読み手の問題か、書き手の責任か


2005/04/16(土) 16:36:28 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-43.html

たまたま通りがかりに、前から保留にしていた問題に関連する議論を見つけたので、レッツエントリー。


ある日の「ブログ時評」コメント欄でのはいじゃんぷ氏の発言


ところで「居丈高」であるというのは書き手の意図の問題ではなく、読み手の感じ方の問題です。読まれた方がそう感じたのですから、その点については謙虚に受け止められてはいかがでしょうか。私も少なからずそのような(居丈高)印象は受けました。


それに絡んで、ライブドア乙部広報に対する玄倉川さんの忠告


「誤解された」という言葉を軽々しく使うな。それは「誤解したほうが悪い」「自分(たち)は被害者だ」という非難の意思を言外に含んでいる。

彼女が使うべき言葉は、「誤解された」ではなく、「誤解を与える表現をしてしまい申し訳ない、これからはそのようなことがないよう万全を尽くす」であるはずだ。

「誤解された」などという言葉で責任を相手に押し付ける企業・人が、この先も信用を得ることは困難だろう。

「言葉尻」これも不適切な言葉だ。
「些細な問題にこだわられては困る」という意思を含んだ言葉だが、それが「些細な問題」かどうかは当事者の一方が勝手に決められることではない。

「そんなことを気にするほうがおかしい」「ただの冗談」そのような態度で相手からの信用を得られるはずがない。自分たちにとっては些細な問題であっても、相手がこだわっているのなら速やかに撤回し謝罪すべきである。


さて、書き手や話者の意図とは別に、読み手や聞き手が不快や精神的苦痛を感じた場合、これをどう考えるか。


もちろん両氏の発言は全く常識的であり、人間的に真っ当な考えであることに異論はない。
特に企業の広報という立場であれば、顧客や取引相手(になり得るレベルを含めて)の誤解には誤解させるようなことして御免なさい、と謝るのが実利的にも常識というやつであろう。
当然これは国家の外交関係にも当てはまり得る常識だと思うが。
(そう言えば、「まず謝る」ことについて、サモッチさんの興味深いエントリが以前にあった。)


ところが、常識的にはそうだとしても論理的には(あるいは屁理屈的には)そうであるとは限らない。
あくまで「読み手の感じ方の問題」であるとすれば、話者・書き手は聞き手・読み手の感情変化や快・不快に対する責任を負う義務はない、ということにもなり得る。
つまり、「おれが何を言おうが、そのことで喜ぶのも傷つくのもあんたの心の勝手なんだから、それについてはおれは知ったこっちゃ無いよ」という立場は、そんなに無理なく有り得る。


この暴論を多少マイルドに展開したのが、過去のエントリ「精神的苦痛の本質的自己還元」であった*1
改めて読んでみると、今書こうとしたことはほとんどカバーしている気がするので、付け足すことないかも。


確かに「誤解」や「苦痛」の責任を情報の受け手側ばかりに押し付けようとするヒトは、信用なんてされるわけはないのですが、そこには精神的強度(と言ったら語弊があるだろな)などの個別性が強いこともあり、何でもかんでもすぐに情報発信側を責められても困る。
そこらへんの微妙なバランス―つまり何が責められるべきで何が責めを免ぜられる程度かという判断―は社会的にある程度共有されている感覚、まさしく「常識」のようなものによって裁定されるのが望ましいのであろうし、実世界もそのように成り立ってきたはず。


だからこそ、おれは前述の過去エントリで、そうした判断は法的、刑事的判断にそぐわないのではないか、という考えを示した、のだと思う。
最後に自由がなんたら、と言っているのは、著作権プライバシー権に対して慎重なリバタリアンの立場に暫定的な支持を与えていることを意味しているはず。
つまり、本質的には「読み手の感じ方の問題」なのに、そこから書き手の発言などを制限するような方向に安易に突き進むのは、(例えば)言論の自由を脅かしかねない、などといった危惧になるのかな。


もちろん玄倉川、はいじゃんぷ両氏の発言は、法的判断とか相手の発言内容の制限などといったことは主張していませんし、無関係です。両氏を批判する趣旨ではありません。念のため。

コメント

言いたいことを言うには知恵と覚悟が必要
人の心を傷つけても、怒らせても、どうしても言いたいことであれば言ったほうがいいと思います。それなりの覚悟を持って。ただし、意図せずに傷つけたり怒らせたりしてしまった場合は善悪よりも賢愚の問題でありまして、しかるべく対処が出来なければ馬鹿と思われるだけでありましょう。
2005/04/16(土) 19:02:56 | URL | 玄倉川 #- [ 編集]


そうですね
まあ、どっちみち社会一般に見て不当、不穏と捉えられる発言をした者は、信用を損なうなどの社会的制裁を受ける羽目になる(はず)だろう、という含意もありましたし。
でも、時にはガリレオになる勇気も残しておきたいもんです。ちょっと違うかな。
2005/04/17(日) 01:01:10 | URL | きはむ #- [ 編集]

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責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1