精神的苦痛の本質的自己還元


2005/03/29(火) 18:52:50 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-30.html

自分が嫌なことを他人にするな、と言う。
相手が嫌な気持ちになることを言ったりやったりするべきではない、と言う。
他人を不当に侮辱したり罵倒したりする行為は処罰に値する、と言う。


さて、どうだろう。
確かに相手が嫌な気分になる、または悲しむような言動は避けたほうがいいなと思う。
でも、相手が嫌な気分になる基準はヒトそれぞれ違うよな。これはなかなか判断が難しい。どこに境界線を引こうか。
これは割とよく言われることだ。


もう一つ考えてしまうのは、嫌な気分や精神的苦痛というのは、結局それを味わう本人に因果が帰せられるものに過ぎないのではないか、という話。
乱暴に言うと、馬鹿と言われて腹を立てるのは器が小さいから、言葉の暴力に傷つくのは心が弱いから、といった暴論になるかも。
でも、身体的苦痛と比較すると、精神的苦痛というのは非常に個別性に左右される性格が強いことが明らかだと思われるし、どこまで言って大丈夫か、という判断は本当に難しい。


強い励ましが非難や叱責にとられ、正当な批判が誹謗・中傷として受け流され、同様の行為でも印象の好悪によって一方はスキンシップ、他方はセクハラと受け止められる。
これは結局精神、心、感情を動かされる本人の個別性に、感情変化の原因から結果までほぼ全てのプロセスが内蔵されていることになり、あらゆる精神的苦痛の根源的責任は苦痛者本人に還元することができる、と考えてもいいのではないか。


もちろん、社会的、一般的に見て「不当」な言動があった、と認められる場合には、その行為者は社会的な責めを受けてしかるべきと思われるが、法的処分、刑事処罰の対象になるかどうかは、検討の余地がある。
上記の流れでいくと、行為者の行為(罵倒、誹謗、中傷その他)というのは、精神的苦痛が引き起こされる「きっかけ」とはなったかもしれないが、本源的原因とは区別することができるからだ。




このことは積極的自由と消極的自由の問題に関わると思われます。
おれは自由を権利フィクションを外した上で純然たる「事実」「状態」と捉える考え方をしていて、そこから基本的には消極的自由を中心に考えているので、そのことと上に書いたことは親和性があると思います。

TB


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1