エゴ


2005/02/22(火) 22:34:36 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-13.html

毎度ひっそりと更新しております。
ブログがブログたる所以を全く無視しているかのようなこの有様。


さて、思想シリーズの第2回は、主観とエゴについてであります。


○エゴ


1.主観世界
 自分が居ない所では世界は止まっていると考えることはないだろうか。自分以外は皆人形で、自分にこの世界を信じさせ、物語を進行していくための出演者でしかないと、考えるのは私だけだろうか。
 私達は自己中心的人物でしか有り得ない。利己的な人物は嫌われる。しかし、人間ほか全ての存在は、自らの主観でしか世界を捉えられない。人間にすれば、感覚器官から得た情報を駆使して脳内に世界のイメージを打ち立てているに過ぎない。この世に客観は存在せず、神ですら本当の意味での俯瞰カメラは与えられない。どんなに普遍的で絶対的に思われる事柄でも、所詮自分の主観のフィルターにかけられていることを忘れてはならない。人間は自己中心的でしか有り得ないという考えは、けして傲慢を是認するものではなくむしろ謙虚さを求めるものである。


2.社会と人間
 自己犠牲的精神には胸を打たれざるを得ない。だが、自分が死んでしまえば世界は崩壊するのだから、自分のいない幸せは他人にとって有り得ない、という微妙かつ誤解されやすい考えを、筆者はずっと持っている。
 われわれ一人一人は、決定的に違う世界に生きている。主観カメラしか持たない私は、社会や他者を常にイメージせざるを得ない。一人という存在は永遠に世界から疎外されているのであって、社会の殻に触れたり反発し合ったりすることは出来るが、その内部に含まれることは有り得ない。
 ところが、他者からしてみれば、今度は彼だけが疎外されている。彼の世界(=主観)では、私を含んだ社会が彼に対して殻を閉ざしているのであって、彼は殻(=情報・他者・日常生活・コミュニケーション)に触れながら、イメージするしかない。私が社会、世界を主観カメラで見回して必死に認識し、関係を築こうとしている横では、別の人が私を含んだ社会、世界の殻と格闘しているのだ。
 われわれはこうしたことを自覚しなければならない。人間は誰もが主観しか持たない。誰もが違う世界に生きている。誰もが何かを考えている。誰もが一人である。つまり誰もが、無力で放り出されている。導き出される結論は、謙虚であれ、そして思いやりを持てということだ。


3.自然としての人間
 さて、話は変わる。人工という言葉がある。そして、自然という言葉がこれに対置されるように使われている。しかし、人間も生物である以上生態系に含まれるし、自然の一員である。自然と人間を区別することは、いかにも人間が世界において特別な存在であって、自然の支配者だという観念と結びつきやすい。無論人間にとって人間は特別な存在に違いない。だが、自らの種という条件以上にも以下にも、人間を特別視する思想はあってはならない。 生態系が壊れるとか、そのバランスが崩れるという言い方があるが、これは間違っている。なぜなら生態系は自然のシステムであり、うまくいこうがいくまいが、それは自然のまま、ありのままが本来の姿であるからだ。たとえある種が絶滅したり、特定の種が異常に繁栄したりしていても、全て自然の構成員である以上、それもまた自然である。人間もまた自然の一部である以上、人間の暴走もまた自然である。これを自然の摂理に反するということは出来ない。


4.環境保護の欺瞞
 自然と人間を区別して「自然を守ろう」と言うことは、逆説的ではあるが、文明至上主義的思想に満ち満ちている。このスローガンは自然を人間社会の周辺環境であって、近代文明によって統御されるべきものとして想定している。そこには実のところ、物質文明的価値観、効率主義的価値観、啓蒙主義的価値観、進歩主義的価値観が詰まっており、こうした運動は、人間の理性と科学を正しいと信じて疑わない傲慢さに立脚しているのである。
 環境保護運動はエゴである。上記したような思想から出発していない運動であっても同様である。なぜなら環境保護とは、長期的な人間社会の利益保護が目的であるからである。環境破壊を厭わない人々は短期的な利益に目がくらんでいる。それに対抗する保護運動は、道徳的に正論なわけではなくて、長期的な功利上、正論であるというだけの話なのだ。
 だから、環境保護が正しいと信じて疑わない人々は、あくまで利害上の妥当性があるのみであるということを認識してもらいたい。筆者は長期的な人間の繁栄を視野に入れて、自らのエゴとして環境保護を支持する。人間も自然の一部であるとはいえ、将来の幸福のためには、物質文明の暴走を抑制しなくてはならない。これは自然の摂理とか、倫理、道徳に立脚した意見ではない。エゴである。


5.動物愛護の欺瞞
 無益な殺生をするな、とよく言う。結構な理念だと思うが、これが歪むと、「食用にする限り殺してもいい」、そして「食べ残したら豚さんがかわいそう」となる。もちろん、子供に偏食と殺生を戒めるたわいない言葉に過ぎない。しかし、無意味な殺生を戒めていると同時に、一定の殺生を正当化する論理となっていることは、注目に値する。
 人間の栄養になれば、家畜の死は報われると本気で思っているわけではあるまい。どう扱っても残酷でしかない殺生に対して、罪の意識を軽減することが(無意識的であっても)主要な目的であることは疑いの余地はない。どう殺されようが、死後どう扱われようが、人間にとってそうであるように、豚にとって死は死である。
 筆者はこうした罪の意識解消のシステムは有害であると考える。人間は生きていくために数多の動植物を犠牲にする。食用だけでなく、踏み潰したり、知らずに呑み込んだり、あるいは動物実験の道具にしたりしている。殺生は、罪という概念を設定する場合、どうしようもなく罪であろう。私は人間ほか生物にとって原罪というものがあるのなら、ほかの生物を犠牲にせずには生きていけないことであろうと考える。こうした現実を認識して生活することは重要であるから、日常に潜む殺生にいちいち気を払っていられないとしても、常に罪の意識を持ち続けることは、謙虚で優しい人物になるために不可欠である。自分は多くの犠牲の上に成り立っている、という意識を持ちつつ、前向きに生きることが、私の理想である。
 動物をペットとして飼うこともまた、人間のもはや廃しがたいエゴであるから、エゴであると認識した上で飼うことには何も言うまい。だが、押し付けがましく、自分は動物のためになることをやっているという態度は改めてもらいたい。本当に動物を愛するのなら不干渉を貫くはずだ。もちろん筆者は動物自身の意思を尊重するものであるし、飼い主との十分なコミュニケーションの上、飼われることを選択しているのなら結構なことだ。もはや人間の保護なしには生きていけない動物もいる。しかし、自分勝手に餌付けしたり、身体を洗ったり、服を着せたり、生きながらえさせたりして、動物愛護だ、と唱えるのはいいかげんにして貰いたい。


6.永遠のエゴイスト
 胡蝶の夢という故事がある。自分の生きている世界が夢であろうが現であろうが、知ったことではない。第一知り得ない。だが、自分の世界とは完全なる主観であり、イメージに過ぎないという認識は必要である。主観しか存在しない以上、普遍的な倫理もない。つまり、どんなことでもエゴであり、正当化は出来ないのだ。そうした例は環境保護と動物愛護の問題から見てきた。
 確かなものなど何もない。われわれは殺生の繰り返しの上に成り立っているし、倫理なんてものも無いに等しい。つまり、本質的な意味での罪も無いのであるが、無数の正当化できない犠牲に立脚しているという事実は、人間の過信と欺瞞を戒めるために有効である。罪の意識と唯主観の考えは、頭の片隅にでも常に置いておくべきである。こうした思想は、謙虚で思慮深い人格を養成するし、無力な人間としての自覚から、他者にも思いやりを持てるはずである。少なくとも筆者は、エゴイストでしか有り得ない自分を受け止めて、前向きに生きていきたいと思う。


2003年12月21日小結 04年4月3日細部を修正 本日再修正

TB


人生に必要な最低限の思想 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070110/p1