テキスト『財産権の理論』森村進


2005/05/01(日) 02:02:55 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-55.html

1995年、弘文堂。


主に自然権論に依拠した古典的自由主義者に分類されるリバタリアン森村進の代表的著作。
自己所有権テーゼを擁護することに過半の精力を注いでいる。


ここでは、森村氏そして自然権論的リバタリアン一般への応答として、自己所有権テーゼの相対化と消極的自由の擁護に焦点を合わせたい。
結論を先に書いておくと、自己所有権は絶対的なテーゼではなく、最終的決定優先権として捉えられるべきである、ということが一つ。二つ目は、「自由」は「実現可能性」と切り離し、「侵害する自由」も含めた事実状態として、正面から受け止めなおすべきである、ということ。


まず、自己所有権に確固たる根拠が存在していないことは、森村も事実上認めている。自己の身体や行為は自己の支配下にあり、「自分のもの」であるという普遍的事実は、単なる事実に過ぎないのであって、自己所有権テーゼを認める「べき」であるという規範的議論の論拠とはなり得ない。この点は、事実命題と規範命題の位相の違いとして一般に理解されている。事実をいくら集めても、こうする「べき」だという根拠にはならないのである。
それゆえ、森村お得意の「道徳的直観」が持ち出され、それによって自己所有権テーゼの正当化が試みられる。

曰く、自己の身体の物理的支配と自己所有権との関係は、論理的ではなく心理的なものに過ぎないので、前者は後者の理由ではないが、後者が信じられている原因ではある。
間違いなく、我々は他人の身体や能力とではなく、あくまでも自分の身体や能力と同一化している。この事実は、無意識的にでも、自己所有権テーゼを広範に信じ込ませる原因となっている。
「私の身体のことは私が決める」とか「おれの物に手を出すな」といった感覚は自己所有権を支持しているのであり、こうした感覚を抱いている人々(明らかに圧倒的多数である人々)に対しては、「あなたもそれを信じているではないか」という論法で自己所有権テーゼを正当化することができる。
あらゆる規範的議論は究極的には何らかの道徳的直観、日常的な道徳感情に訴えかけざるを得ないのであって、それは論証のレベルから説得のレベルへの移行の不可避性を意味している。
こうして考えると、上に見たように自己所有権テーゼは多くの人々が日常的に実は支持しているものであって、それゆえ、最も自然で説得力を持った直観に一つであると言える。


以上のように、森村は、一般的な道徳感情によれば誰しもが自己所有権テーゼを信じているのであって、そうである以上、この道徳的直観に適合的なテーゼは認める「べき」なのであって、正当化できる、と考えている。私は、この思考プロセスが森村流の自己所有権テーゼ正当化の核心であると考えている。以下ではこれを批判し、限定を加えたい。
また、規範的議論は最終的に道徳的直観に訴えかけざるを得ない、という森村の主張に関しては、暫定的な支持を与えておきたい。しかし、以下を読んで頂ければ解ってもらえると思うが、私は森村が道徳的直観を議論に持ち出すタイミングは全体に早すぎると考えている。それゆえ、議論は「最果て」に向かう前にブレーキをかけられ、妥当でない場所に留まってしまう。よって、私は、道徳的直観を投下するタイミングは、論理的思考を突き詰めて得られた結果を判断する段階まで待たれるべきだと主張したい。


さて、森村所有権論批判に移る。
確かに、ほとんどの人間が自己の身体をほぼ排他的に支配している。そして、それゆえに、誰もが自己の身体とその活動の及ぶ範囲への自らの権利を信じて疑わない。
しかし、だからといって、森村が主張するように彼らは自己所有権を信じているのであって、それゆえ自己所有権は正当化できるということにはならない。なぜなら、我々が持っている、自己の身体と活動・成果に対する権利への確信は、完全に排他的でも絶対的でもない「優先権」への信頼からも説明ができるからである。


まず、自己の身体・活動・成果を完全に自らの支配下においていることが自己所有権の根拠となるわけではないことを再確認しておく。そして、確固たる根拠無き自己支配というものは本来、厳密な意味での「権利」を主張できるような正統なものとは言えない。
森村は、これを道徳的直観としての自己所有権への確信、いわば「道徳的権利」のレベルの議論をすることで乗り越え、正当化を図ろうとしたのだった。
しかし、私は別様に考える。道徳的直観を持ち出す前に、正統に根拠付けられているわけではない支配というものが、そもそもどういうものとして捉えることができるのかを考えよう。
それは、実効支配であり、排他的専有である。私は、私の身体を専有しており、他者の支配を免れている。この状態は、現在たまたまそうなのであって、必然性があるわけではない。事実として私は自己の身体やその活動および成果を支配しコントロールしているが、そこにそうであるべき必然性が特別あるわけではないし、繰り返すように正統な根拠があるわけでもない。
この状態は実効支配と言う他無い。そして、根拠が無い以上、自己の支配について言うには、権利としての「所有」ではなく、あくまでも事実・状態としての「専有」こそが、ふさわしい表現である。


我々はそれぞれ自己を実効支配している。このこと自体は何らネガティブに捉える必要は無い。そして、実際に我々は、慣習的に、自己の実効支配・排他的専有を相互に承認している。こうした自己の実効支配・排他的専有に対する慣習的相互承認が普遍的・歴史的に存在しているからこそ、誰もが自己の身体・活動・成果への権利保有を確信しているのである。
しかし、ここには自己所有権テーゼとは微妙だが決定的な違いがある。「生存のくじ」の例から、その違いを見てみよう。


「生存のくじ」については説明を省く。(参考―http://www.arsvi.com/0e/lottery.htm
森村は多くの人々が「生存のくじ」に直感的に反対するのは、自己所有権を信じているからだとして、自己所有権テーゼの補強に役立てようとするが、この考えは誤っている。
この誤りは、「自己所有権の確信」と「自己専有状態への固執」を取り違えていることに発する。端的に言って、「生存のくじ」に反対する多くの人は自己の排他的専有という既得権益を手放したくないだけであって、自己所有権テーゼを信じているかとか支持しているかということとは関わりが無い。自分が持っている排他的利益を損なわれるのは我慢がならないが、自分がその利益に対して排他的な「権利」を有しているとまでは信じていない人は存在しうる。彼は「権利」を認めてもらえばうれしいかもしれないが、主な関心があるのは「権利」があるかどうかよりも、専有している利益が保持されるかどうかであろう。
仮に、想定しがたい仮定ではあるが、他者を実効支配している人間がいたとして、その事実を周囲の人間も黙認あるいは慣習的に承認しているとしよう。慣習的承認まで得ているとするとどうかわからないが、彼は自分が専有している他者の身体・活動・成果に対して、自分が「権利」を有しているとはおよそ信じないであろうが、他者の排他的専有から得られる利益を保持することに関しては固執するであろうし、その結果として「権利」を主張し始めるかもしれない。
以上のことから、「生存のくじ」に対する直感的反対の多くは、自己の排他的利益を脅かしかねない存在に対する利己的闘争心の現れである、と言うことができる。我々反対者の心中で問題なのは、「権利」(法的なものであっても、道徳的なものであっても)の存在ではなく、専有の維持、既得権益の保持であるから、こうした直感的反対を自己所有権潜在的支持と結び付けようとすることは、妥当とは言えない。


しかし、自己所有権を信じているわけではなく、専ら自己の専有・実効支配を問題とするということは、どういう考えに基礎付けられているのか。私が主張しようとしている「優先権」とは一体どういうものなのか、今ひとつ明瞭になっていないと感じている方が多いかもしれない。ここまでの確認から始めよう。
正統に根拠付けられたわけではない自己の支配は権利としての所有ではなく、事実としての専有であり、人間は各人が自己を専有していることについて、歴史的・普遍的に相互承認してきた。ここで注意して欲しいのは、専有は慣習的に承認されているに過ぎないのであって、その専有はいつ脅かされるとも知れない不安定なものでしか有り得ないということである。私はいつ誰かに生命を脅かされるかもしれない。それはある「べき」ことではないが、「有り得る」ことではある。事実としての専有は、こうした不安定な現実をそのままに意味している。


このように、「専有」はあくまでも流動的なものである。ここから、「私の身体のことは私が決める」という人に対して以下の様に言う事ができる。


「確かにその身体はあなたのものと言えるかも知れないが、それはあくまでもあなたが事実上専有していて脅かされていない、という意味の限りにおいてである。あなたはその身体を支配する明確な根拠も正統性も持っていないのであるから、あなたにはその身体を自由に使用し処理する権利など無い。同様にあなた以外の誰にもその身体への権利は無い。よって、その身体に関する決定において、その身体を実効支配しているあなたの意見は、あなた以外の誰の意見よりも優先されるべきであろう。このことは、その身体に関する決定において最大の利害関係者があなたであることからも明らかである。」


ここで、実効支配者の意見がそれ以外の人間よりも優先されるべきである理由としては、その身体に関して多くのことを知っている点、実際に最終的決定とその執行をコントロールする力が最も大きい点、その身体に関して明らかに最大の利害を負っている点などが挙げられる。


例えば、「生む権利/生まない権利」を主張する妊婦には自己決定権などは無い。しかし、決定に関する優先順位においては明らかに最高の地位を与えるべき存在であろう。そして、それは妊婦がその身体を専有しているからであって、その身体を共有しているはずの胎児は、母親に対して圧倒的に力が弱い為に、その身体の専有を脅かすことができない。それゆえ、胎児は妊婦の身体に対して妊婦よりも決定的な利害関係を有していると思われるにもかかわらず、専有の争いに敗れてその生命を失うケースが無数に存在する。ここまでくれば明らかであろう。これはもはや自己所有権の問題ではない。専有と利害、その結果としての優先の問題なのである。


利害関係度を考えることは、自己所有権を相対化する上で非常に役に立つ。確かに私は私の身体に関する最大の利害関係者であるが、私の身体に利害を負っているのは私に限られない。例えば、私が死亡することで友人は精神的苦痛を多少なりとも被るであろうし、私の職場の人間は物理的・経済的損害を被るであろう。そして、家族はその両方に苦しむことになる。こう考えると、私の身体には程度の差こそあれ、多くの人間が利害を負っていることになる。そうであるならば、優先度は圧倒的に異なるにせよ、身体に関する決定には、自分以外のあらゆる利害関係者も発言・関与して構わないことになりはしないだろうか。こうした考えは非現実的かもしれないが、排他的な自己所有権や自己決定権に固執している人をクールダウンさせるには多少役立つことだろう。


さて、そろそろ結論をまとめよう。
我々は確かに自己の身体とその活動・成果を支配しコントロールしているが、それはあくまでも事実・状態としての専有であり、無根拠である。実効支配者であり最大の利害関係者としての立場から、自己の身体に関する決定については最大の影響力が与えられるべきである。それは、自己が自らの身体・活動・成果に対して持っているのは、排他的・絶対的な自己所有権ではなく、限定的・相対的な「優先権」であることを意味している。
こうして自己所有権を相対化することで、我々は個別性へと閉じこもりすぎることなく、自らが位置している社会的文脈や他者との関係も併せて視野に入れることができるようになるだろう。




長文になった。「自由」の問題についてはまた別の機会に述べたい。
もう少し考えをまとめてからにしたいのも事実であるので。
この文章自体、あまりまとまりがないようにも思うが、とりあえず今の時点で提出しておくことに意味があるように感じた。
多様なヒトからのご意見・ご批判を歓迎する。


財産権の理論 (法哲学叢書)

財産権の理論 (法哲学叢書)

TB


所有論ノート―道徳的感覚の視点から http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070113/p1


所有論ノート(2)―私的所有権と自己所有権 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070602/p1