大屋論文における「唯一者」の誤解


2005/05/05(木) 18:57:28 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-59.html

何とも挑戦的なタイトルだな。


本題に入る前に述べておきたいのですが、前エントリの最後に「しばしお待ち頂きたい」とある「しばし」は結構長〜い「しばし」になると思いますので、当面はそれについて書くということはないです。


今回は、一応一連の個人的「シュティルナー・ショック」の当ブログ上での幕引きとして、先日大屋先生御自らご紹介下さった論文、大屋雄裕「エゴイズムにおける『私』の問題」(『名古屋大学法政論集』193号、1〜28頁、2002年9月)を読んだ印象とそれに関する批判を述べたい。


当該の大屋論文では、結論として、こう述べられている。

 むしろここで明らかになったのは、シュティルナー的エゴイズムの主題化する自己の言述=一般化不能性――「かけがえのなさ」が、正義論の問題と相容れない地平にあること、従って正義論を問う際にそこに拘泥するのは無意味であるか、むしろ概念的には不可能なことである。 [23頁] 

しかし、私はそうは思わない。大屋論文を一読しても依然私はエゴイズムと正義論を同次元で語りたいと考えているし、関連する住吉雅美論文「エゴイストは『他者』の夢を見るか?」(『思想』965号、123〜139頁、2004年9月)を読んで一層その思いを強くした。
さしあたり、疑問と異議を持たざるを得なかったところから話していくことにしよう。また、住吉論文についてはここで直接触れることはしないことにする。


まず私が最も強く感じたのは、概念・用語上の未整理の問題である。これは住吉氏にも言えることなのであるが、大屋氏はシュティルナー的「唯一者」が対立・交流する相手としての他の唯一者、「この私」以外の唯一者という存在と、「他者」という概念を区別せずに用いている。これに対して、私は、得体の知れない外部者としての存在、「異邦人」としての「他者」と、自分以外の唯一者という存在は厳密に区別するべきものだと考える。ここを混同することが、シュティルナー的意味での唯一者が持つ性格に関する理解を大きく歪めてしまいかねない結果を生む。


唯一者の闘争、すなわち、相互の対立や衝突を経て、互いを異質ながらも唯一無二の存在として認容しあう過程について、大屋氏は言う。

ここで用いられている「対立」という言葉から、自分の意のままにならぬ存在、自己の意志に逆らい続ける部分を我々は自分以外の「この私」(他我)として受容せざるを得ないのだという論理を読み取ることは、おそらく許されるだろう。 [12頁]

しかし、大屋氏の言う「他我」が自分以外の唯一者とほぼ同義として使われているのだという仮定を置いた上で、敢えて言う。その読み取り方は許されない。


理由を述べる。
まず、当然のことであるが、自分の意のままになる存在が全て自己として認識されるわけではない。同様に、自己に含まれるような範囲内の存在・事象であっても自分の意のままになるとは限らない。自分の意のままにならないからといって、自己ではないということにならない存在もある(例えばいくら自分の意のままになるからといって王は奴隷のことを自己だとはフツー考えないであろうし、いくら自分の意のままにならないからといって不随になった半身は自己ではないとはフツー考えないであろう)。
であるならば、自分の意志/意思が通るか通らないかという問題と、その相手の存在が(「異邦人」としての)「他者」であるかどうかという問題は別のものだ、ということになる。


しかし、まぁそうした過度の厳密性を一旦措いて、自分の意のままにならぬ存在を、「この私」ではない、と認識することにしても、「この私」ではない存在が即「他我」(=自分以外の唯一者)となるのかと言えばそうではない。
自分の意のままにならぬとか、得体の知れないなどというレベルの「他者」は、唯一者としての他者ではなく、異邦人としての「他者」でしかないはずだ。なぜなら、そこで私は異邦人を何らかの属性でしか認識し得ず、その個別具体的な固有性を発見していないからだ。よって、異邦人的「他者」の段階と唯一者的他者の段階は、少なくともこうした概念的議論上では区別が必要である。


例えば、大屋氏は、白河法皇を「この私」とした場合、法皇が自ら思いのままにならぬと言明している「鴨川の水と賽の目もまた他者であり、『この私』たる資格を持つものなのだろうか」[12頁]と疑問を呈している。ここでは明らかに、思いのままにならぬ他者=自分以外の唯一者、という一元的な構図が想定されている。実際のことは法皇次第ではあるが、法皇が鴨川の水や賽の目を異邦人的「他者」と認識することは十分有り得ることだと思うが、それをそのまま唯一者として承認することはありそうもない(個人的には人間以外の存在を唯一者として認識することは十分有り得ることであると考えるが、その点は個々人の認識の違いでもあり、詳しく述べることはしない)。
やはり、「他者」と自分以外の唯一者を区別しないと、シュティルナー思想を矮小化・単純化してしまう危険がある。唯一者概念に忠実に考えるならば、自分の意のままにならぬ存在を「他我」=自分以外の唯一者として受容せざるを得ない、という読み取り方はするべきではない。


さて、ここで少し頁を戻して、「この私性」の話をしたい。

もし「私」が一般化=言述可能な属性の集合であれば、そこにあるのは「私」ではなく属性であり、その属性が共有する特徴・性格その他に還元されてしまうだろう。そのとき、私の「かけがえのなさ」の主張、私にとってこの「私」が特別であるという感覚の根拠も失われてしまうように思われる。我々は、「私」が複数の属性の集合という性質を持っていることをどこかで認めながら、「だが、しかしこれは私なのだ」と叫びたいのだ。私が「この私」として唯一のもの・特別のもの・かけがえのないものであるためには、私に一般化=言述不能な部分が残されていなくてはならない。それが「この私性」であり、もし種々の属性が偶然私のもとにあるものだと理解されるなら(すなわち、私の本質的な部分ではないと理解されるなら)、私とはまさにその言述不能な部分でなくてはならないだろう。 [7頁、原文中の強調は省略]

あくまで印象であるが、大屋氏は「この私性」として、一個人からあらゆる属性を一つずつ取り去っていって、最後に残された何かをイメージしているように思われる。個人的なイメージとしては、むしろ多様な属性とアプリオリな固有性を併せて抱え込んだ個人が特定の環境とプロセスの中で育んだ総体こそが「この私性」と呼ばれる決定的個別性である、という様に描いている。よって、「この私性」とは多様な属性からも切り離せない、そこから発現した何物かであり、言述どころか「この私性」単独として抽出や指示することさえも叶わないものではなかろうか。それは属性を一つずつ取り去っていけば残されるような性質のものではないのである。
繰り返すように、これはあくまでも個人的印象であるが、それゆえに私自身は引用部最後の一文のように、「この私性」を言述不能な部分に限定する考え方はとらない。


ここで、「他者」と自分以外の唯一者の話に戻ろう。個人はそれぞれ固有性を持っているが、同時に性別・国籍・エスニシティ・宗教・居住地・血縁・職業など、種々の属性から切り離すことはできない。我々は自らが内部化している社会的慣行やルールに従わない外部者や、自分とは全く異なった集団に属している人々を、「他者」として認識する。
相手を「他者」として認識しているということは、相手に何らかの属性を付与し、その属性への知識やイメージに頼って相手に関する判断を下している段階に位置している。しかし、この段階から、シュティルナーが言うような「闘争」や「交通」を経て、何らかの属性を超えた存在として、属性に頼って判断する必要がない程度の存在の大きさをもって相手が現前したとき、その時相手は唯一者として認識される。その人の属性を参照することなく、その人をその人自体として独立した個別具体的な存在として認識したとき、その人は唯一者として現れる、いや、現れざるを得ないのである。
私はキリスト教信者ではないので、あらゆるクリスチャンがよくわからない、得体の知れない「他者」に映るが、幼馴染でクリスチャンのO君のことは、クリスチャンとしての属性を参照するまでもなく、O君それ自体として認識しているので、O君は私にとって「他者」ではなく唯一者としてしか有り得ない。だからといって、私はO君がクリスチャンであることを忘れているわけではなく、キリスト教について何かわからないことがあればO君に質問することもあるかもしれない。


お分かりだろうか。唯一者は属性を持っていないわけではない。ただ、多様な属性を持つ個人を、属性をも含んだ総体としての個別存在として認識せざるを得ないとき、彼は唯一者として現れる。
この、「ざるを得ない」性が重要である。確かに唯主観的世界には、この私しか存在しないが、だからといって、自分以外の相手に他我としての資格要件を「認める」とか、私は相手を相手は私を承認するとかしないとか、そういう問題ではない。私はこの社会の中で生きるにあたって、様々な「他者」と接触・関係せざるを得ず、その中で属性に依存した「他者」としての認識から属性を超えたその存在自体として認めざるを得ないとき、その「他者」だった存在は「頭のてっぺんから爪先まで唯一者」として現われ「ざるを得ない」。
(その相手に対する好悪や利害関係の大小は無関係である。例えば「自分と犬猿の仲の山本君」よりは「隣のクラスの加藤君」の方が、自分にとって唯一者としての性格は薄いだろう。自分にとって山本君は、唯一者として認めたくなくても、認め「ざるを得ない」のである。)
思うに唯一者は闘争のはじめから唯一者なのではない。闘争を経て唯一者となるのだ。そしてその作用は唯一者としての私にも跳ね返って、また変化を生じさせる。嗚呼、「移ろいゆく私」…。


さて、以上を踏まえて最後にもうひとつ大屋氏の論述を批判しておく。大屋氏はエゴイズムが「私」(唯一者)として認められる資格要件について語ることは不可能であると断じた後、こう述べる。

これの何が問題なのか。例えば次のような三段論法を想定してみよう。「人間は人権を有する。黒人は人間ではない。故に黒人は人権を有さない」。我々がこの論法を否定できるのは、人間とは何かについて我々がすでに一定の前提を受け入れているからである。エゴイズムが語り得ないのはまさにその資格要件についてであり、従ってそれはこの種の差別的な議論に対してあまりにも無力であると言うほかない。 [13頁]

ここから大屋氏は、エゴイズムは社会のあり方を問うための議論としては問題を抱えるとしてエゴイズムの意義を正義論とは異なる位相に限定していく方向へ話を進めていくのであるが、その方向および結論は、この引用部の断定が全く妥当性を欠いているために、本質的なエゴイズム批判としては、いかなる意味でも成功していない。残念なお知らせだ。


引用部に関する批判を二点述べる。
まず、大屋氏は、「私」と認められる資格要件と「まさにその資格要件」を区別せず同一視しているようであるが、ここで言われている「まさにその資格要件」とは、人間とは何かについて我々がすでに受け入れている一定の前提と読み取るほかなく、もしそうであるならば、人間とは何かについての一定の前提と唯一者として認め「ざるを得ない」際の条件は全く異なるものであるので、引用部の論理は歪められており、その帰結は妥当とは言えない。
大屋氏はいつの間にか「私」=唯一者として認め「ざるを得ない」ことと、人間として承認されることをほぼ同一視してしまっているようだ。
(大屋氏自身が語ってくれたように、エゴイストは「私」に資格要件を求めない。ここで「資格要件」を唯一者たる条件としてあまりこだわることなく用いているのは、あくまで便宜的な理由に基づく。)
二点目。これまで繰り返して述べたように、唯一者は一切の属性を持っていないわけではけしてない。私と私の周囲に存在している多くの唯一者はおそらく人間としての属性を自らに認めているので、唯一者でありながら、人間とは何かについての一定の前提を受け入れていようが、それについて語ろうが、全く無問題である。
大屋氏が何を問題としているのかあまり理解できない。いや、ある程度理解はできるが、全く納得できない。


まとめるに、大屋氏の誤解は、異邦人的「他者」と自分以外の唯一者の無区別を中心とする「唯一者の闘争」(実際にはむしろ「唯一者への闘争」)に関する誤解に多くを負っているのであろう。そこから唯一者と属性の関係や、唯一者の現れにおける「ざるを得ない」性などへの不適当な理解が生まれてしまったのではなかろうか。
ともかくも、この大屋論文は私に対して、規範的議論における「説得」を成功させることができなかった。ひじょ〜に残念なことに、私はこれからもリベラリズムリバタリアニズムに背を向けて、エゴイズム的立場から正義論を語る「夢」を追い続けることだろう。




ロストマン/BUMP OF CHICKEN