時間


2005/02/26(土) 00:02:13 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-17.html

まとめていきます、第4回。
一応これで一段落。


○時間


1.まえがき
 「時間」とは人間がつくった概念であり、実際にそれに相当する何かが存在するわけではない。人間の生活を区切る目安として年月日や年齢が考え出され、時計が発明されるに及んで、あたかも厳格に定義された時間という枠組みの中に我々は生きているかのように思われる。だが「時を計る」という象徴的な、概念と生活を媒介する発明品が生まれるはるか昔から、人間が「時の流れ」を意識していたことは間違いない。


2.時間の実体
 我々がもっとも身近に感じる「時間」のひとつは、太陽が昇っては沈み、四季が巡るという外的な環境の変化である。狩猟時代も農耕時代も、朝が来れば働き、日没とともに身体を休めた。短期的には太陽の位置や明暗で、中期的には花を咲かせる植物の種類や気温の変化で、人間は「時の流れ」を感じ取ることが出来る。
 もうひとつ、長期的に時を感じるのが、肉体の変化である。それは成長であり、老いである。誰もが経験する過程と、誰しも逃れられない終末の存在は、「時間」という世界の縦軸に、はっきりとした輪郭を与える。
 これら二種類の変化は、人間社会内部と外的環境という差異こそあれ、いずれも自然界の事象であり、物理世界の法則に由来するものである。すなわち、気候や明暗は太陽系の運動によって説明され、動植物の変化はその気候などに影響される。生物の成長や老いは、諸器官の栄養状態や使用回数・頻度などが原因である。内臓の衰えの程度は、諸器官の労働実績と、悪影響を及ぼす素因が総合された結果であるし、物質の浸食・風化も、風雨にさらされる程度が問題なのであって、何の影響要素もない特殊環境におかれれば、何万年経ても劣化しない筈である。
 こうした事実は誰でも論理的にはわかっているはずであるが、時間概念の使い勝手の良さのあまり、それに捉われすぎて、本質を見失ってしまう事態も少なくない。「時間」はあくまで人間の構築概念に過ぎないことを常に念頭に置いておくことは、世界を相対化する上で重要である。しかし、時間概念は、その空洞性を暴いた程度で考察の対象から切り捨てて無視してよいものではない。


3.始原と終末
 以後の論は観念的考察であり、上記の事実確認とは多少趣を異にする。観念上の話である以上、実際のところ我々人間には本当のところはわからない、という前提が置かれる。
 さて、人間の哲学上・宗教上の大テーマのひとつに時間が挙げられるのは何故であろうか。時間と空間は、よく縦軸と横軸として言い表される。縦軸という表現の中に、我々は歴史の重みや先人の足跡、未来への希望と不安を見る。そこには一定の線としての自らの人生を投射し、やがて迎える老いと死について考え、先祖と子孫、または生命について思いを馳せる無数の人々の視線が注がれてきた。哲学や宗教は個人の実感に基づいて理論を展開し、結論をまた個人の生活にアウトプットしようとするのであるが、その間の論理・主張を突き動かす動機は、次の定例句に集約されている。「我々はどこから来てどこへ行くのか」。だから始原と終末が問題にされてきたのだ。誰もが突き当たる生の意味と死の恐怖、生きること自体のあてどなさと暗闇。その空虚を埋め、光を当てるために、あるいはただ受け止めるために、究極の問題として、始原と終末を語ってきたのだ。
 始原と終末についてのキリスト教その他の考えと、それについての批判は「『存在』」の中で書いたので繰り返さない。ここで重要な概念は、何より、「無い」という状態は無い、ということである。無から有は生まれない。ならば、そもそも無は無い。始原があって全てはそこから、と言われても、始原を生む前段階があったはずではないか。現に一神教は神の創造を語る。神自身が前段階であろう。
 終末に関しても同様である。ヒトが滅んでも、認識できないだけで世界は存続するだろうし、動植物・物質全て絶えても、何も無い世界は変わらず浮遊しているはずではないか。何も無い世界でも、無でない限りはそこから有に転じる可能性もある。
 つまり、縦軸は消えようがないのであって、それは無が無いことを前提としたグラデーションという様相を持つ。論理上、始原や終末を設定することはかまわないが、それは本来の意味とはかけ離れた、ぼやけた点とならざるを得ない。せいぜいそれまでの実線がそこから点線になるというくらいのものである。


4.ラスト・シーン
 始原と終末がぼやかされてしまった以上、実際上だけでなく、観念上でも、時間の支配力は失われた。始原と終末が近似化され、グラデーションで語られてしまっては、観念世界の縦軸としての存在感は大きくそがれる結果になってしまう。その空洞性を指摘され、観念論の指標としての役割にも疑問符がつけられては、その有効範囲は著しく狭められる。時は流れていると、今でも言えないことは無いが、同時にこうも言える。時は不動である、と。
 「『存在』」において、筆者はスパイラル型世界観を示した。この思考は有意義なものであると断言できるし、世界は一連なりであり、われわれは連帯し、伝え・繋ぎ・継いでいく存在である、という考えを常に持っている。しかし、同時に個の独立性・孤立も強調されるべきテーマである。スパイラル型と併せて示したコマ割り型世界観は、個の孤立や時間の空洞性などの視点を総合しながら膨らみ、以下に、あるまとまりを得た。その世界観は、一見「存在」論やスパイラル型世界観と矛盾するように思えるかもしれないが、これらは共存可能であるばかりか、多面的に世界を捉える上で、むしろ必要不可欠な思考であると信じる。
 「時は流れている」という言い方は、もはや限定的な意味しか持たないが、一見似た言い回しである、「時は流転している」というのは、非常に味のある意味を含んでいると思うし、好ましい表現である。我々、全存在は、一瞬一瞬が断絶された、唯一無二の固有のシーンを、その都度転がりながら生きている。筆者はこれからこう言いたい。万物は流転している、同時に一連なりだ。
 「存在」論によって、世界がどこまでも続く地平と化して一つになるような、あるいは誰もが大海に呑み込まれて一体化するようなイメージが得られた。そのイメージを失うことなく、世界から切り取られた一瞬、個の生、周辺世界、というイメージも併せ持つべきである。
 我々は一体であると同時に、どうしようもなく孤立している。連帯すると同時に自立すべきである。世界は連なり、循環すると同時に、一瞬一瞬が断絶されており、そこを転がっていくしかない。万物は流転している。明日、死ぬかもしれない。このラスト・シーンをどう生きるか。どの道を行くか。筆者は、切り開いていきたい。どの道、我々は空虚を埋めることはできないし、暗闇から抜け出すこともできない。ただ受け止めて、転がっていこう。


2004年3月26日小結 4月3日細部を修正 本日再修正

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人生に必要な最低限の思想 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070110/p1