「存在」


2005/02/25(金) 23:53:43 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-16.html

思想シリーズ第3回は、生と死について。
改めて読んでみて、「中庸」や「エゴ」との相互浸透性・補完性を実感。全てまとめて一つの世界観になるね。


○「存在」


1.思考の前提
 生きている我々には、人間が死んだ後どうなるかは絶対にわからない。どんなに論理性や説得力・魅力がある言説・教義でも、この事実を無視したものは整合性を失う。死後の世界を説く神秘的なものから、死体はたんぱく質に過ぎないとする科学的唯物論に至るまで、裏づけとなる証拠は永遠に提示できないのである。


2.人間とその他
 人間だけが特別な存在であるはずは無いのだから、以下の思考における対象は生命一般である。もっと突き詰めると無機物で生命を持たないと考えられているものも入るのだが、それはあくまで延長線上にあり、現段階では動植物に限って考えてもらってかまわない。


3.精神と肉体の不可分性
 多くの宗教や土着信仰では、精神は肉体から一定程度独立していると考える。肉体が滅んでも精神(魂ほか呼び方は色々)は残ったり、遊離したり、別の肉体に宿ったり(輪廻等)すると考えられる場合が多い。形はどうあれ、死後には精神と肉体は別の道を歩くと説く宗教が支配的である。信仰を持っていない一般的日本人の若者ですら、こうした説に近い考えを漠然とでも持っていることが多い。
 この説には全く整合性が無い。感情も認識も思考も、脳に発するものであり、脳のほかに「魂」や「心」といった、何か独立した精神主体があるとは現在は考えられない。だからといって、筆者は精神の存在を否定するものではない。脳もまた肉体の一部であることを考えれば、精神はどこにあるのか。
 端的に言うならば、精神はわれわれ人間の個体に内在しているほかない。もし、肉体に従属していると考えるべきだと言うならば、それはシニカルに過ぎるだろう。脳の研究はまだ道半ばであるとはいえ、脳によって肉体は統制され、外界の情報は感覚器官から脳に伝わって認識される。今、意識的・無意識的感情や思考の複合体を精神と仮定するとき、外界を知るのは肉体的知覚でしかないが、個体は主観しか持ち得ない以上、世界を認識するのは、知覚情報に基づいた精神に他ならない。
 肉体は物理世界と常時接触し、情報を得ながら、作用・反作用を繰り返す。いわば、骨組みであり構造である「世界」を肌で感じている。他方、精神は、肉体から得る情報をもとに、自らの内部に世界を構築しなおす。つまり、骨組みの「世界」に主観による肉付けを施し、認識の対象としての「世界」を得る。現実の世界は物理的なものでしかないから、骨組みの方がいわば模範解答だが、人間、つまり精神にできることは認識しかないので、精神が再構築したものが個体にとって実質の世界となる。このカラクリは事実でしかないので、この世界自体が胡蝶の夢であっても現であっても関係がない。認識が夢かどうかは不可知でしかないが、夢であっても夢の中でこの事実は事実であり続けるし、我々の世界は続く。
 ともあれ、精神と肉体は不可分であり、一体となっている。どちらかが優越するものではないし、精神は脳、すなわち肉体に根拠を持っている以上、死んだからといって浮遊しない。認識の主体は精神でしか有り得ないから、精神崇拝に陥りがちなのも無理はない。この節の意図は、心身の地続き化・相対化であり、何かを絶対視する幻想を排除することである。この世に神秘的なものがあることは否定しないし、あって結構だと思うが、神秘肯定と幻想否定は矛盾しない。筆者が問題にしたいのは事実だけである。幻想とはつまり何かを特別視することであり、冷徹な思考を妨げる。


4.世界認識の類型
 私とは何か、死んだらどうなるのか、私がいなくなっても世界は続くのか、など数え切れない普遍的疑問に一括して回答を与えるのは、何らかの一貫した世界観である。個人がこれを編み出せば哲学であり、それが組織的に権威付けられれば宗教になる。太古から続く、世界をどう捉えるか、という課題に出された回答のうち、二つの代表的な類型について検討したい。
 まず、世界に始原と終末を設定し、その間の縦の流れでこの世を捉える型。キリスト教ほか多くの一神教がこれにあたるだろう。唯物論も、神による始原と終末を物理的必然に置き換えただけで、基本的には縦の流れを信奉している。確かに宇宙もいつか生まれて、いつか死ぬのであって、本当らしく思える。
 次に、輪廻転生の概念など、仏教などに見られる循環思想の型がある。なるほど、万物は生と死を繰り返すのであって、確かに世界は廻り廻っている。
 ところが、残念なことに、両者はともに限定的な説得力しか持たない。「始原・終末型」は、始原の前と終末の後を説明できない。宇宙が生まれる前には何も無かったと言われても、無かったと言うのはどういうことなのか。認識できないという意味であるなら、過去や未来自体、我々には認識できない。「無い」ということはそもそもありうるのか。「循環型」は、象徴的意味か、食物連鎖のような同時代的意味では理解できるが、歴史の流れを単なる輪では説明できない。
 それでは、この二つの世界観を融合させてみたらどうだろうか。名づけて、「スパイラル型」である。つまり、確かに限定的な意味にしろ、始原と終末は設定せざるを得ない。これに、循環思想を、少しずつ変化を加えながら循環する、と修正して導入すれば、より世界認識を立体的で豊かなものにする。つまり、世界はバネのように、スパイラル模様で回りながら時代を下ってきた、と考える。しかし、生と死や、有と無自体が流動的な概念なので、スパイラル図の上端と下端は点線とする。この世界観ならば、時間的・空間的に、柔軟な世界認識が可能であり、応用しやすい。


*付論:スパイラル自体の方向性が直線的なものでなく、それ自体もスパイラル式に進む、という世界観も面白いとは思う。だが、そこまで考えて、妥当かどうか検討するのは骨が折れるので、ここではしない。できれば他の人に考えてもらいたい。また、スパイラルが進むというのは、図で考えればそう言うほかないだけであって、進歩・発展の意味は無い。
 「スパイラル型」のほかに「コマ割り型」とでもいうべき、現存在のみ、その場限り、という世界観も考えた。世界は何を受け継いでいるわけでも、還って来るわけでもなく、その場面その場面の存在と消失である、というものである。これもまあまあ面白そうではあるのだが、どうしたものか。以下の議論のためには「スパイラル型」の方が適しているだろう。   (…「時間」の稿を参照)


5.「存在」について
 基盤となる世界観を得たところで、本題に戻ろう。私たちは死んだらどうなるのであろうか。繰り返しになるが、我々はその答えを永遠に知り得ない。だが、筆者はずっと思っていることがある。個人的夢想に過ぎないと言われればそれまでだが、生命や言語、文化が失われていってもそれは「残る」。誰も知らない、見たことも無いものが消えていっても、それという事実は残る。誰も覚えていなくても、何の記録も残っていなくても、あなたが生きていたという事実、「存在」は残る。観念論ではあるが、超常論ではない。
 この世が夢であろうが現であろうが、我々が居るということは事実でしかない。それは、一生涯孤独であろうが、歴史に名を刻まなかろうが、動くはずがない。人間が死んだら、肉体は焼かれるか、埋められるか、食べられるか、何らかの方法で分解される。精神も肉体に根拠がある以上、同じ運命を辿る。少なくとも認識はできなくなるであろう。筆者は観念的に死者も「残る」と言っているが、自然科学的に見ても、死体は分解され、他の生物などの自然界にまぎれていっている以上、確かに消滅したとは言い切れない。ともかく、死後にも存在したという事実は残る、という考え自体を否定するのは困難であろう。
 さて、「存在」の概念を使って、世界全体の営みについて考えてみよう。まず、宇宙から地球、地球上の生物、人類、父母、自己は皆つながっているということを考える必要がある。これは観念的にではなく、進化の過程や生死の流動性、あらゆる循環に思いを巡らせば、実感的に理解できる。
 次に、改めて死後について考えてみよう。死んで「存在」化したのはいいものの、我々はどこに行ったらいいのだろうか。過去に無数の「存在」が出現したはずであり、仮にそれらは何らかの集合体を成しているとする。これは観念上のことであり、「存在」という名の霊的存在が群れを成していると考えているわけではない。元来、世界は皆つながったものであるが、個別の「存在」は一個の記憶であるから、全体は緩やかな紐帯を持つとしても、一体ではなく集合体とするほうが適している。この「存在」の集合体を便宜上「大存在」と呼ぶ。死後、「存在」はこの「大存在」に仲間入りすることになる。これを詩的に、「星の記憶」と呼んでもいい。
 だが、生と死がグラデーションであることを考慮すれば、生きている人間もまた、「存在」であると言えないわけがない。私たちの存在という事実は生きていようが死んでいようが動かないわけで、すなわち個体はいかなる状態でも「存在」である。となると、「存在」とはいったい何なのか。人間は死んで「大存在」に仲間入りすると前述した。しかし、実は生まれたときから、正確には生まれる前から、我々は「大存在」の一員である。つまり、「大存在」を、この世界全体、と仮に単純化すれば、この世に生れ落ちた我々は皆「大存在」から出てきたものである。それが死んでまた還るのである。繰り返すが、観念上の話である。
 ここに河がある。河は水の集合だが、それは全体としてひとつのものとみなされる。河には水源があるが、そのもとは雨をろ過した湧き水である。河の終わりは海であるが、海は蒸発して雨雲をつくる。このように水の流れは循環している。河は果てしない距離を流れていく。我々は手で河からいくらかの水を掬い取ることができる。その少量の水を一かたまりと考えれば、一単位の水はあるときは河の表面に出るが、あるときは水中深くに沈む。しかし、河自体はひとつであり、なんら変わることはない。一単位の水も変わることはないが、ただ水面に出なければ、外の世界を感じることはできない。
 この世界、すなわち全ての動植物と物質という生命は、ひとつの河である。それを「大存在」と呼ぶこともできる。それらはひとつであるが、生きている間は認識能力を持ち、「生きている」ことがわかる。だが、死んだからといって、河の水中に潜るだけで、「存在」としてはなんら変わらない。私たちは生態系の一部であり、循環する輪の一過程であり、過去と未来を繋ぐ。記憶と存在の奔流の中で私たちは流れている。死の恐怖から我々は逃れることはできないが、生死の流動性・相対性、世界の一体性、そして「存在」について真摯に省察すれば、死への固執を振り切って、前向きに生きていけるはずである。


2004年1月27日小結 4月3日細部を修正 本日再修正

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人生に必要な最低限の思想 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070110/p1