公共空間の一時私物化を容認する基準


2005/02/28(月) 00:26:50 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-18.html

前から抱いていた疑問を思い出して、改めて考えたこと。


電車の中で平気でものを食べたり、化粧をしたり、(見苦しいくらい)熟睡したりする人々が槍玉にあげられて久しい。
「私」しか考えない利己的個人主義を指弾する時や、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいというリベラリズム的言説を扱う文脈でよく例に挙げられる。


あと、よく見かけるのは、学生や若いサラリーマンなどが漫画雑誌を読みふけっている光景はけしからんとか、嘆かわしい、といった話。未だに漫画蔑視ですか、という呆れで返すしかないが、改めて言っておくと、漫画だろうが小説だろうがエッセイだろうが学術書だろうが、娯楽には変わりありませんから。
まあ、ビジネス書や啓発書でも読んで自分を高めろ、とでも言いたいのかもしれないが、どっちにしろ娯楽欲求と向上欲求に道徳的優劣なんてありませんし。


脇道にそれたけど、電車内での食事・化粧・熟睡が何故指弾もしくは抵抗感でもって報われるのか、という疑問が本筋。
率直な疑問点。新幹線の車内においては、隣のヒト周りのヒトが駅弁食べてても全く抵抗感ないでしょ?何で通常の電車内での同様の行為を語るときには概ねネガティブに取り扱われるの?


新幹線車両と通常車両の相違点はどこにあるんだろう。両者に対する潜在的な認識が異なっているから、その車内で目にする同様の行為への印象が異なってくるのだろう。


新幹線内での食事や熟睡を一般に容認させる(潜在的)根拠は時間だろうか。様々な場合があるとしても、一般に平均乗車時間は新幹線の方が長いだろう。それともコスト、あるいはそこから発するコストペイヤー意識が食事も熟睡も当然のこととさせるのだろうか。


しかし、時間もコストも一つの要因ではあろうが、主たるものではなく、あくまで付属的ファクターに留まると思う。そう考える根拠は、ボックス席がある電車の場合を想起することから出てくる。


地方出身者には馴染み深いボックス席は、一般に2人がけの座席が向かい合わせになって、4人用で一単位となっている。
もちろんボックス席だからといって、知り合い同士でしか座らないことはないので、見知らぬ他人同士で肩寄せ合う場合もある。
だが、旅番組などでよく見かけるように、ボックス席で談笑したり窓外の風景を眺めたりしながら何かを飲み食いする、という場面は非常に自然に感じられ、現実にもよく見かけるように思う。
一人旅中の男が車中の喧騒の中、流れていく田園風景を遠くに見つつ箸を上げ下げする情景は、誰の頭にも違和感無く思い浮かべやすいのではなかろうか。


ボックス席の場合を考えると、時間やコストという要因は重要性が薄まってくるように思う。では、新幹線の座席とボックス席の共通点、両者と横並び型座席の相違点とは何か。
これはやはり空間的要因が最大であるようだ。


新幹線の座席とボックス席の共通点は、かなり限定的ではあれ、一定の「仕切り」が存在し、空間がある種の閉鎖性、個別性をもって作られている点である。
対照的に、横並び型座席のみの電車内というのは、満員電車時でなければ一車両内で端から端を見渡せるほど、仕切りのないオープンな空間である。


つまり、電車という公共空間においては、とてつもなく限定的であるにもかかわらず、自分が位置する空間(座席)に一定の閉鎖性、個別性が保障されてさえいれば、本来は私的空間で行うべき行為あるいはそれに準ずる行為(と一般的に考えられている、らしい行為)であっても行ってもよい、という認識がかなりの普遍性を持って受け入れられている。


いずれにせよ公共空間には変わりがないので、あくまで公私の別を設定するのであれば、公共空間の一時的私物化という意味では同質なのであるが、新幹線内での食事は当然とするくせに、各停・快速では公共性に反する、という錯覚がまかり通っている。
ここで問題なのは、公共空間の切り取り方のようだ。


現実には身体的距離や空間の仕切り方が感覚に与える影響などが関わって印象が左右されるのであろうが、少なくとも論理的には、完全にオープンな空間では概ねネガティブに受け止められる行為が、多少なりともの「仕切り」が存在するだけで正当化され、自明のこととして承認されるメカニズムになっている。


この構造からもう少し何か考えられないかなあ…、と思って書き始めたけど、結局これ以上展開/転回できず。

TB


所有論ノート―道徳的感覚の視点から http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070113/p1