社会性と固有性と個人


2005/03/07(月) 18:11:58 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-22.html

長くしたくないので簡単に。


個人とは、社会性(社会的立場、人間関係、様々な帰属関係など)と固有性(自分が自分である本質、アイデンティティから社会的属性を除いたもの、具体的には何だろ?)とを併せて内包してこそ個人である。


自己は確かに他者、関係なくしては有り得ないが、それと同時に自己なくしては自己は有り得ない。この意味で社会性と固有性は等価だが、この二つを大きな支柱として一人の個人は成り立つのであって、その意味での総合的個の意識はけして何にも譲ることができないものであって、このレベルの個人より社会が上位に置かれたり、同等に置かれたりすることは有り得ない。


社会に位置づけられていない「個人」は抽象的であり、無責任に思えるため、公共性を担う者としては望ましくない。親密圏外の人はふつう社会性を通じてその人と付き合い、徐々に固有性を発見する。いきなり抜き身の「個人」を目の前に出されても、その人の存在を認識するための目印がないために抽象的で透明に見えてしまう。発見されていない固有性は逆説的に透明なものだ。


ここから導き出される結論は、公共圏においては、社会的関係や私的利害をむき出しにした個人同士こそがぶつかり合うべきだ、ということ。「無縁」の人々が話し合ったら公共的な結論が出るのは当然のことだし、それではプロセスにも結果にも何も意味がない。社会的関係や私的利害を乗り越えて実現してこそ公共性なんであって、そこから導き出されていなければ現実も変わらないだろう。


社会的関係から切り離されたその人の本質(who)だけが現れる空間というやつも、その抽象性から却下。その人の本質なんて簡単にわかるわけがないし見分けもつかない。だから社会性に頼る。もちろんそこで終わってはダメで、社会性を通じて固有性の発見にたどり着かなくてはならない。表層のわかりやすさだけに頼っていると固有性が顧みられず「共同性の仮面」だけが残って自我は崩壊する。


再断言。個人は社会性と固有性を併せて内包してこそ個人である。
わかったつもりの「個人主義」も、夢想的な「無縁」礼賛主義も、安易な「仮面舞踏会」も、おさむいので止めましょう。


以上の個人観と個人の利己性の関係などについては、またいつかの機会に。

TB


個人は社会の前に存在する http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070112/p1