araikenさんの内田氏批判再考


2005/05/27(金) 01:46:18 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-74.html

araikenさんによる内田氏批判は未だ熱い。現在は、内田氏の文章をaraikenさんとは別様に解釈している複数のブロガーからの内田氏擁護論に対する反論の展開に状況は移行しているようだ。
私は以前にaraikenさんの主張に絡んでエントリやコメントを散発的に行ったこともあり、未だに無視することができずに、あまり真面目でないながらも観客を続けている。
私のように内田氏のエントリを丁寧に検証することもなく、恣意的で自分勝手な口の出し方をする人間は、きっとaraikenさんにとってあまり好ましからざる客であったろう。申し訳なく思っている。
しかし、この議論が最近常に頭の片隅にあった身として、どうも一度書いておいた方が良いと思うこと、そしてaraikenさんに投げかけてみたいと思うことができたので、再び、この軽々しい筆を執る次第である。


まず、『論座』6月号に佐藤俊樹氏が寄稿している「「勝ち負け」の欲望に取り憑かれた日本」という論文を取り上げてみる。
佐藤氏は、自身の著書『不平等社会日本』の「功績」もあって、数年前と日本社会の状況が変化し、現在では「不平等があたりまえ」という認識が広く共有されてきていると指摘する。そして、こう述べる。

しかし、「不平等があたりまえ」にはもう一つの裏の顔がある。それは「不平等はしかたがない」とか「今の格差は当然」といった、「不平等」という言葉にのせて何かを正当化してしまえという感覚である。「不平等」への便乗、あるいは居直りとでもいえばいいだろうか。
 引用者注:原文の傍点は省略

社会の構造が不平等にできているのならば、努力したって仕方が無いじゃないか、そんな無駄な努力の勉強なんてやめて、おれはもっと違った生き方をするんだ、一流大学一流企業だけが唯一の価値じゃないさ、ナンバーワンよりオンリーワンだ―――。
これこそが、まさに内田氏が問題としているところの、「学びから降りた者の自己肯定」ではないだろうか。


佐藤氏は、一方で「機会の不平等」の認識が流布され、他方で「自己責任」が叫ばれる現状において、「勝っているのなら全て自分のせいにしたい、負けているようなら全て社会のせいにしたい。」という欲望に、今の日本社会の人々は取り憑かれているとする。
そして、そうした居直りの欲望への警鐘として、「測れないものは測れない」「勝ち負けがつかない」ことを強調しているのだが、ここではこれ以上触れないことにして、内田氏に戻ろう。


私には、内田氏は、佐藤氏が指摘している構造を問題とする意識から議論を展開しているように思われる。つまり、山田氏や苅谷氏が日本の格差社会化を告発すればするほど、不平等はあたりまえのものとして自明化され、抗いようのないものとして認識されてしまう。そして、人々は自らの失敗を「社会のせいだから仕方ない」として居直り=自己肯定を決め込んでしまうのである。思うに、内田氏はこの状況に焦っている。
ひどく単純化すれば、内田氏がまず言いたいことはこの言葉に集約されるのではないか。すなわち、「社会のせいにするな!」、である。


そこで、内田氏が提示する処方箋が「断念」である。すなわち、過大な夢をあきらめさせ、過大な自己評価を下方修正させる作業を重視せよ、とのことだ。なぜ「断念」が上述の問題への処方箋となるのか。それは、「断念」の性質が、社会ではなく自分自身に責を求めざるを得ないものだからであろう。
自らの「失敗」を社会のせいにできる限り、彼は何度でも同じ過ちを繰り返し、何度でも搾取されるであろう。しかし、一旦自責的「断念」によって自己の能力を社会の中に位置づけた人間は、同じ「失敗」を繰り返すことは無いであろうし、自らの分をわきまえた適度なコミットメントを継続することが予想される。
さらに内田氏は、中間共同体の復興を言うことで、araikenさんが強調する業績主義的・競争社会的価値の「外部」的価値を社会に内部化しようと試みる。つまり、「断念」によって自らの価値の実現を限定せざるを得なかった人々を中間共同体に包摂することで、代替的充足を提供しようとする。これによって、夢をあきらめさせられた人々はその心理的欠落感を埋めるのである。


と、ここまで内田氏の危惧と戦略を私なりの解釈で述べてきたわけだが、私自身は、これはどうかと思う。
明確に指摘することはできないのだが、内田氏の思考には倫理的で公共的な「強い個人」像を要求する姿勢が潜在しているように感じる。確かに社会のせいにして自己肯定しているのはよろしくないかもしれないが、だからといって、断念せよ、自責せよ、と唱え、おまけにそこで生まれた心理的欠落感を中間共同体にコミットすることで埋め、喜びも痛みも分かち合いなさい、などと言うのはあまりに過酷といおうか、現実離れしているといおうか、個人的に好みでないので勘弁して下さいといおうか。稲葉振一郎氏などが言う「シバキ上げ主義」も想起させる。


その点、後にも多少触れることにして、ここから、ようやっと本題に入りたい。
ようやくお出ましの本題は、araikenさんが強調する「外部」に対する仮想的批判を提示するというものだ。私がaraikenさんへの仮想批判者に設定したのは、社会学者の宮台真司である。


だがしかし、誠に残念ながら本題を書く為のエネルギーと時間が尽きてしまった。何だかここまでだとあまり新鮮な材料を提示していないので、ここで中断するのは非常に口惜しいのだが、やむなし。次回に続きます。
先取りして告知しておくと、私が参照しようと思っているのは宮台真司仲正昌樹の共著『日常・共同体・アイロニー』(2004年、双風舎)です。




追記:このエントリは以下の膨大なエントリの蓄積を前提としています。


内田樹の研究室』から、
希望格差社会
階層化=大衆社会の到来
サンヘドリンの法理
ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」


『祭りの戦士』から、
何かが違う!
自己肯定の自画像
希望格差社会
誤読ではないともう一度考える
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その1
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その2
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その3
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その4
センセー、やっぱり違うと思います! その1
センセー、やっぱり違うと思います! その2


以上の他に、複数のブログがaraikenさんの内田氏批判に反応したエントリを立てています。全部含めるとホントに膨大です。


おまけに、
「降りる」ヒト、自称「中道」のヒト
大衆、市民、もっと別の無いの?
現代日本―ポスト福祉国家
リバタリアンが導出する「大きな政府」
シュティルナーの射程


日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

TB


「居直り」という問題 その1 http://araiken.exblog.jp/2022164


祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1