構造的自己満足と圧倒的「正しさ」


2005/04/06(水) 22:16:04 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-36.html

「記識の外」から、引用(コメント欄)。


政治的立場がまるで違う人たちが一様にヨハネ・パウロ2世の功績を称えているのを見ると、教皇の死をもってして自らの贖罪を行っているようにも思えます。平和の使者であった教皇の死を弔うことによって、戦争や紛争を行いながらも「実は」平和を希求している「私」というものを証明することができるのかな、と。


メディアが教皇の追悼をするのは自由ですが、それならその前に戦争を煽ったり憎悪を煽ったりするのをやめろよ、という気分にはなります。また教皇の死が、民衆レベルでも供儀の水準にとどまってしまい、それによって一種の免罪符を与えるだけのものにとどまってしまったら、それはそれで単純に「まつり」でしかなく、なんだかしんみりしますね。


平和の使者に一様に弔意を示すことが、一種の免罪行為となって働くことは、まさしく忌むべき事態である。


もちろん、一時的・定期的にでも圧倒的「正しさ」を確認することの重要性はあるし、一時的・定期的に留まることは現実生活上、責められるべき事ではない。イスラム喜捨のように、普段の不徳を一時の善行で償うことで、精神の安定と社会的不平等是正を同時に可能にする合理的システムとして(不十分ながらも)機能する場合もある。


しかし、こうした儀式としての一時的贖罪行為が、思考停止を目的とした自己満足、自己欺瞞システムとしての性格を(おそらく本来的に)色濃く持っている事は、広く自覚されてしかるべきだろうと思う。
戦争被害の歴史や現状が教えられたり語られたりする場面、テレビで恵まれない子供達の現状をタレントが一生懸命伝えたり支援を訴えたりしている場面、ガンディーやマザー・テレサ、今回のローマ法王のように、圧倒的に「正しい」ヒトへの一様の敬意が示される場面。色々なところでそれを考える。


繰り返すが、こうした構造は、一方的に批判することが許されるものではない。たとえ豊かな国のヒトの自己満足だろうが、無いよりはマシ、と言う人々が無数にいるだろうことは明らかだ。
もちろん、ひも付きや、パターナリスティックな援助が現地民の自主的な発展努力や自立心を阻害するといった、エンパワーメントの議論も非常に重要であるが、ここでは別のレベルとして一旦措くことにして。
やはり、自己満足だからダメ、一時的だからダメ、形式的だからダメ、ということだけでは批判は成功しないだろう。


とりあえず、自己満足であることを広く認識してもらうことが必要として(もちろんそこには、自己満足であることを認識したら思考停止による自己救済・精神安定の効果が著しく減じられるのではないか、という構造的困難が埋め込まれているのかもしれないが)、そこから先は、それでいいんじゃないってヒトとそれじゃダメだっていうヒトに分かれるわけで。
自己満足容認派内部でも多くのヒトは国益に沿う支援とかは許容するだろうし、どうせやるんだったら、援助の内容をより現地民の為になるものにしようという文脈の中で、エンパワーメントの議論なんかもより一層の支持と正統性を得ることができるだろう。


自己満足じゃダメだっていうヒトは自己満足だってことに気付いているのが前提だから、まず自己満足告発に努めるべきだけど、一方的かつ倫理的な批判は厳に抑制。「何故ダメなのか」じゃなくて、「じゃあどうするのか」、という問題意識のもとに具体的行動の選択肢、メニューを豊富にする、ということをすべきでは。そうすれば、自己満足じゃない行動、っていうのが実現できる環境に近づいたときに、口だけじゃないしっかりとした中身を示すことができて、ご立派。


あー、最初に書こうと思ったのは以下のことなんですよ。
やっぱり一時的・形式的な儀式としてでも、これだけ多くのヒトが圧倒的「正しさ」、ここでは平和主義に対してだけど、これに対して並々ならぬ敬意を示し、その原点を確認するということがある。
ならば、やっぱり現実と乖離してようが、圧倒的「正しさ」というものを高く掲げる存在というものは、社会において不可欠と言えるほどの重要性を保持しているのではないか。
しからば、平和だけに留まらず、生命に関しても、ヨハネ・パウロ2世の方針は一概に間違いとは言い切れないのではないか。


朝日新聞は法王の平和貢献を褒め、避妊・人工中絶禁止などの保守的生命観に苦言、といった様子だったが、そしておれも大筋ではそれに同意するのだが、あくまで社会的役割として考えた場合、法王が避妊や中絶を認めないことは、むしろ重要で積極的な意味も持っているのではないか。
同性愛なんかはそれを認めないことに多少なりとも積極的意味があるとは考えにくいと思うけど(もちろん相対的なもので、ちょっとはあるのかもしれない)、特に中絶は「胎児たれども殺すなかれ」という主張に圧倒的「正しさ」が含まれていることは否定しがたい。もちろん確信犯的に否定するヒトもいるが(パーソン論とか)。


人工中絶がたとえどうしても止むを得ないものであったとしても、生命を絶つ行為が人間社会においてはどうしても正当化しがたいものだという「原点」を常に確認する意味において、そこを見失わない為の灯台として、カトリック教会の「正しい」主張には積極的意味があると、おれは思う。
もちろんアメリカのように、社会や政治のエスタブリッシュメントがそうした原理的「正しさ」に過剰にコミットするような事態はグロテスクで問題アリだが。
仮に次の法王になったときに、これまで変に近代科学に迎合してきたように、安易に現実追随的な方針転換を図るとすれば、それは逆に警戒し、悲しむべき事態なのかもしれない。