森達也とか外交とか


2005/05/13(金) 15:27:46 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-66.html

一人ができることには限界がある。
だから他人に頼る。任せる。お願いする。あるいは使用する。


興味がある分野のことでも、考えを上手く言語化できないとか、あまり深くかかずりあっている余裕が無いとかいう理由によって、自分ではなかなか語らないことがある。
そんな事柄を明確に語ってくれる人がいることは、非常に「楽」だ。


この分野のことについて考え語るのは、この人に任せちゃっていいな、と思える人物が現れるのはある意味でとても幸福だ。
そこに潜む色々な弊害については、この際目をつぶろう。


現代の社会問題の多くを考える上で、おれにとっての森達也はそういう存在だ。
語り下ろしの新著『こころをさなき世界のために』を読了。
サブタイトルにも入っている親鸞のことは個人的にはどうでんよかと思うばってん、全体としてはやはり読まれるべき好著。森が今まで語ってきたことの繰り返しが多いが、新書として手ごろにまとまっているので森の考えに触れるには便利だろう。


いつか森の考えに少うし異を唱えたことがあったが*1、そんな些細な違いは大した問題ではない。
テレビについて、マスコミについて、オウムについて、社会について、視点について。共感・賛同するところがあまりに多い。
きっと人間的にも似ているのだろう。


少し心配なこと。森がいわゆる進歩派、古典的朝日岩波論壇などで非常にもてはやされ始めている状況に見えること。そういった狭い世界で旗手に祭り上げられた結果、消費されていってしまうのが危惧される。リタイアド老人や旧式左翼などを慰撫する存在に終わって欲しくはない。
もちろん進歩派内部だけでなく、どこであっても怖いことは弾圧されることより祭り上げられることだ。単なるお題目として、あるいはしたたかなガス抜き戦略の一環として、利用されてしまう。この辺は森岡正博も『無痛文明論』の中で執拗に繰り返している。
ま、こういうことは森も明確に言わないまでも、自覚しているように見えるフシはある。もちろん自覚しているから必ずしも回避できるとは限らないが、これ以上言わんとこう。


さて、話を変える。
内田樹氏の九条エントリに関して、大屋雄裕氏の批判は、あの限りでは的を射ているのだと思う。内田さんは言いたいことは分からないでもないが、やはり甘さは否めない。
リアリズムどうこうに関しては、以前書いたこともあるし、今更言うべきこともあまりない。


これに絡んでおれが収穫を得たのは、「任せられるヒト」に近い人物を発見したということである。
「軍隊があれば防衛できる」という「リアリズム(≒短絡)」@まぜたま (かき混ぜた卵)

 安全のためにやるべきことは迎撃を検討することではない。
 何よりも「撃たせない」ことだ。そのためにやるべきことは憲法9条の改正ではない。

ま、そういうことだ。


おれはこの分野に関してはちゃんと自分で語ろうとも思っているので、別に任せっきりにするつもりもない。だから、正確に言うと、考えが近いヒト、おれが考えていたことを語ってくれたヒト。しかし、そう言えば野坂を引き合いに出して語ったことも無くはない*2

何年か前の「TVタックル」で野坂昭如が、ミサイルが飛んできたら終わりだという旨の発言をしていたと思う。
おれもそう思う。逃げようもないし、迎撃システムなんてどれだけ頼りになるのか。
いずれにせよ、虚構の論理にすがるよりも真摯に外交しましょ。「合理的判断」を跳び越えて来るヒトはいくらでもいますよ。それを日本はよく知っているはずなんですが。


反論はまるで矢のように。来るだろう。呆れて反論するまでも無い?。
撃たせないようにと言っても、撃ってきたらどうするかだ、というのはわかる。
両方やるべきで、片方に限定する必然性は無い、というのもわかる。


撃ってこられたら失敗だね。失敗の結果を受け入れなければいけない理由は無いけど、失敗の結果として不利益が襲い掛かってくる必然性は十分ある。というか不利益だから失敗か。
撃つも撃たないも向こうのさじ加減で、こっちの失敗も何も無い、と言うのかい?。でも他者とのコミュニケーションってそういうものでしょ。外交ってそういうものでしょ。


今更繰り返して言うのもなんだけど、こっちがベストを尽くしたつもりになっていれば、相手がどう出ようが相手の問題で責任だ、ということじゃないでしょ。問題なのはこちらのベストじゃなくて向こうのニーズを満たすことだ。
リアリスティックな資本主義者諸君、そこをもう一回考えよ。市場においては、相手の利益を実現しなければ、相手は交換には応じまい。
無論、外交において向こうのニーズだけ満たすわけにはいかない。そこは交渉だ。これも商売と同じことだ。


中国や韓国その他に対しても同じ。反日教育やら内政事情やら持ち出して、向こうの問題と断じることは簡単だ。向こうの問題を考えることは確かに重要だ。おれ自身、こっちの言動にどう反応するかは、本質的・原理的には向こうの問題だということは強調してきた。でも、政治や商売、「現実」の問題なら違いますよね。
こっちの利益は重要。ときには強硬な態度も必要かもしれない。
だが、「ベストを尽くしたからオッケー、向こうのニーズは満たせませんでした」で終わっては、玄倉川さん言うところの「バカ」だろう。少なくとも大人の世界では。


で、それでも万が一のために備えをしておくべきだというのはわかる。わかるから、以下には賛同者が激減することも想像しやすい。


ま、とどのつまり、おれは国家よりも国民(よりも自分と周囲のヒト)が重要だと思うので、国家が滅んでも知ったこっちゃ無い。
万一攻撃されて国家が滅んでも、占領されても、望ましくないかもしれないが、最悪とは限らない。命までとられるので無い限り、加害者になるよりは被害者になりたいと思うヒトはそう少なくないと考える。
誰かが言いましたね。人命は失われたら二度と戻らないが、国家は滅びても人がいる限りまた築かれると。


もし仮に日本が備えを持たない道を選ぶことがあれば、おれはそれを支持する。撃たれたときは誰かが死ぬし、誰かを殺すかもしれない。それより撃たせないようにするが大事。ベストを尽くすのではなくニーズを満たすか別の形で納得させる。
こんぐらいにしとこう。


お断り。以上は九条擁護論ではありません。つれづれに書き殴った駄文です。擁護論をするなら、もっとちゃんとやります。


コメント

ありがとうございます
 まぜたまのtaroという者です。「「任せられるヒト」に近い人物を発見した」という過分の誉め言葉を頂き、ありがとうございますm(_ _)m。
 「撃ってこられたら失敗だね」と、その通りなのです。でも、仰るとおり「他者とのコミュニケーションってそういうものでしょ。外交ってそういうものでしょ」というところです・・・。
軍備を備えて撃たれたら、やっぱり失敗という意味では同じという面もありますし。
 「無論、外交において向こうのニーズだけ満たすわけにはいかない。そこは交渉だ。これも商売と同じことだ」という点、とても共感します。それは非常に辛抱の必要な領域でもありますが、そこの綱渡りの中に安全がある可能性が高いと感じています。
 他のエントリーも読ませて頂きました。非常に興味深いものでしたので、アンテナに登録して、今後も閲覧しに来ます。

2005/05/14(土) 00:43:24 | URL | taro #X/BIXrnc [ 編集]


こちらこそ
どうも、ご丁寧にありがとうございます。
尻切れトンボ気味に終わったもので、ちょっとまたいつか改めて書かんといかんかなぁと思ってます。
taroさんへの言及は過分ではないと思ってますが、自分の考えに近いヒトを「誉めている」のだとしたら、自画自賛ってことじゃん、とか思ったり。そうか、おれは森と考えが近いと言うことで自賛していたのか?。
2005/05/14(土) 14:58:29 | URL | きはむ #- [ 編集]

TB


「軍隊があれば防衛できる」という「リアリズム(≒短絡)」 http://blog.livedoor.jp/taro_scrambled_eggs_26/archives/21705717.html


平和論ノート(2)平和をたぐり寄せる http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070118/p1