中庸


2005/02/21(月) 16:56:01 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-12.html

予告の第一回、中庸についてです。
おれの思想の出発点であり、到達点。はっきり言って、思想にこれ以上も以下も要りません。主な扉を全て開け得るマスターキーです。
次回以降の前提にもなっています。


○中庸

1.まえがき
 中庸という言葉はよく知られていて、何事にも行き過ぎも不足も無い程々の状態が良い、という意味でしばしば使われる。はっきり言ってそんなことは当たり前の考えで、わざわざその理解に心を砕くほどの道徳ではないように思える。しかし、ここでは孔子をはじめとする儒家が唱える中庸はひとまずおいて、筆者なりに敷衍した中庸観について語ってみたい。


2.帰属のグラデーション
 唐突ではあるが、この世に絶対の概念や倫理は無い。民族や人種、言語は分別の基準が曖昧な上に多様な種類が複雑に混血・混合しているので、グラデーションではあっても明確に区別することは出来ない。宗教もまた相互に影響しあうところが大きく、グラデーションであることを免れない。ならば、こうした概念に立脚して建設される国民国家というものの根拠は著しく不安定になる。民族自決による単一民族国家の樹立などは、多様な集団が入り乱れて居住している地域では不可能であるし、言語・宗教・出自・習俗など重層的な帰属意識を持つ人々を単一の括り(「ドイツ人」や「ムスリム」、「アメリカ国民」)で縛ることは無数の問題を生む。そもそもその「括り」の境界が流動的なものであり、誰もが日本国籍を持つ人は定義できても、「日本人」や「日本国民」たる条件は知り得ないのである。


3.融解する世界
 国家を相対化したところで、もっと身近な問題を考えたい。まず性別についてであるが、ここでは、性同一性障害や同性愛者を挙げるだけで十分であろう。生物学的にも精神的にも男女の別はグラデーションであり、中間も存在する。男らしさや女らしさなどという観点は無意味である。
 血縁については生物学上の両親・兄弟ははっきりと挙げることが出来る。だが、だからといって遺伝学上の繋がりこそが「本当の」親子関係かと言うと、違うであろう。家族はあくまで主観的事実であるべきだし、血の繋がりといっても実際につながっているわけではない。生まれたときは生物学上の両親の細胞をいただくわけだが、それからは自らの営みである。過去からの連続性・由来はそれ自体重要な観念だが、もっと社会的・集団的に捉えられるのが望ましい。われわれ一人一人は、大きな奔流の中にいる自立した個体であることを自覚すべきだ。その実、個体それ自体は流動的であるため、奔流に溶け合う形で全ての存在はつながっているのである。


4.永遠のゼロ回答
 <死と生の曖昧さ>
 以前は筆者自身、死だけは唯一絶対不変の事実だと考えていた。確かにそれはそうなのだが、もっと広い視野を持つことで新たな死生観を持つことが出来る。まず、実際上の問題から考えてみると、死とはいつで誰が決めるのかということがある。脳が死んでしまったら心臓が動いていても死体なのか。心臓が止まることが死であるなら心停止から蘇生した人は一度死んでいるのか。生物学上の死でさえも定義が揺らいでいる。観念的にはより不安定にならざるを得ない。焼かれたり埋められたりしたら死なのか。肉体の活動が止まったからといって、この世からいなくなるのか。そもそも生命は何でいつ始まるのか。新生児か。胎児か。受精卵か。精子と卵か。だがそこまでいったらもう両親の一部ではないか。ならば個体とは明確に分化できないものなのか。では死とは。…、答えは出ない。


 <唯主観論>
 つまりこの世の根本問題はいくら考えつくしても答えは出ない。追及してはっきりさせようというのは愚行なのである。われわれが得られるのは一人一人が人生の中で見聞と考察を重ねて編んでいく独自のイメージだけである。歴史上の著名な哲学者も無名のまま死んだ一介の小作人も対等に平面に立って、自らの頭上に自らのイメージを浮かべる。個人は自分だけの世界を持っていて、主観でしか物事を捉えられない。各々の主観イメージは常に接触と反発を繰り返すけども交わることは無い。誰も他人の目を持つことは出来ないからである。


 <倫理の相対性>
この世に答えは無いということでは倫理も例外では無い。絶対的真理はあるとした大哲人もいるが、その論もあくまで主観のレンズを通した上でのことである。人を殺してはいけないということを立証できる人間はいない。殺人を許容したら社会が成り立たないから禁じているわけで、根拠があるわけではない。倫理は歴史的構築物である。


5.合理主義の限界
 物事を突き詰めて世界を明確化することが愚行であるというのは、合理主義の敗北を意味する。合理主義は科学と効率を振りかざして、社会システムから生活倫理まで現代世界を構築してきた中核理念と言える。生産性を重視するあまり、働けない人や同性愛者をいまでも差別していることからもその影響力の強さはわかる。合理主義者の多くは物質文明と科学を過信する。死体など単なるたんぱく質だというかもしれない。あるいは一部の人は科学の立ち入っていけない心霊や、生死の定義の問題には不可知論をとるかもしれない。だが、無責任な不可知論と中庸主義は違う。これからの人間社会を繁栄させようと考える人々は遠からず合理主義と対決しなければならない。
 前述した脳死の問題は、より新鮮な臓器を確保したいという要求から発生した。臓器移植を完全に否定するわけではないが、兵器にせよ食にせよ性にせよ、人間の研究熱というものは果てしない。クローン羊が出来たときに人間も造られるなということはわかりきっていた。このまま行けば臓器を取り出すために一人一人のクローンが造られることは間違いない。結局合理主義を追求すれば、人間はロボットになるほか無いのではないか。人間工場から生まれて、故障した部品を取替えに行く光景もかなりの現実味がある。
 合理主義の行き着く先は結局ロボット社会ではないかという恐怖は、常に私を無駄・無意味の大切さと自然ということに思いを馳せさせる。


6.中庸に生きる
 以上の文章から、筆者の世界イメージの雰囲気はつかんでいただけただろうか。全ての概念・存在・帰属は流動的で重層的で曖昧なものである。時間的なタテの流れ、空間的なヨコの広がり、また短期的・長期的な循環のなかで、われわれ一個の存在は確かに自立して固有の輪郭を持っていると同時に、その輪郭は曖昧でなかのモノが溶け出して、ゆったりと全存在はつながっている。誤解を恐れず、理科で習った浸透圧の図を思い出していただければいい。
 こうしたイメージに基づいて、私は改めて突き詰めること、断定することの愚かさを知る。再び断っておくが、単純な不可知論と中庸主義は違う。世界の根本問題について答えは出ないといっておきながら、長々と私見を語っていることからもわかるとおり、筆者なりの中庸とは、リスクを避けるために価値判断を避けたり踏み込んだ議論をしなかったりということではない。世界は曖昧であるから、我々はそれを認識し謙虚さを保ちながらも、曖昧さに責任を持ち、堂々と答えは出ない、求めないと言うことなのだ。わからない、と大声で叫ぶことが必要だ。世界の曖昧さを受け入れ、倫理は人間のエゴであることを自覚し、その上で人間社会が円滑に営まれる方法、持続可能で万人が幸福を享受する世界の構築法を模索していくことが、今を生きる一存在の義務である、と筆者は考える。


2003年12月7日小結 04年4月3日細部を修正 本日再修正

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人生に必要な最低限の思想 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070110/p1