さだまさしの魂


2005/02/12(土) 01:01:59 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-6.html

紅白の再放送(何故わざわざゴールデンタイムにやるのか)にたまたまチャンネルを回したところ、さだまさしの、メリークリスマス、という歌声にやられてしまった。
今さっき調べたところ、『恋文』というアルバムに収録されている「遥かなるメリークリスマス」という曲らしい。少なくともミスチルの「タガタメ」に涙したヒトならば心動かされるはずである。是非聴いてほしい。


おれはもともと、全部丸ごとというわけではないが、さだまさしの歌とパワーを敬愛している。しかし今回改めて思った。彼はロックミュージシャン側の人間だ。
いや、こういう安易な言い方はさだまさしとロック、さらには音楽自体をも矮小化しかねない、良くないものかな。でも、サンボマスターさだまさしの間に、何の隔たりがあるだろうか。


紅白の場でこの曲を歌ったことの意味性・無意味性にはここで触れる気はない。それよりも曲自体への率直な違和感表明を見つけたので、そっちに触れよう。


曰く、
あるところで言葉がグルグル回っているように感じる、
そんなに簡単に「メリークリスマス」と言わないでほしい、
殺されている人のことを真剣に考えずに「メリークリスマス」と言う資格があるか、
だそうである。


そう、言葉がグルグル回っているからこそ意味があるのである。迷いのない平和ソングなんて、誰が聴きたいんだろうか。絶対平和主義も反戦も結構だが、それを教条化して「資格」などと言い出すのはいささか不快を禁じ得ない。
クリスマスは誰にでもやってくるのである。そう、どうしようもなくやってくる。少なくともさだまさしの「遥かなるメリークリスマス」を聴く事ができる人々は、どうしようもなく平和な環境に居るのである。スガシカオの「気まぐれ」にあるように、テレビニュースを横目にしながらも、それはそれとして肉体をいじり合える環境に居るのだ。


その断裂と連続こそが意味となっている。
現におれ達は遠い世界の戦争や飢餓など気にせずとも生も快楽も享受できるのだから、それで何が問題なのだろう。この現状に居ながら「殺されている人のことを真剣に考え」ることは、所詮富者の余技であり、欺瞞であると切り捨てられても仕方がない。それでも真剣に悩まずにはいられない。でも、やはり…。
この足元を常に意識してこそ平和論は意味がある。


「気まぐれ」によって断裂された世界と、それでもどうしようもなく連続している時間と空間、人間の残酷な面と優しく温かな面。それを知っているさだまさしが、簡単に「メリークリスマス」と言っているわけがない。
どうしようもなく断絶されている世界のこちら側では、簡単にクリスマスを消費することができる。しかし、考えずともよいのにあちら側のことを意識せずにはいられない。一人の中にも断裂がある。そして、こちら側とあちら側との現実の連続も見逃すことはできるわけもない。子供を戦場に送るかもしれない国家の国民として。
それでも彼は「メリークリスマス」と言う。今、ここ、に居るのだから。平和な街に、家族に、クリスマスが来たのだから。


偉そうに言う。物事を真剣に考えるつもりがあるのならば、前のめりになりがちな自分を抑えて、まず自分の足元を確認するべきだ。自分とその基盤について、常に自覚的でありたいと思う。




<BGM> これで自由になったのだ/サンボマスター
 〜ちっとも自由になっていないことにきっと自覚的な彼の歌声は、とてもいとおしいね。


正確には、「遥かなるクリスマス」のようです。