可視化・相対化・自覚化とその先


2005/03/28(月) 18:30:25 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-29.html

権力に支配されていても、無痛文明に侵されていても、洞窟の中でただ火に照らし出された影だけを世界と思って生きていたとしても。
その事実を告げられたとき、それで何が悪いの?、と答えるヒトはいる。こう答えるまではいかなくとも、似たように感じるヒトは実は多数派であろう。


何が悪い、と反問されたとき、支配構造の暴露者、無痛文明の告発者は反支配・反無痛文明の合理的根拠を示すことはおそらくできない。少なくとも納得はさせられない。
何故なら、悪くないからだ。被支配も無痛も結構。それでいいヒトはそれでいい。責められるいわれはない。


もちろん、本当に重要なのは不可視の構造を白日の下にさらすという行為である。森岡正博も無痛文明が不可視のまま肥大していくことを最も問題視していると思う。
不可視の構造、システムを可視化すること、普遍視、絶対視されている概念、制度を相対化すること、自己の属性や現在地、言動などを自覚化すること。これらの作業は恒常的に不可欠のものである。


不可視化された構造を可視化することは欠かすことができないし、その役割こそいわゆるエリートや専門家に割り当てられるべきものかもしれない。
しかし、可視化されたからといって、その構造を問題とするかどうかは別問題である。


近未来にアナーキーユートピアが実現される。国家は博物館送りとされ、太田光が考えるような政治が無い社会、一般市民が政治参加することなしに何の問題も無い生活が保障される社会が成立する。しかし、実はそうした理想社会は巨大コンピュータによって統制・支配された見せかけの平和に過ぎないのであった…。
こうしたオーウェル風の議論を提示されたときに、少なくないヒトが嫌な感じを受けると思うが、ちょっと考えたり、もしくは実際にこういう現実に身を置いたりしたら、仕方ないよね、とか、まあいいんじゃないか、とか肯定するヒトがかなりの数を占めるとも思う。


ちょっと飛躍だけど、こういう不可視的権力が暴露されたときに、その構造を肯定できるヒトは、広い意味で、そして本当の意味で保守主義者と言えるのではないだろうか。
若手の研究者に保守主義者を自称するヒトが多い印象を持ったことから連想してしまったのです。もちろん彼らはコストやリスクといった術語を駆使して説明してくれるでしょうが。
そして、さらに飛躍なんだけど、不可視的権力の暴露時に、その構造をあくまで否定し、そこから逃れようとするヒトは、きっと皆アナーキストだと言い切ってよいのではないか。
ああ、真性アナーキストに怒られるな。


言いたいことはこんなザックリした印象ではなく、社会変革を訴えるなら、その保守主義者が自発的に変革へと向かう気になるような魅力的な制度・規範・社会を示さなければ無意味だということ。
だから、変革を生む為のインセンティブについて考えなければいけない。また、それは一面的な倫理の押し付けになってはいけないという抑制を常に伴うべきである。


つまり、所得再分配が必要だとしても、それは高所得者への暴力以外の何物でもないので、そのことを納得させるだけの論理とシステムが必要になる。納得させるというのは、丸め込むのではなく、その方があなたにとっても利益になりますよ、というインセンティブを魅力的に示すということ。そしてその論理に実態が伴うこと。
再分配が必要だ、ということではなく、再分配の方がいいよ、得だよ、と語らなければダメ。


もう一つ言いたいことは、そうしたインセンティブなどによって構築された新社会が単一のモデルを作り上げて、そこからの逸脱がしにくくなることを防がなくてはいけない、ということ。
それは、無痛文明に浸る自由、洞窟に篭り続ける自由を保障しろ、ということ。だって、それは悪くないんだから。
労働から人間を解放したとしても、その時間だけ政治参加や(ボブ・ブラック風?)「遊び」に縛り付ける結果になってはいけないんです。