犯罪被害者保護に一考


2005/04/12(火) 15:22:38 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-40.html

中央公論』5月号をチラ見。
東野圭吾のインタビュー大体と呉智英を読んだだけ。


呉は近代国家原理が本質的に抱える問題、欠陥として被害者疎外を捉えていて、それはよく語られることであり、間違っていないと思う。


つまり、刑法は国家の権力濫用を防止するためにつくられており、犯罪者とその人権の味方である、という事実がある。そこでは裁判・処罰・更生の過程は国家と犯罪者の2者関係であって、被害者はこの構図の中に組み込まれていない。
国家は犯罪者だけでなく、その被害者にも強制力を及ぼしている。すなわち、いわゆる自力救済(復讐その他)など、個人や社会に本来備わっている問題解決能力のかなりの部分を取り上げているのである。


こういう構造を考えれば、刑罰に被害者への慰謝機能を求める言説は、元々筋が違っているとわかる。それは多少なりともあったとしても、付属的・結果的なものである。


呉は被害者保護の運動、流れを支持するとは書いていたが、一読して、その意思があまり積極的なものとは感じられなかった。
それはそうだろう。彼の文章には近代国家原理へのニヒリスティックな姿勢が滲んでいたし、彼は確か「復讐を認めろ」運動をしているはずだが、そんな主張はそもそも近代国家原理の否定を意味している。当然彼もそれを自覚していることはわかる。


ここで、いわゆる被害者保護運動に対する態度が分かれていく様が見えるのではないか。


東野圭吾は犯罪者の人権を「少し」奪うことで、「犯罪者には人権が無いんだ」という認識を広げ、抑止力とする、といったような話を展開していたと思う(例としてプライバシー権?に触れそうなメーガン法が挙がっていたと思う)。
この話には人権派カンカンかもしれないが、昨今の一般的社会認識や世論の動向からすれば、かなり少なくない支持を得そうな議論である。
しかし、ここには逆説、と言うか罠が含まれていないだろうか。


現在の被害者保護運動の背景には、犯罪者の人権は守られているのに、被害者の人権は無い、という実感・認識がある。それは呉が言うように、近代国家原理に基づく司法、刑罰の過程が被害者を疎外した構造を持っているからであった。


さて、仮に国家が無い状態であれば、犯罪や紛争は当事者同士や、その帰属社会のルール・規範に則って処理されるであろう。近代国家はこうした個人間、社会内での問題解決能力を回収して、強制力を法と国家に集中させたのであった。
ただ、現実には、個人間、社会内での問題解決に留まって、国家や法に依拠しないケースが無数に存在し続けている。それは例えば、立ち小便や信号無視が黙認されたり、子供・初犯の万引きが最終的に許されたりするケースであり、これが反対に全て摘発・起訴されるような事態が「法の完全実行」と呼ばれる(かどうか、厳密にどうかは知らないが、この辺のところは白田秀彰の議論に依拠し、イメージを得ている)。


東野の議論に戻る。犯罪者の人権を「奪う」のは誰であろうか。
被害者保護運動。誰に一番「保護」を訴えているのであろうか。
言うまでもなく、国家である。
そう、今現在被害者を疎外し続けている近代国家である。


被害者保護の運動は色々な面があることであろうし、単純に一括りにすることはできないであろうが、法制化や政策レベルでの「保護」となれば、やはり主体はかなりの部分を国家が占め、国家によるパターナリスティックな保護という性格を帯びる危険性もあるのではないか。
また、国家によって保護してもらう、という発想は今現在の近代国家原理による被害者疎外の土俵から一歩も抜け出ていないものである。被害者と加害者が直接相対することなく、上位に位置する国家(法)が独占的に加害者を裁くと同時に保護し、同じように被害者を保護する。そこには社会的レベルでの機能が不在のままである。


いわば、これまでの被害者保護は社会に委ねられていた、のかもしれない。それが国家の保護下に入ろうとする背景には、マスコミによる報道被害(社会の機能不全の例?)など様々な要因があるのだろう。
加害者だけでなく被害者も近代国家原理の構造に組み込まれ(そこでは加害者との相互疎外という問題点は残されたままである)、社会の機能が縮小していくような事態になれば、国家と社会の棲み分け、役割分担は失われるようになって、法の完全実行が広範に実現しかねないのではないか。


まとめると、東野的な「被害者保護」は非常に危うい上に、加害者の裁判・処罰・更生の過程から被害者が疎外され続ける、という近代国家原理の構造的隘路(と言うより管轄外の問題?)から一歩も抜け出せていない。
他方、呉はこうした危険をかなりの部分認識していると思われ、「被害者保護」を否定はしないが、むしろ近代国家原理を綻びさせる、一部打ち破ることに精力を注ぐ。


もちろん、国家依存的なものでない「被害者保護」はそれなりに存在するのであろう。
そういう社会の機能を高める方向での「被害者保護」や、社会的性格を近代国家原理にアップリケする(例えば、加害者と被害者の接触を更生プロセスに組み込む)ような法制化運動、政策提言であれば、積極的に応援したい。

TB


司法論ノート―利害関係者司法に向けて http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070115/p1