テキスト『感じない男』森岡正博


2005/02/17(木) 17:21:41 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-9.html

2005年、ちくま新書
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/


森岡はミニスカの中に想定されるものは「白パンツ」でなくてはならないとし、ポルノが普遍的に持つ「女は結局感じる」というメッセージの男性にとっての意味を探り、「制服マニア」が「少女が制服を着ている」という状況に向かって射精を望むことに注目する。


これらは、単に女性を道具的に支配することで優越感・万能感を得るというだけでなく、本来アンタッチャブルである「聖性」への凌辱に伴う快感を味わっているということではないだろうか。
白パンツ」に代表される、清浄で穢れを知らない女性は、低俗で卑しい欲望にまみれている自分よりも「上位」にある。「聖性」凌辱に伴う快感というのは、タブーを破る快感・スリル・達成感とともに、自分よりも上位にあるものを同レベルへと引きずり込むことによる快感を意味している。


もちろん、女性に前提的に付託される、清浄で穢れを知らない(はずである、べきである)というイメージは多くの場合フィクションである。女性が社会的にこうしたフィクションを背負わされる構造には一定の普遍性がある。「聖性」の汚辱に伴う快感には、「聖性」というフィクションを破壊し、フィクションであることを暴露したことによるカタルシスも要因として存在しているのかもしれない。
この際に「聖性」が実際にフィクションであるのかどうか、フィクションが本当に破壊されたのかどうかは問題にならない。なぜならば、男性は女性に勝手に「聖性」フィクションを付着させ、最終的には必ず感じたことにして、勝手にフィクション破壊のカタルシスを味わうからである。まさに、マッチポンプ的な自己充足装置と言ってよい。


仮に、このような「聖性」を汚辱することに快感を覚える構造に普遍性があるのであれば、宗教や天皇制との関係を考えてみても面白いかもしれない。
多くのヒトにとって、他者が盲信している宗教やイデオロギーのお粗末な実態を暴くことはなんとも言えないカタルシスであろう。社会主義国家の抑圧体制と困窮を示してマルクス主義イデオロギーの必然的帰結と勝ち誇ったように語る人々。知ったかぶってオウム信者の未成熟性を非難するヒト、あるいは洗脳で全てを片付けようとするヒト。
少なくとも、他者にとっての「聖」的フィクションを破壊することには、カタルシスを伴う場合が多いように思う。しかし、自分にとっての「聖」的フィクションを汚辱しようと望むヒトが、果たして普遍的に存在するのだろうか。


さて、制服マニアにとっての「制服」の意味とは何なのであろうか。森岡は、制服に欲情するということはそれが象徴する学校に欲情することであり、より正確には、学校が行っている少女に対する教育・指導といった「洗脳」行為への欲求だとする。
ここから森岡は、制服への欲情・射精というのは、少女を洗脳して内面から操りたいという欲求の現れであり、精液とは自己と少女を媒介する表象である、という方向に進む。その背景として男性が持っている自己の身体への否定感情が語られていくのである。


森岡は「自己の少女化」を望む男性を語っている。それはそれで説得力があるのだが、少し別の可能性も考えてみよう。少女を洗脳する行為への欲求として制服=学校への欲情があるのであれば、それはすなわち、「自己の学校化」を望んでいると言う事も不可能ではない。


ところで、本書を読んですぐ疑問に思い始めたのは、男にとって射精とは「愛する行為」なのか「汚す行為」なのか、という点である。これはなかなか難しい。時と状況によって変わってきそうだが、少なくとも、ポルノによく見られるような、特定部位、特定の対象に「かける」行為というのは「汚す」意味合いが大きいように思える。「聖性」の汚辱という論理もこの印象に依拠している。もちろん、偏愛の帰結としての「汚す」行為と捉えることもできるのであろうが。


さて、「自己の学校化」とは何を意味しているのか。それは、自己を規範創出主体として立ち現させることではないのか。学校とは家庭や社会と並んで、代表的な規範創出主体である。しかも、制服に代表されるように、比較的その表象を得やすい。つまり、制服マニアは制服に欲情し、射精することで自己の学校化を試み、自らを規範創出主体として現出させる儀式をしているのではないか。


こう考えると、先に述べた射精のアンビバレントな意味を併せて回収できる。射精の「愛する」意味は自らの規範創出主体化への積極姿勢、欲望として結びつけることができる。さらに、射精の「汚す」意味は自分が生きてきた(学校や社会の)既存の規範への否定、反発として捉えることができる。制服は学校、少年時代へのノスタルジーやトラウマも喚起するので、そうした感情と絡み合って、制服はますます既存規範への汚辱欲求と自己規範化への渇望を生み出すのであろう。


森岡の射精の捉え方、すなわち、自己少女化への媒介という見方に従っていくとどうなるであろうか。これでいくと、制服への射精は精液を媒体とした女性の身体を乗っ取る行為である。
また、ロリコン犯罪は男性としての身体性への否定感情から生じる少女転換願望の帰結であるとされ、自己の未発の可能性を投影したユニセックス世代の少女との交わりによって、自己の産み直しを図っているのであると意味づけられる。


精液には、やはり自己が投影された分身としての意味合いが付託されているようだ。少女転換願望の媒体となり、自己の産み直しが託される。自己少女化にせよ自己学校化にせよ、自らを何か違ったものとして認識(空想)するための手段に射精が使われている。
であるならば、射精とは、自己を今とは違った何か「外の世界」へと旅立たせるための擬似行為なのではないだろうか。
「外の世界」とは自らの未発の可能性としての少女の身体性かもしれないし、「聖」的フィクションが剥ぎ取られたあとの世界かもしれないし、純粋に自らの子孫誕生可能性かもしれない。


いまひとつ明瞭でないが、射精の意味を考えてみた。「外の世界」への擬似的旅立ちという捉え方の方向は、森岡の言う「男の不感症」と何か結びつくところがあるであろうか。
また、本書を読んでもう一つ印象に残ったことは、女性は赤飯を炊いて初潮を祝われるが、男性の精通および射精は決して祝福されない、という点である。このことの意味をもう少し考えてみるのも面白いかもしれない。


感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

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感じない男 内容と批評(2) http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20050215