核抑止システムの虚構性


2005/02/16(水) 13:48:49 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-8.html

今更何だと思うかもしれないが、ゼミBBSで核兵器による相互確証破壊体制に基づく平和均衡実現の話題が出て刺激されたので、再考してみた。


元々おれは核抑止による平和なんてものに強い懐疑を抱いてきた。しかし、平和主義、反核の直感的反発が前に出すぎた目的論的考察となっていた面は否めない。
機械論的な現実認識に基づいた理想主義を掲げたいと思っている立場からは、核抑止力も一定の効力を持っていたことを認めざるを得ないかな、と最近は思い始めていた。


しかし、今回改めて考えてみれば、やはり核抑止の虚構性は明らかである。
なぜなら、その相互確証破壊認識によって核使用を思い留まるという論理は、あくまでも「合理的個人」による意思決定を想定しているからである。
そう、いわゆる新自由主義者が市場万能の根拠として、その空想性、非現実性を左右から批判されている、あの「合理的個人」である。


完全な情報を持ち、常に合理的な判断をする個人を想定することは、論理構成上はともかく、現実分析には役立たないばかりか阻害要因になる。
「合理的個人」など実在しないのである。


以前の官僚制への考察や公共選択学派の成果を援用することで、ますます核抑止の虚構性は明らかになる。
政策決定に関わる個人は不完全情報に基づいているばかりか、必ずしも公益に適う判断をするとは限らない。決定権を有する個人のパーソナリティによっても状況は変わってくる。


非人格的で完全情報の元に合理的判断を行う個人はどこにもいない。
にもかかわらず、相互確証破壊による核抑止力を信奉する人は、この事実を知らないか、無視するか、楽観的に捉えている。
確かに現実には核抑止力が機能していた面は小さくない。しかしそれは偶発的な平和であって、恒常的論理として頼みにできるものではない。


何年か前の「TVタックル」で野坂昭如が、ミサイルが飛んできたら終わりだという旨の発言をしていたと思う。
おれもそう思う。逃げようもないし、迎撃システムなんてどれだけ頼りになるのか。
いずれにせよ、虚構の論理にすがるよりも真摯に外交しましょ。「合理的判断」を跳び越えて来るヒトはいくらでもいますよ。それを日本はよく知っているはずなんですが。

TB


平和論ノート(2)平和をたぐり寄せる http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070118/p1