リバタリアンが導出する「大きな政府」


2005/05/03(火) 21:51:55 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-57.html

マックス・シュティルナーの思想は自我観、所有観、そして「唯一者」観においてきわめて独創的であり、また私がこれまで考えてきたこととほぼ一致する方向性を持っていた。
何より驚異的なのは、シュティルナーの思想が持つ圧倒的な現代性である。それはそのまま現代のポスト福祉国家世界に対する分析と処方箋のかなりの部分を果たすことができる。
ここでシュティルナー思想の現代的読み込みを開陳する為には、まずフーコーから話し始めなければなるまい。


ミシェル・フーコーの偉大さは、第一に、伝統的な権力観、垂直的で一方的、かつ抑圧的なそれを覆したことにある。
フーコー的権力の代表的なものが規律・訓練型権力、そして、まなざしの権力である。その概要は有名な監視塔の例によって説明される。


囚人達はそれぞれ独房に入れられる。独房は円形に配置され、各入り口は円の中心に向けられている。牢獄の中央部には監視塔がそびえ立っており、各独房の内部が見えるようになっている。囚人からは監視塔の内部はうかがい知る事ができない為に、囚人は現実の監視者の有無にかかわらず、常に監視されている意識を持たざるを得ない。これがフーコーがまなざしの権力として象徴的に示した監視塔、パノプティコンである。
パノプティコンの例で重視されるのは、上記のような一方的な可視性とそれによる規律の内面化、自律の不可避性である。ここでは権力を意識する中で自らが自己規律の主体となるのであって、自分自身が権力の主体としての役割を果たす。


パノプティコンを考える際に、もう一つ注目すべき点がある。それは、一方的な可視性と並ぶ、「側面での不可視性」である。つまり、各囚人は決して隣接する囚人と交流や情報交換することは許されず、完全に孤立化されていることが重要な要素となる。各囚人は一人の人間として一個の部屋を与えられる権利を承認されている代わりに、孤立化を余儀なくされ、中央の監視塔との二者関係を強制されている。そこでは囚人は監視者以外に対話や協力の相手を選べず、監視者への依存を深めていかざるを得ないだろう。私は、この点は、特に現代的意味において、きわめて重要であるといくら強調してもよい点だと考える。


フーコーによるパノプティコンを例とした権力観の最重要な二つの要素は、一方的な可視性による自己規律化と、側面での不可視性による監視者との二者関係とそれへの依存であった。


前者を見るに、常に個々人を監視する巨大な権力というと、ジョージ・オーウェルの「ビッグ・ブラザー」を想起させる。フーコー的権力とは非常に広範な概念だが、ここに限っては、オーウェルフーコー的権力と呼んでも間違いではないかもしれない。
ここに関係して述べると、フーコーの明らかにしたことは、こうした監視権力は、伝統的権力観とは違って決して抑圧的な性格を主なところとせず、被監視者すなわち各個人・各国民の福祉拡大・幸福増進を第一の目的とし、その為に各個人を把握するとともに社会の諸条件を管理するものである、ということだ。このことはスウェーデンなど北欧諸国を想起していただければわかりやすい。社会保障が進んだ豊かな国として記憶される彼の地では、国民の福祉の為にこそ、国民総背番号制など国家に強い権力を与えていることが知られている。
権力が福祉拡大を目的としているなど、表面的な大義名分に過ぎないと思えるヒトもいるだろうが、これは直視せざるを得ない確かな現実の一側面である。大義名分に過ぎなかったとしても、現実に福祉拡大を伴えば国民はその利得を享受し、それが為に権力への支持を一層強めることになるだろう。これは近代帝国主義国の戦争下・後における福祉・人権拡大や、経済成長下の利権配分政治による自民党政権の長期支配などの歴史的事実に明らかであり、また、その利益を享受した個々人を安易に責める事はできないし、するべきでない。


パノプティコンの二大要素の後者、孤立化・断片化された個人と権力の二者関係とそれへの依存、という点についても見てみよう。
一個人としてそれぞれ平等な権利を承認され、そしてそれゆえに互いに孤立した個人像を現実社会について考えてみるとき、私が有用だと思うのは、ジョゼフ・プルードンの洞察である。
プルードンによると、同程度の力量を持つ個体同士は対立・反目しやすく、そこでは紛争解決のために超越的な力が待望されるようになる。それゆえ彼は個体の異質性を重視し社会に個体の集合以上の意味を見出し、単純な平等主義者は個体にこだわって力の論理にからめとられ、結果として専制・独裁を呼び込んでしまうとして、これを批判する。
同質的な力しか持たないもの同士が対立したとき、彼らは紛争を解決すべく巨大な上位権力を待望するという構図は非常にわかりやすい。我々は自分の正当性を上位者に訴え、対立者を罰してもらおうとする。上位者が自分に有利な決定、あるいは非常に説得的な判断を下したならば、我々はその権力の正統性を認め、ますます支持を与えるだろう。
(参考;矛盾と生きる―プルードンの社会主義―プルードンの家族論 斉藤悦則氏のHPから。)


ここまで、パノプティコンの二大要素を述べた上で、その両面から権力支持のプロセスが整備されていることを示した。
フーコーは1970年代に没している。彼の権力分析と批判は主に福祉国家を念頭に置いたものだったと私は理解している。
しかし、我々が現在位置しているのは福祉国家批判と改革を経たポスト福祉国家時代である。パノプティコンの二大要素を引き継いだ分析を行うにせよ、前時代からのいくつかの変化と共通性を明確にしておかなければなるまい。


1970年代後半から台頭したと言われる新自由主義の要点は、規制緩和や民営化の推進、公的社会保障の縮小などを行いながら、いわゆる「小さな政府」を目指すというものである。それは大まかに言ってリバタリアニズムの主張と同一視される。
現在においては、この潮流内でもあまりに単純な市場原理主義と呼ばれるような勢力は影響力を弱めたものの、伝統的な福祉的配慮や人権とバランスをとりつつ、全体として穏健なリバタリアン的改革を進めていく方向が主流になっていると思われる。


ところで、高田一夫は「個的社会」論を唱え、現代日本行財政改革新自由主義の流れの中で捉える傾向に異議をはさんでいる。彼によれば、企業への帰属意識の弱まりや家族の結合力の低下など、個人の「集団離れ」が顕著であり、そうして福祉国家の基盤を支えていた企業や家族その他の中間集団が弱体化することによって、国家が直接個人と相対しセーフティネットを提供する状況が生まれてきているという。高田は例として介護保険などを挙げ、私的領域にまで国家が介入するようになる構図を描く。また、この背景に個人の権利意識が強化されたことなども挙げ、実際には現代と未来の社会政策において国家の役割はますます拡大する方向にある、と結論づけている。
(私の「個的社会」論への理解は2004年度「社会政策史」の講義に拠っているが、著述としては『20世紀の夢と現実』に高田論文が入っていたと思う。「福祉国家の転回--新自由主義から個的社会へ」『一橋論叢』130(4) (通号 756) [2003.10] もあるようだ。私はどちらも未読。)


私はこの高田の主張には見るべきものがあると思う。その論拠はちょっと頼りなげな印象もあるのだが、現代国家の存在はむしろ拡大し、個人と直接相対するようになっている、という見方は有用だ。高田自身はこれを新自由主義とは別のものとして考えているが、私はそれは新自由主義の原義とは違うかもしれないが、少なくとも現存の新自由主義と呼ばれるものの姿の側面として捉えるべきだと思う。あるいは、個的社会と新自由主義の両側面を備えた巨像こそが現在・将来のポスト福祉国家世界の姿なのかもしれない。


確認しておこう。中間的諸団体が瓦解していく。これは国家に対置されていた「社会」が存在感を失い、国家と個人の二者関係が出現することを指す。まさにパノプティコン的世界の完全な実現である。そこでは個人の権利が広く認められると同時に、個人同士は接触・関係をあまり持たなくなり、個人は国家への依存を強めるようになるだろう。
多様な権利と価値が認められ、国家がそれを保障する。多品種少量生産の高度消費社会が多様な生活スタイルを助けるだろう。個人は同質的な価値や性質を持った仲間とだけ接触して暮らすことが可能になるだろう。もちろんインターネットなどの高度情報社会がそれを加速する。宮台真司が言う「島宇宙」社会や丸山真男(だったと思う)が言った「タコツボ」社会とはこうした社会のことだったと思う(わかりやすいところでこちらを参照―「各論全員否定」の社会学@切り込み隊長BLOG)。
これは少なくないリバタリアンが支持するロバート・ノージックの「メタ・ユートピア」に似ている。メタ・ユートピアとは乱暴に言えば、とりあえず大枠の最小国家だけ認めれば、その中で各自好きなユートピア作って構わんよ、ということ(手っ取り早いとこで「メタ・ユートピアの構図稲葉振一郎)。
リバタリアンは、経済的自由と同時に価値の自由(女性や少数者の権利とか、いわゆるリベラルな価値の承認)も重視する。それは高田が指摘する個人の権利意識の強化につながる。そしてそれを守るべくさらにプライバシーなどが言われるようになる(プライバシー権はむしろ非リバタリアン的主張であるが)。治安維持強化の要望もメタ・ユートピアの維持・整備として国家権力への支持を強めている一例だろう(ただし、現在ここには階級社会、階層化という問題も横たわっており、今回はそれをあまり考慮に入れず書いている。しかし、例えば上層市民が感じる下層市民への不安・恐怖とその統制強化の要求は、「側面への不可視性」から来る不安の応用で捉えられないこともないだろう)。
私が思うに、現在の状況は、純粋なリバタリアニズムからは一部修正を加えられているものの、主にリバタリアン的なメタ・ユートピアを目指す枠組みの中で動いている。


新自由主義と個的社会の性格を兼ね備えたメタ・ユートピアは、民間活力の重視や個人の多様な権利・価値の承認によって、表面上は著しく自由で快適な世界をもたらすであろう。
しかし、その「自由」は、それこそオーウェルフーコー的権力によって、監視・管理を受け、丁寧に整備・配慮された果実である。ここで過去の福祉国家時代と異なるのは、その管理権力は表面上の自由の背後に隠れたそれこそ「メタ」の存在として不可視化されてしまう。まさしくパノプティコンである。ここではメタ・ユートピアの基盤をなす価値、基底的価値に賛同しない者はそもそも排除されてしまうであろうことも重要である(こうしたメタ・ユートピア的なネオ・パノプティコンを考える上で、実体的には東浩紀などの議論、より抽象的・感覚的には森岡正博の『無痛文明論』が参考になる)。


あまりに長くなってしまったので、そろそろ一旦引き上げようと思うが、私がここで提起したかったことは、ポスト福祉国家の世界像がフーコーが言うパノプティコンにひどく近似している様に思えるというのが一つ。
そして二つ目は、現在水を得た魚のようにも思えるリバタリアンの隆盛にもかかわらず、実は現今の社会変動というのは、本来のリバタリアンが目指していた「小さな政府」ではなく、潜在的で不可視化されながらも「大きな政府」へと向かっているのではないか、そしてそれは「メタ・ユートピア」を理想とする少なくないリバタリアン達が本質的に直面せざるを得なかった内在的困難であったのではなかろうか、ということである。


ここまででようやくシュティルナーの現代的読み込みのお膳立て、露払いができた。また明日にでも書きたいと思う。それはネオ・パノプティコンの暴露とそれへの挑戦として、私の政治思想の基幹構成に大きな役割を果たすであろう。




追記:フーコーの没年は1980年代でした。騙して御免よ。


一橋大学国際シンポジウム 20世紀の夢と現実―戦争・文明・福祉

一橋大学国際シンポジウム 20世紀の夢と現実―戦争・文明・福祉

無痛文明論

無痛文明論

TB


自由と管理―パノプティコン現代社会 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070206/p1


[世相その他]何か腑に落ちたような気がした〜いずれにせよ政府の肥大化は止められない http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20070208/1170935348