「こども」の悩みと生々しさを直視


2005/04/22(金) 20:32:04 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-49.html

こどものことども」@おおやにき


何日か前に、小学生だかの子供を持つ主婦から、息子を含む学校行事のご一行が愛知窮迫もとい愛・地球博の会場入り口に設置された金属探知ゲートをくぐらされた、なぜ小学生に必要なのか理解に苦しむとかいう投稿が掲載されていて、ばかでえと思ったもののシロウトさんの言うことだしと流していたところ、今日になって同欄に「学校行事の皆様につきましては当初から金属探知器を通らず、専用のゲートで、ご入場して頂いています」という博覧会協会からの回答が掲載され、どうやら馬鹿が蔓延しているらしいことに暗澹とするこの夕餉。


そもそもなぜ子供なら不要だと思うのかというと、大人は刃物とか爆弾とか危険なものを持ち込む可能性があるが子供は純真だったり無垢だったりするので警戒する必要がないと、そういう話なのだろう。


もちろん、そもそも子供とはそのような純真無垢な存在ではないと考えた方が妥当だろう。小学五年生の女子でも、カッターナイフ程度の道具さえあれば同級生が殺せるわけだ(しかもそれが起きたのが学校という、先生が管理しているはずの場所であったことにも注意しておく必要があろう)。そのことはすでに現実に証明されてしまったというのに、なぜ子供なら特別扱いだとか、そういう発想がまかり通るのだろう。つまりこの国の人々はあの事件を忘れ去りたくて仕方がないということなのか。


こどもは天使なんかじゃない、むしろ悪魔みたいに残酷だよ。
という話は藍川さとるの「ウィーカーセックス スピーカーセックス」(『週末のこいびと』所収)で陽介さんも話しとるわけで、おれも読んだ当時なるほど確かになと思ったわけだが。
でもそれはそうだけど、こどもはやっぱり純真なんだよ。それで、純真さゆえに教育され洗脳された大人達がタブーと感じることを犯してしまうわけだ。つまり、純真さと残酷さ・凶悪さというのは矛盾しない。純真なこどもは将来封じ込められ矯正される残酷さ・凶悪さを無邪気に発露させる。


その矯正過程に自覚的になって部分的、全面的に反抗を試みて繰り返される衝突が、多くは思春期と呼ばれる時代に行われるのだろう。もう少し幼い頃の反抗期は無意識的反抗なのかな。
こういうこともあるから、12歳や14歳で殺人者になったこども達を知って大きな衝撃を受ける大人達、世間の人々の考え方がおれには理解できない。第二次性徴、思春期の時期は様々なこと(多くは些細なこと、しかし根本的なこと)で最も悩み苦しむ時期じゃないか。そこで殺人・自殺・自閉などに陥る人間がいくら多くてもおれは驚かない。


大人達は思春期にたいして悩んだことは無いおめでたいヒト達ばかりだったのだろうか。それともそうした記憶・経験を封じ込めてしまったのだろうか。
こういうことに時代は関係ないと思う。現代は悩み多き時代だなんておれは信じない。「こんな時代だから…」なんて戯言は大嫌いだ。どんな時代か説明してみろ。「忘れかけていた何か」の「何か」ってなんだ。具体的に言え。


脱線してしまった。つまり、10代前半のこどもがどんなに凶悪な犯罪をなしたところで、それはある意味とても自然なことだ。そんなに驚くことじゃない。まぁ、「私たちの社会のシステム設計は誤っていたのか」というレベルでの大きな衝撃はありうべきだが。でもそれもなぁ。結局目に見えてくるのは例外だけだから。


ついでに言っとくと森達也/姜尚中『戦争の世紀を超えて』で森は戦争や虐殺における善良たる人々の残虐さについて「何かが止まる」という表現で考えようとしていたが、おれはそれに関しては逆方向だと思う。
むしろ「何かが動く」のではないか。それも元々内在していたものが。どこかに深く封じ込められていたものが。何かのきっかけで、ときにはいとも簡単に。あるいは戦争状態やイデオロギーの継続的働きかけによって徐々に。


「何かが止まる」という方向だと人間が本来持っている生々しい姿を正面から捉えきれない気がする。性善説とまでは言わないものの、どこか人間の善良性・道徳性をあきらめきれずにいる。
もちろんあきらめなくていいし、期待は残してもいいのだが、まず人間に内在している多面性を正面から受け止めた上でのことだ。
「何かが止まる」のではなく「何かが動く」からこそ尋常ならざる残虐性・凶悪性が発揮されるのだ。そして善良な父・夫・息子(母・妻・娘)に戻るときに、それを封じ込め、深く深く沈ませるのではないか。


社会を安定的に運営する為のシステムとしての教育や道徳規範の是非はともかく、その役割・意味とそれが無い場合、それと衝突するものなどについては自覚的であるべきだ。
もちろん以前にも別のとこで書いたが、こういうシステムというのはその人工性とか虚構性が広く認識されてしまうと、目的とする効用を減じてしまいかねない、という困難を抱えているわけだが。




ブラック・マリヤ/勝手にしやがれ


自由になあれ (ウィングス文庫―晴天なり。)

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戦争の世紀を超えて

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コメント

こども
ども。私ゃ士郎正宗ドミニオン』の子供使って仕掛け花束渡させるあたりを想起していたわけですが藍川さとるもいいですな。元気なんだろうか。私にとっての佐世保事件というのは「あ〜11歳の腕力で十分なんだ」という話だったわけですが。
ところでシュティルナーが気に入ったら『哄笑するエゴイスト』は読みなさい、ぜひ読みなさい。しかして大屋「エゴイズムにおける『私』の問題」も読んでください。宣伝。
2005/04/28(木) 01:47:22 | URL | おおや #2sQQXnjA [ 編集]


読みたいのは山々山
そうですねぇ、ヒトって簡単に死にますもんねぇ。鉛の玉が一発ぶち込まれたぐらいで即死するのって、何回映像で見ても不思議な感じがします。かと思えばどう考えても生きていられないように思える状況でもサヴァイブしたりしますし。ホント不思議。
宣伝ありがとうございます。読むべきものが多すぎていつになるやら。
2005/04/28(木) 13:56:26 | URL | きはむ #- [ 編集]