実感と想像力


2005/04/02(土) 14:10:25 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-33.html

実感がわかないんだよねぇ、と、よく言われる。


自分達の国の飽食、大量消費が貧しい国の飢餓を助長しているといった旨のデータ、論理を見聞きしたとき。
戦争や貧困といった「昔話」を聞かされたとき。
場面は様々有り得るだろう。


しかし、それは自らの位置と対象との間にあるギャップを強調するだけで、想像力によってその溝、距離を埋めるという作業をしていないし、しようとしていないだけではないのか。
自分が位置している豊かで裕福な社会、環境に引きずられすぎて、どうやってそこに至ったのかというプロセスやこれからどうなりうるのかという可能性、周りの社会はどうなっているのかという同時代性などに対して、あまりにも無感覚で過ごしていると自分の位置を相対化することなどできるはずもない。


実感て何なんだよ。実感なんて誰だって無いよ。飢餓で苦しんでいる子供達がおれ達の生活に実感を持てるわけがない。
それに比べると、同じく実感がないにしろ、向こうの社会に対して事実としての構造やデータを知ることができる我々の社会は、ここと向こうの距離を思考や想像でより埋めやすい立場にあるのではないかね。


実感できる近親社会(生活世界、親密圏)と周辺社会(外、向こう、他者)との距離は、実感から出発して、想像力という擬似実感によって実感を敷衍していくことで架橋することができる。
こういう論理を構築することが、ロールズやヒュームのやろうとしたことなんでしょう?


実感が無いのはわかったから、そこからどうするのかを考えましょうよ。結論が断固無視でも現状維持でもいいからさ。
とりあえず、実感が無い。それでいいのか。どうだろう。と、一回立ち止まって考えるだけしてくれればさ、少なくとも自分は自分の実感の範囲内だけで生きているんだなってことだけは実感できるだろうから。


さて、想像のすすめをしたところで、そこから先の困難についても考えなきゃならない。
それは、想像できない、想像もつかない、という壁。想像の果てだ。


痛ましい事件や事故が起こると、怒涛のような情報量で無理やりにでも被害者および被害者家族への同情、共感、慰謝を煽るのがマスコミの常であるが、おれは犯罪・事故の被害者および被害者家族に対して安易に同情したり、その痛み・悲しみ・怒りに共感したりすることには抑制的である。


なぜなら、想像できないからだ。想像なんておこがましいと言ってもいいくらいだ。特に大きな犯罪・事故・病気に遭遇することも無く過ごしてきたおれにとって、被害者とその家族の感情はあまりに遠い。
もちろん想像はする。想像してお悔やみ申し上げる。しかし、それはどこかの地点で止まってしまうことを余儀なくされた想像だ。この種類の想像は、ある地点から先をどうしようもなく空白としてしか認識ずに終わる。
この場合の想像は不完全であることが不可避であり、そのことに自覚的である限りは、安易に被害者とその家族に同情・共感した「つもり」にはなれない。


想像が持つ限界も知っておかなくてはならない。想像はあくまでも想像であり、個別性が強いケースや深い感情の部分には入っていけないことが多い。
安易に想像、想像と念仏のように唱え、何でも理解・共感できるような気になっていると、手痛いしっぺ返しを食う。所詮それは知ってるつもりにしかならないのだから。


今日の結論はこちらです。
実感せよ。そして想像せよ。しからずんば実感の限界を自覚せよ。
想像せよ。そして行動せよ。しからずんば想像の限界を自覚せよ。
合ってるか、これ?