アプリオリな固有性について考える


2005/05/10(火) 18:36:46 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-63.html

個人におけるアプリオリな固有性って何だろうか。


これまで、個人から多様な属性や社会的位置を除いた部分としての「固有性」と区別すべきものとして、属性なども合わせた上での「総体としての個別性」とか「決定的個別性」があるという言い方をしてきた。


しかし、個別性と固有性は違いが明確でないし、自分自身その場その場で曖昧に使ってきたこともあるので、改めようと思う。
「総体としての個別性」は「唯一無二性」あるいは「唯一性」と呼ぶことにしよう。そして、狭義の個別性を、アプリオリな個別性とか固有性とか呼ぶことにする。


他人と相対したときには、彼の「アプリオリな固有性」は自明ではない、と言われる。一考してそう思える。これまで自分でもそう考えていたようだ。
しかし、改めて考えてみると、実は、ひどく表層的な部分に限っては、他人の固有性というのは多くの場合自明となっている。


初対面の人に出会うのでも、テレビの中の人を見るのでもいい。彼を見たとき、私にとって彼は「他者」のままでありながら、彼の固有性は自明である。私は彼が私=自己ではないことを知っているし、彼が独立単体としての一人間であることを知っている。私は彼が彼として存在していることを認識する。
ただし、私は彼が他の「彼」とどう違い、どう固有なのかはよくわからない。私にとって彼は、固有な存在でありながら、代替可能である。もっと言うと、私は彼を「かけがえのない」存在であるとは知っているが、実際問題、私にとって彼が「かけがえのない」ことはない。
私は、まるっきり抽象的なレベルでの固有性を彼に見つけ、彼を固有な存在として表層的に認識している。そんなものは固有性とは言えないと反論されるかもしれない。しかし、この時私は彼を何らかの属性によって判断しているとは言い難いと思う。


アプリオリな固有性とは、ひどく懐の深い概念なのではないか。
それは普通すごく深いところに鎮座しているように考えられているが、実際はきわめて表層的に現れてくる部分を持っている。
それは普通各個人の個別具体的な「何か」を指しているように考えられているが、それ以前に個人が個人としてそれぞれ固有な存在であるという抽象的な前提も同時に意味している。
つまり、抽象的な固有性と個別的な固有性とがある。確かに、他人の中に後者の部分を見つけ出すのには時間と手間がかかるし、方法や基準が一定しているわけではない。しかし、抽象的な固有性に限れば、私たちはそれを前提として生きている。


抽象的な固有性だけを押し出されても、あるいはいきなり個別的固有性を強調されても、私は彼を認識し難い。だから属性に頼る。属性を経て彼の固有性を認識し、唯一性の発見に近づいていく。
抽象的固有性はまず第一に前提とされているものなので、これと属性はいわばセットである。抽象的固有性だけを認識することはあまり考えにくい。他方、個別的固有性だけを認識して属性を顧慮しないケースは考え得る。しかし、その場合はあまりに私的なワールドに閉じこもった話のような気がするので、取り扱う意義が薄いように思われる。
前提としての抽象的固有性、そこに付随してくる社会的属性、次第に明瞭になっていく個別的固有性。こんなところか。


アプリオリな固有性と社会的属性を併せ持った上で唯一性が発現する、という私の個人観は変わっていない。ただ、固有性と言っても単純じゃないかな、という話をした。
しかし、私が言っている抽象的固有性とは、人間属性を持った一個体としての認識、といった意味で、やはり属性による判断に含まれるものだろうか。まだ考えはまとまっていない。
(しかしながら、それだけではない気はしている。例えば個人の身体的特徴は個別的固有性として数えられ得るだろうが、同時に抽象的なレベルでも固有存在ごとの「違い」として片付け得ることから、抽象的固有性にも数えられる。そしてこの時、個体ごとの固有の「違い」を抽象的にでも認識している私は、属性による判断の位相に留まっているだろうか。)
また、個別的固有性なる概念を登場させることで、唯一性との相違・関係はますますわかりにくくなったかもしれない。


いずれにせよ、まだ旅の途中。あまり急がないことにする。

TB


個人は社会の前に存在する http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070112/p1