テキスト『自己決定権は幻想である』小松美彦


2005/02/28(月) 19:11:38 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-19.html

2004年、洋泉社新書。


小松は「自己決定」と「自己決定権」の区別を強調し、自己決定権の推進が、新自由主義や優生政策の具現化を助けるばかりか、権力の自己肥大化のプロセスに組み込まれ、さらには、人間同士の関係性が薄れて個人が抽象化する事態を招くことになる、などとして自己決定権論を批判する。


確かに、本来、ある状態・事象とそれを保障・保護するための権利が区別されるべきであることは自明である。
例えば、社会契約論などにおいて自然状態として想定されている自由と、それを保障する自然権としての自由権は違う。万人は自由権を認められるまでもなく自由である。事実として自由の状態にあるのだ。そこでは無論自己決定が行われている。そして、事実として不自由が存在する。自己決定ができない状態も存在する。
事実として自由/不自由であるということは、権利=「〜しても構わない、〜であって構わない」という状態ではないということである。「構わない」かどうかに関わらず、大工になりたいヒトは大工になり、ナポリタンを食べたくないヒトはナポリタンは食べないのである。そしてその時、大工になりたくてもなれないヒトがおり、ナポリタンを食べたくなくても食べなければならないヒトがいる。これは普遍的で必然的な状態である。


しかし、この状態は自由権が承認・保障されている現在でも同じである。ということはどういうことか。つまり権利には、「〜しても構わない、けどできないこともあるよねー、それはしょうがないんじゃない?」という含意がある(かどうかは別にして、現実にはこうした限定的意味しか持たない)。
それは、権利概念の本来の役割が自由・平等の完全な実現ではなく(そんなことは権利概念だけでは無理である)、自由・平等への理不尽な圧迫を排除することにあるからである。権利の意義は、主に国家権力など非対称性が大きいパワーから個人を保護するための制御装置としての限定的なものでしかない。


だから、権利の意味を拡大解釈して、それを前面に押し出してくるようになると、どうしても違和感が生じてくる。この現象の意味は、国家と個人の間に存在した中間集団の解体・再編が進んで、個人の問題がすぐに国家の問題に直結してしまう(感覚的には、小中高生が日常会話の中で頻繁に「権利」「義務」「資格」などといった言葉を使う風景)という話とつながっている。それはいわゆる「社会」が衰退し、あるいは無視され、「国家」が肥大化するということかもしれない。


さて、自己決定/自己決定権批判論者の主要な論拠は、自己決定と言っても現実には様々な社会的文脈や人間関係の中で決定されたことであり、さらには、自己決定による影響は自己だけに及ぶものでなく周囲や社会全体に波及するのである、というものである。だから「自己」決定なんてそもそも存在が疑わしいし(小松は「共決定」という言葉を使っている)、「他人に迷惑をかけない」行為なんてほとんど実在しないのだ、という論理が展開される。


前者、すなわち自己決定の「入り口」論にはあまり説得力がない。なぜなら、たとえ社会的文脈・諸関係が決定に多大な影響を与えたとしても、個人=自己が最終的に判断を下す限りにおいては、それはあくまでも自己決定である。
自己像は確かに多くの部分を他者に拠っているが、決して小松が言うように他者なしで成立しないわけではない。やはり自己の眼差しが第一に存在しており、他者の眼差しはあくまでもそれを補う役割にある。他者の視点、社会の視点が大きな意味を占めたとしても、それは自己の視点の中に組み込まれることで統一されていく。
社会的文脈・諸関係というものは、それ自体個人の個別性・固有性の中に組み込まれたものであって、個人の外部にあるものでもなければ、個別性・固有性の上位にあるものでも並立しているものでもない。


さて、自己決定の「出口」論である、自己決定の社会的影響を強調する話には一定の説得力がある。確かに、自己決定の結果は自己だけに及ぶものではない。
しかし、自己決定の影響が非自己(他者、社会)に及んだとして、その責は自己だけに負わされるべきものであろうか。自己決定はあくまで非自己への外部刺激としてあるのみで、そこから生じる変化などにまで自己が責を負う必然性は無いのではないか。
仮に、おれが延命治療を拒絶して尊厳死することを自己決定したとして、その死によって近親者に著しい慟哭・悲嘆がもたらされたとしても、それはおれがどうこうという問題ではなかろう。近親者の心の動きはあくまで近親者自身の心の中にその核があるのであって、おれの決定はそれに刺激を与えるきっかけに過ぎない。おれが自己決定をしたとしても、近親者がそれに呼応して影響が生じるだけの素地が近親者自身の中になくてはならないということは、つまり結局、他者や社会にとっての「自己」(私=自己にとっての非自己)の範囲内にこそ焦点が存在するのであって、自己決定自体は問題の本質ではないことになる。


以上のことから、自己決定/自己決定権批判の妥当性は限定的である。実際、人の死がグラデーションである限り、その境界線は各人が引くべきもので、人それぞれの死の捉え方がある限り、自己決定しても「構わない」体制を整えることは必要である。社会的合意によって死の定義を暫定的にでも明確にできればよいが、社会的合意による一律の処置は少数者の考えや行動を不当に抑圧しかねないため、生命尊重、多様な死生観と生命技術観の承認といった大まかな合意に基づいた法制度によって、自己決定を可能にしていくことが望ましい。
おれは、脳死の欺瞞批判には共感しつつも、「脳死は人の死ではない」という啓蒙的押し付けよりも、人の死は人それぞれに考えられ受け止められるという立場を支持する。


ただし、もちろん自己決定/自己決定権批判の意義は大きい。自己決定と自己決定権の相対化だけにとどまらず、権利概念のいかがわしさ、結果としての国家の肥大化、所有権テーゼ・自己所有への懐疑提出、「社会」への注目など、ここからつながっていくものは多い。
おれ自身としては、ヒトには自己決定権や自己所有権などは無いが、「優先権」は認められると考えている。自他を未分化としたとしても、やはり固有の自己自身への優先権は留保されるであろう。


自己決定権は幻想である (新書y)

自己決定権は幻想である (新書y)

TB


個人は社会の前に存在する http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070112/p1