それは絶対平和主義だけの問題なのか


2005/05/23(月) 15:26:57 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-72.html

大屋氏が、『論座』6月号における井上達夫氏他の憲法論を取り上げたbewaad氏のエントリに「某弟子」として応じている。
当該論文は未読であるので、詳しいところはよくわかっていないのだが、フォローしておきたいテーマである。


軽く疑問点だけ投下。
pro aliis」@おおやにき。


正義原則から肯定されるためにはその論拠が普遍化可能なものに基づかなくてはならないが、「私はいやだ」という固有性に基づく以上の議論を絶対的平和主義は提供できるのか。その一つの試みが非暴力抵抗が政治的に有効たり得るという主張だろうが、それは上述の通り可能性として存在はするが常にそうだとはとても言えないという水準のものである。だとすれば絶対的平和主義を憲法において強制する余地はない、と考えているのではないかと。
 引用者注:この部分は井上氏の論旨を大屋氏が解釈したものである。

えっ、それって絶対平和主義に限った問題ですか?。
絶対平和主義を民主主義や分配的正義などの正義原則と分けるものはなんでしょうか。
個人的にたぶん井上氏の言う正義原則に同意できないから何ですが、結局普遍化なんて無理なものを全体に強制するという意味では同質ではないでしょうか。
「条件依存的」なんてのもあらゆる正義にあてはまりそうで、絶対平和主義だけにそれを負わせて退けるのは不当と言うか欺瞞であると思います。


たとえば、軍隊の保有が政治的実効性を持つのも多分に条件依存的であるように思うのですが、それを「正義にかなうもの」として法によって強制していることは如何様に正当化されましょう。
「私はいやだ」という固有性に基づく以上の議論を軍隊保有論者は提供できているのでしょうか。はなはだ疑問です。


ま、とりあえず『論座』を読もうと思います。


以下は大屋氏が論じている本筋から少し逸脱した話であるかもしれません。

彼らは「殺されるくらいなら殺す(でもできれば殺したくないな)」という我々の都合のいい欲望の産物であり、我々の一部である。少なくとも私自身は、道徳より私の生命を優先する。
 引用者注:この部分は大屋氏自身の考えに基づくものである。


非常に誠実で一定の共感を覚えますが、大屋氏が言う「我々の必要とする危険を引き受ける存在」が狭義に軍隊だけを指しているとすれば、軍隊は「殺されるくらいなら殺す」までの欲望しか体現していないのではないでしょうか。もちろん日本と自衛隊という特殊事例を考慮した上での記述かもしれませんが、基本的には「(でもできれば殺したくないな)」の部分はその他の手段・存在によって引き受けられる欲望であると思います。
そして、なぜ「私の生命を優先する」と欲望したときに、生命保護と軍隊に危険を引き受けてもらうことがほぼイコールになってしまう(ように見えてしまう)のか。


「私の生命を優先する」ことは何を意味するのでしょうか。少なくともそれは、自らが帰属する国家を、人殺しをしてまで、防衛する必要を認めることとは距離があります。自己防衛への欲望と国家防衛への支持は等しいものではありません。
自己防衛から国家防衛を導き出す為にはそれなりの論理プロセスが必要であり、さらにまた「(でもできれば殺したくないな)」とも欲望するのであれば、軍隊による国家防衛以外の手段による自己防衛可能性を極大化する必要が強調されなくてはいけません。
さらに言えば、一般市民がいつテロの危険にさらされるかわからない現在においては、「危険を引き受ける存在」と「そうでない我々」の区別は以前ほど明瞭ではありません。
自己の生命を守る為には、軍隊整備よりむしろ政治・外交の充実こそがより必要とされるものです。


「軍隊による国家防衛以外の手段による自己防衛可能性」と言っているのは、政治・外交の充実だけにとどまった考えからではありません。私が主張したいのは、有事には「国家を防衛しない必要」があるのではないか、ということです。
自己防衛の欲望を実現する可能性が高いとして軍隊による国家防衛を支持しているヒトも、仮に国家を防衛しない方が自己防衛の可能性が高いとすれば、国家防衛にこだわらないのではないでしょうか。
国家が自己保存欲求よりも国民の保護を重視するものだとすれば、もちろんそうあるべきですが、国家は国民を保護する為に整然と自らを解体する必要に迫られるケースを認めるべきでしょう。


自己防衛と国家防衛、国家防衛と軍事的国家防衛、それぞれの間に本来あるはずの距離が無化されてしまったまま議論が進んでいることが多い状況を危惧するものです(大屋氏の場合がそうだとは断定していません)。

コメント

追記
当該論文読ませていただきました。
どうも井上氏は安全保障戦略自体を硬性憲法に書き込むことを不適切と考えているようなので、上記エントリの「たとえば、軍隊の保有が・・・」とある段落は井上氏への批判としては有効で無いようです。
しかし、国家の最大級の権力資源である軍隊に関する規定を、国家を縛る憲法に書き込まなくてどうするんだという気がするのですが・・・。
護憲派の「倫理的タダ乗り」を欺瞞であるからという単純な理由だけで片付けていいのかも疑問です。そこにこそ大屋氏が言及する自己防衛の欲望ゆえの、重要で素通りできない煩悶が存在していると思うのです。
2005/05/24(火) 17:33:38 | URL | きはむ #- [ 編集]

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平和論ノート(1)平和を諦める http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070117/p1