所有の実体と占有の実態


2005/03/14(月) 22:51:58 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-25.html

所有権を語る上ではジョン・ロックは外せない。
おれは未だロスバードと森村(あと笠井)を読んだにすぎないが、自己所有権にロックが唱えた労働所有論―自己に所有されている身体の労働によって自然から取り出されたものには、その労働者自身に所有権が帰せられる―を組み合わせた所有権ドクトリンが最も説得的で重要な論理であることはわかる。


しかしこうしたリバータリアンの所有権論理にはいくらでも疑問が沸く。
例えば「自己所有権」と言っても自己を所有する主体は誰なのだろう。
ロスバードは理性、自由意志といった言葉で説明してくれそうだが、それは自己を統御する(自己と遊離した)客観的主体を想定していることに等しく、いかにも虚構的で容易には受け入れられない。


さて、今回取り上げたいのは、所有権の発生根拠についてである。
ロック=リバータリアンの文脈で重要なのは、無主(誰にも所有されていない)の財を発見・開拓し、そこに労働によって価値を付加・創造することが所有権発生の根拠となっている点である(ロック的なリバータリアンばかりではない、らしい)。
ロスバードによれば、市場において獲得した財なども(自身の直接の労働に関わりが無くとも)、財の所有権交換プロセスを遡っていけば最終的には労働による価値創造に行き着くのであり、そこで根拠付けられた所有権を譲渡・交換している限り、市場システム・私有財産制度は肯定されるようだ。


ここで注目したいのは価値創造による所有権発生の対象が「無主の財」に限られる点。
ここに単純に疑問投下。何故じゃ。どうしてじゃ。
労働所有論にこだわる限り、他人が所有している財であっても新たな価値を付加創造することができたのであれば、所有権の移動・割譲も視野に入れるべきではないだろうか。
例えば私有地の樹木から達人彫刻師が国宝級の仏像を勝手に彫り出してしまったらどうだろう。
価値創造に基づく所有権発生論を貫徹するのならば所有権の流動性を認める方が自然な気がする。


森村もロスバードも直観に訴えかける論理を重視するようだ。森村は明確に、規範的議論においては最終的に直観に訴えかけざるを得ない、と書いている。
このことの是非を論じるのは留保しておきたいと思うが、せっかく直観を重んじているヒト達に疑問を提出しているので、ここでは直観から考えてみたい。


飲食店や電車、バスを利用する時。明らかに空いているときには、我々は自然に2人掛けや4人掛けの席を一人で使うことがある。そして誰もそれをとがめることはないし、違和感も感じない。
しかし、満席に近いくらい混雑している時にはどうだろう。分別のあるヒトなら一人で複数の席を占めるようなことは避けるし、混んできたなと思ったら隣の席に置いておいた荷物をスッと手元・足元に寄せるであろう。そして、もし必要以上に座席を占拠している人を見れば、多くのヒトが不快感・抵抗感を抱くであろうし、ヒトや場合によっては注意するかもしれない(あるいは店員や乗務員がその無分別者に「お願い」をしにくるかもしれない)。


飲食店や電車・バスの座席は、ある法人の私有物の一部を貨幣による代価を通じて一時的に借りている状態となろう。この場合、一人一席と考えるのが自然であるから、一人が複数の座席を占めるのはあまり望ましくない。強く言えば、不当である。
ところが、財が豊富に存在しているとき(座席が明白に空席が目立つとき)には財の不当な占有(一人で複数座席を占有)は指弾も白眼視もされることはなく、不当占有から生まれる財に対する権益(実質的に所有権と同義)は広く承認されるのが一般的である。
翻って、財が希少な場合(ロックは理論上この条件を捨象した、らしい)には、不当占有は抵抗感を以て迎えられるのが一般的である。満員電車で必要以上に大股拡げて座席を不当占有しているヒトには多くのヒトが不快感を禁じ得ない。ただ、もし不当占有ではなく、単に目一杯座って満席であるのならば、誰であっても諦めがつくだろう。正当な占有の帰結として自らが占有できる財が無いのであれば、ヒトは納得せざるを得ない。


つまり、ここで直観的に明らかになるのは、占有が(権利でなく、あくまで)事実として存在しているときに、その占有に内実(使用・必要の存在、占有の正当な理由)が伴っていればその占有は一般的に承認され、もし伴っていなければその占有には不当な印象が滲む、ということだ。
耕地を必要としている百姓が無数にいるときに、大地主が明らかに不必要ながら占有し続けている土地が、ただ野ざらしにされて荒れ果てているのを見れば、百姓達は何とも言えない気持ちになるだろう。(この時、大地主の土地が使われているのであれば、不当な印象は多少薄れるであろう。ここでは再分配はさしあたり別の問題である。)


一旦、無主の財に価値を付加創造したことでその所有の根拠を得たとし、その後は市場における所有権の移譲が行われるが、取引対象である、その財に対する所有権自体は確固として侵害されることなく存続している。
ただ一度の価値創造に還元的根拠を見出して延々と所有権を保障するのは、果たして妥当だろうか。
上記のように、不当な占有には抵抗感がつきまとう。形式上は正統な所有権であっても、占有に内実が伴わない限り、不当な印象は拭えない。


事実としての占有は、正当な(あくまで「正当」な)理由、すなわち内実が伴っている限り承認される。しかし、内実が伴っていない占有は不当であり、承認され難い。
これは所有の本質があくまで事実、状態としての占有であることが所以となっている。
自由にしろ所有にしろ、権利として構築される以前、と言うか本来的に、単なる事実であり、状態である、というのがおれの持論。


状態である限り、所有しているヒトもしていないヒトもいるのだけれど、使っていなければ、必要とされていなければ、当然その占有に疑義がさしはさまれる。だから、使用実態や占有の必然性が占有の根拠として重視される。
そもそも状態でしかない占有は容易に侵犯されるし、私有物への価値付加創造も野放図に行われる。もしここで労働所有論から無主の財だけを対象とするという条件を取り払ってしまったら、つまり所有権の流動性、相互浸透性を認めてしまったら、大いなる混乱が起こる(と思っている)し、既得権益は破壊されるので、無主の財という条件は留保され続けているのだろう。


しかし、一回所有権が確立されれば以下に新たな価値が付加されても所有権は揺らがないという論理には、根拠がない。
個人的には、所有権の相対化による「優先権」への移行と同時に、所有権の流動可能性、相互浸透可能性を推していこうと思う。所有はあくまで占有でしかない、ということもね。

TB


所有論ノート―道徳的感覚の視点から http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070113/p1