「在ること」の肯定法


2005/02/25(金) 00:46:00 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-15.html

http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050210


私的所有制度の「相対化」っていうのは、いい表現ですね。
『私的所有論』はおれのメイン関心とつながるので、そのうち読みたいと思っています。『自由の平等』は読んだんですけど、文体のめんどくささもあって、いまいち真面目に読んでいない、理解していないところがあると思うので、いつか再読したいです。


以下、「在ること」(以下、存在と言う)の肯定について思いついたことです。


ここでは、浅い知識のために、漠然とした「障害者」のイメージで以て「稼ぐことができない」人々を代表させる。


さて、存在が受容されないであるとか、存在の格差が正当化される、という問題意識はどこへ向かうものなのか。
思うに、「稼ぐことができる/できない」はあくまで事実である。「障害」が無く能力がある者であっても、できないヒトはできない。逆に、「障害」があっても、できるヒトはできるものなのであろう。


事実として格差という状況があるだけなのであれば、そこで生まれる「存在の否定」感も、「稼ぐことができない」という属性に固有なものではなく、非常に広い意味の挫折が普遍的にもたらす否定感となんら変わらないのではないか。
顔が一般的に見て不細工だから、運動オンチだから、感じがちな挫折感・否定感とどう違うのか。


もちろん違いは明らかだ。これらの場合は生存・生活に関わるものではないし、所得を保障したからといって問題が解決せず、行政、社会がそのフォローをすることが困難である。つまり、個別性が大きいのである。
しかし、それでは「稼ぐことができない」ことに発する「存在の否定」感も同様ではないか。不細工なヒトや運動オンチのヒトの挫折感は行政手段では払拭することができないのと同様に、「稼ぐことができない」ヒトの挫折感も所得保障では解決しない。


仮に、無条件のシティズンシップが承認され、必要かつ十分な所得保障や福祉が提供されたとしても、「稼ぐことができない」ヒトが「恵まれている」事に対して疑問・罪悪感などを感じ、自己否定につながっていく可能性は十分にある。
つまり、事実として障害者が「稼ぎにくい」社会状況が問題なのであろうし、それは是正されるべきであって、その方法論と哲学が最大の焦点なのであろうが、少なくとも行政手段(最低所得保障、所得再分配の拡大、無条件のシティズンシップ)では精神的問題領域(「存在の肯定」感の獲得、生の充足)の解決は望めない。
で、あるならば、「存在の肯定」を求める議論は、結局何を求めようとして、どこに向かっているのか。


また、「稼ぐことができる/できない」は単なる事実としてある差異に過ぎないとする立場から見たとき、「存在の肯定」を求める言説や多様な「障害者運動」などは、あくまで「稼ぐことができない」ヒト自身とその周辺の人々による、「稼ぐことができる」ようになる(再分配による収入を拡大させるなど)ための努力であるに過ぎないのではないか。
つまり、事実として稼げる稼げないの格差が存在するなかで、多くの人々が自分も稼げるようになるため努力しているのであって、「運動」やその言説も同質の努力に含まれるのではないか。


「稼ぐことができる」ようになるための努力。それは、すなわち、「稼ぐことができない」ヒトによる「労働」とも言い得る(実質的には「活動」の方が適切な用語であろうか)。
ならば、言論も含んだ「運動」の末に分配(の拡大もしくは維持だけであっても)があるのであれば、それは「労働」の対価と捉えられる。
「労働」が失敗すれば、経済的困窮と精神的苦痛に見舞われるという部分も、フツーの労働と同じである。


もし「労働」の対価として分配が保障され、生存・生活が保障されるのであれば、自己による存在保障ということで、存在は正面から保障できるのではないか。
存在肯定感の根拠がもし自己存在保障にあるとしたら、存在肯定は「運動」など、自己保障のプロセスの中でこそ達成できるのかもしれない。


結局何が言いたかったのかというと、「障害」なんて無関係だということ。現実としてアファーマティブアクションみたいなことは必要かもしれないが、「障害」などは特殊な差異ではなく、上記のように、様々な場面でも、本質的には同じであるから。
特殊性を強調しすぎることは、かえって格差・差別を固定化し、「負け犬」的・「恵まれる者」的アイデンティティを強めてしまうことにつながる。