の考え方を採るべきです(票の分割も案だと思いますが)。神奈川に住んで都内に通うなら、どちらの選挙権も認められる。それが許されるなら、都内に住んで都内の職場・学校に通う人には1.5〜2票などが認められることもあり得るでしょう。また、この考え方を(デーメニ投票法的な視点を交えて)応用すると、都内に通っていない人でも、都内に通う未成年の子どもを持つ親は、その子どもの分だけ都内の選挙への投票権を加重される、といった形も考えられるかもしれません。


まぁ、これでもやはり突飛だよと思われる方はいるかもしれませんが、ひとまずアイデアとして考えてみるだけでも価値はあるかなと思います。

また始まるために


唐突ですが、本年4月から私の身分関係に大きな変動が生じたため、簡単にご報告致します。


法政大学大学院の政治学研究科博士後期課程に入学致しました。


私は2008年3月に修士課程を修了後、塾講師を生業にしながら個人的な研究を進めて参りましたが、再び大学院に足場を移すことになります。

改めて、制度的なアカデミズムの世界へと本格的に参入することになります。

特に研究者界隈の方々には、今後お会いする機会が様々あろうかと思いますので、その際は宜しくご指導頂ければ幸いです。

また広く読者の方々には、拙ブログに変わらぬご愛顧を頂ければ幸いです。

以上、ご報告まで。

来るべきステークホルダーへの応答――政治の配分的側面と構成的側面


過去は到来する。未来は構成される。私たちが構成する未来が、誰かにとっての過去として、決定された形で到来するのである。原子力発電所と、それがもたらすコストとリスクについての思考は、私たちの視野に、ヒトの一生を超えるタイムスパンを要求する。もし政治が「価値の権威的配分」(D. イーストン)であるとするなら、その配分が同時に次の「政治」の条件を構成することへの視座も欠かすことができないだろう。それは、配分(分配)としての性格とは一応区別される、政治の構成的側面である。

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政治的なものと公共的なもの――権力と期待

政治的であることと非政治的であること

われわれの出発点を何処に置こう。「個人的なことは政治的である!」――よろしい。では、個人的なことの全てが政治的であるか? あるいは然り、あるいは否。「全てがそう、とは言わないまでも、全てが政治的にはなりうる」――結構。区別は本質的ではない。とはいえ、非政治的であるという意味で純粋個人的なものごともまた、「ありうる」わけだ。

ところで、非政治的なものごとは、政治学の対象たりうるか? たりえない――ならば、政治学は純粋個人的(私秘的?)なものごとに無関心である。そう言ってよい。政治学が個人的なものごとに関心を払うのは、そこに何らかの形で政治性――ある対象を非政治的と断ずる振る舞いも含めたそれ――が宿っていると認める限りである。

ところで個人的であること、――これは私的なことと言い換えて差し支えなかろうか? 両者の重なりは明らかでない・が、ここでは同じと見なそう。私的なものごとは、その全てが政治的というわけではないにせよ、すべからく政治的たりうる。例えば労働、例えば消費、例えば交際、例えば家庭、例えば生殖、例えば死、――あまねく生命・生活の全てが*1

したがって、政治学は親密圏を問題にしうる。しかしそれはふつう、私的であることには留まらない何らかの意味がその問題に伴っている限りにおいて、扱われる。私的なeveryday talkが政治的なものとして現れるのは*2、例えばジェンダー正義という価値規準が、個人的な人間関係の中に結び付けられているからであろう。純粋に私的な領域においては、個人間の同意に基づく限り、非対称的な人間関係も不当なものとはされないはずである――自由主義。それが問題とされるのは、ジェンダーや人種・エスニシティ、階級・階層などといった集団的に妥当する何らかの共通性(差異)が観点として曳き込まれ、そこに単なる個別の人間関係には留まらない意味が見出されるからである。

この曳き込みは、外在的な価値観の導入による私的自由への不当な介入を意味するのでは、必ずしもない。個人の自由意志の尊重それ自体が「人間」としての共通性に基づいて認められるものである以上、私的な自由はその範囲を自己完結的に決定できる性質を、本来的に持たないのである。その範囲は、政治的な対抗関係の産物でしかない(繰り返し:私的なものごとは、すべからく政治的たりうる)。

*1:そのような具体的なイシューの中に現れるミクロな政治を集めても、単一のマクロな権力構造を描けるわけではないということを重視する文脈から、存在するのは小さな政治だけだと言われることがある(川崎修「〈政治〉と「政治」」『「政治的なるもの」の行方』岩波書店、2010年、1章を参照)。だが、確かに「棟梁的な」、つまり社会全体を統括するような営みとしての(大きな)政治が存在しないとしても、個別のイシューに共通して見出されるミクロな「政治」性が存在するのであれば、なお「政治的なるもの」について語る一般理論の存在意義はあるように思う。

*2:田村哲樹「親密圏における熟議/対話の可能性」田村哲樹(編)『語る――熟議/対話の政治学』(「政治の発見」5巻)、風行社、2010年、2章。

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