「外部」を志向することの困難


2005/05/28(土) 16:13:19 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-75.html

このエントリは、「araikenさんの内田氏批判再考」の続きである。
まずはaraikenさんの最近のエントリから引用する。


以下、「センセー、やっぱり違うと思います! その1」より。

 458masayaさんはこうおっしゃっていました。『「現行システム」以外にひとまず私たちの社会はありません。『根っこから切り崩して』しまったら、私たちの社会はどうなるのでしょうか? 私たちにできるのは、せいぜい現行システムを住みやすい方向に変えていくことではないでしょうか?』
 このような社会システムの改良や修正は、結局のところ現行システムの是認です。基本的に現行システム以外の選択肢や可能性は考慮されていない。つまり「外部」への視線がないということです。
(中略)
 私が内田氏の議論を聞いてげんなりしてしまうのは、全く別の可能性、つまり「外部」への視線が遮断されたままで話を進めてしまっているからです。私は『そんな非情で、階層化による機能不全の危機をかかえたシステムなんて、根っこから切り崩してしまえばいい』と言いました。が、この根っこから切り崩す、ということは(たぶん458masayaさんはそう疑念を抱いているようですが)たとえば革命を起こしたりして社会を混乱させるというようなことではありません。そうではなく、それはまさに「外部」の視点を導入するということです。


以下、「センセー、やっぱり違うと思います! その2」より。

 このように、現実の社会の成員は、多様な価値観、すなわち業績主義的イデオロギーの「外部」の視点でもって自己を評価し生きています。ところが内田氏(または『希望格差社会」の山田昌弘氏)は、人間を資本主義社会を貫く競争の業績主義的イデオロギーだけでしか評価していない(つまり外部への視線が欠如している)ように思えるのです。

 というのも、内田氏はそのような「外部」の視点に立って「断念」する人間を別の物差しで評価する方向へは向かわずに、人間の価値は「かけがえのない」社会的機能を担うことでしか成り立たない、なんて言い方で再び「外部」の価値観を遮断し、「競争」のヒエラルキーの内部の「職業」へ没入させる方向へと議論を引き戻してしまうからです。


araikenさんは内田氏に対して、競争社会の「外部」に目を見開けと訴える。しかし、仮に宮台真司がこれを目にすることがあれば、araikenさんを「馬鹿左翼」と切って捨てるのではないか。
以下、宮台・仲正の『日常・共同体・アイロニー』に依拠して議論を進めたい。
私は宮台真司の熱心な読者ではなく、その主張を明確に理解しているとはとても言えないので、宮台の丁寧な読者には怒られることを覚悟して、私なりに宮台の論理をまとめてみる。


宮台リベラリズムは、近代的な主体や自己決定、「一般意志」、人権などが虚構であることを前提とする。仲正が著書『「不自由」論』で述べるように、それらはあくまで限定された文脈のなかで作り上げられた虚構概念であり、主体も自己決定も突き詰めて考えれば破綻をきたさざるを得ない。しかし、虚構であるからといって、それを手放すことができるのか。自由な意志を持った主体や憲法意思などは虚構であるが、必要な虚構である。それなしで我々が社会を構成することは可能なのか。
我々にとっての「外部」は、所詮「内部から見た外部」すなわち「外部という内部」であって、実際の外部環境を把握することは叶わない。自分に属さないものとして観察された外部は、自分の観察による構成物であり、「内外差異という内部」に過ぎない。近代の「外部」など夢想に過ぎず、あるとしてもそれは近代の徹底後に見えてくるものであって、現今で近代の「外部」を叫ぶのは愚行である。


宮台はネオコンニヒリズムを虚構に居直った「なんでもあり」の姿勢として警戒する。ネオコンは近代世界が虚構概念によって成り立っていることを熟知しているが故に、「すべてが虚構であるのならばなんでもありだ」と、自らの恣意的な正義を正当化する。外部など無いことを知っているがために、好きな所に境界線を引いてしまい、その内部を至上の価値として徹底して祭り上げるのである。
しかし、他方で宮台は、ネオコンが軽蔑するカルチュアル・スタディーズ系、ポストコロニアル系の左翼をネオコン同様に唾棄する。ネオコンがカルスタ・ポスコロ系を馬鹿にしているのは、ネオコンの多くが元左翼であり、カルスタ・ポスコロ系が言っていることは百も承知であるからだ。
カルスタ・ポスコロ系、あるいは構築主義も宮台は挙げているが、これらの左派アカデミズムは「外部」を持ってきて、「こういう価値もあるんだよ」と語ることで支配的な価値を相対化する、「外部礼賛主義」の傾向を持っている。こういった価値相対主義が容易に居直りに結びつくことは広く指摘されている。「どうせオンリーワンならなんでもあり」、である。そう考えると確かにカルスタ・ポスコロ系からネオコン系への距離は一瞬であるように思われてくる。リベラルと思われていた人物が恣意的な内部/外部の線引きに与した例として、宮台はユルゲン・ハーバーマスアンソニー・ギデンズを挙げている。


宮台自身の立場は、近代を支えている諸概念は必要な虚構であり、同時に全て虚構だからといって「目くそ鼻くそ」「なんでもあり」ではいけない、とネオコンと一線を引いた上で、「五十歩百歩」の中で「五十歩」と「百歩」の違いを絶えず問い直す必要がある、と主張するものである。
この立場は笑いの質を例に考えてみればわかりやすいのではないか。笑いにはベタとシュールがあるとされる。ベタは分かりやすい笑いだが、シュールとは難解で一見意味不明な玄人好みの笑いとして区別される。ベタはある一定範囲のおかしみとして共有されている感覚に訴えかける笑いなので定義しやすいが、シュールは明確な範囲がなく、とりあえず分かりにくい笑いはシュールとして独自の位置を与えられる。それゆえ、分かりにくいのではなく、本当に意味が無いものや単につまらないだけの笑いも、シュールとしてごまかされていることがしばしばある。笑いのセンス(価値)は確かに千差万別だが、その相対性を利用してシュールに逃げ込んでいる芸人が散見されることは事実である。これこそ、まさに「どうせオンリーワンならなんでもあり」という居直りの自己肯定である。
これに対して「五十歩百歩」の違いにこだわる姿勢とは、シュールに大別されている笑いの中から、独自の価値として意味がある笑いと単につまらないだけの笑いを見分ける姿勢と考えられる。つまり、様々な価値や虚構の中から、必要な価値・虚構とそうでない価値・虚構を選り分ける作業であり、宮台はこの作業に自身となんでもありのネオコンとの差異を見出す。


宮台がカルスタ・ポスコロ系の「馬鹿左翼」を唾棄するのは、彼らが近代の虚構を暴露しただけで悦に入ってしまい、虚構の必要性を無視して近代の「外部」を夢見るからであり、「外部」を称揚することで居直りを呼び込んでしまうからである。
宮台は近代の非合理性は合理性を徹底することで見えてくると言い、近代を徹底することで近代の限界を乗り越えようとする。そして、近代の「外部」があるとナイーブに思い込んでいるカルスタ・ポスコロ系「馬鹿左翼」を批判する。そこではそもそも(少なくともカルスタ・ポスコロ系が言う様な)「外部」があるのかどうかが問題となる。


例えば、あるマイノリティー集団が「外部の人々」として位置づけられたときに、我々はその「外部」を画一的な集団として認識してしまい、「外部の中の外部」「マイノリティーの中のマイノリティー」を無視してしまう。さらにマイノリティーを保護せよ、「外部」に目を見開けと訴えたとき、その訴えに耳を貸さない人々を自分達の価値の「外部」としてはじき出してしまう。
仲正はこれを「人非人の思想」と呼ぶ。つまり、ある一定の人間像・人間性を設定し、そこからはみ出した存在は人非人として排除する。マイノリティーを差別する人はマイノリティーを人間と見ていないし、マイノリティーを集団として画一化して考えている人はマイノリティー内のマイノリティーを人間と見ていないし、「外部」を訴える人は「外部」を見ない人を人間と見ていない。ここでは、虚構であるはずの近代的な人間性、虚構であるはずの「内部」が前提となって議論が進んでいるではないか。
「外部」を訴えていた人々は、近代の外部から発言している気になっているが、実は近代の内部に留まった、批判対象と同様の思考をしているのであって、あくまで「内外差異という内部」を見ているに過ぎない。


また、「外部」にいるはずの人々が、実は内部化されているのではないか、という視点も重要になる。ここで内田氏に戻ると、以下の引用部はそうした視点に立っているのではないだろうか。
「希望格差社会」内田樹の研究室。

しかし、「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。
彼らは過大な自己評価を抱いたまま、無給やそれに近い待遇で(場合によっては自分の方から「月謝」を支払ってまで)「クリエイティヴな業界」に入ってしまう。
「業界」そのものは無給薄給でこき使える非正規労働力がいくらでも提供されるわけだから笑いが止まらない。
自己を過大評価する「夢見る」若者たちを収奪するだけ収奪して、100人のうちの一人くらい、力のある者だけ残して、あとは「棄てる」というラフな人事を「業界」は続けている。
時間とエネルギーを捨て値で買われて、使い棄てされる前に、どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。

「外部」の価値に旅立ったはずの若者が、資本主義社会の内部で搾取されている。内部に位置する産業が、「外部」の価値を持ち上げることによって、甘い蜜を吸っている。ここには「外部」などなく、オンリーワンの価値を追求しているはずだった若者は、陳腐な内部で踊らされているだけではないか。
内田氏の問題意識にはこうした視点が埋め込まれているのではないかと思う。私は内田氏の著書を拝読したことはないが、現代思想に熟達された御仁であるらしいから、宮台・仲正と近い視点を共有していても不思議ではない。
araikenさんの言葉を借りると、内田氏は資本主義的、競争主義的なイデオロギーを「クールダウン」させようとしているのに過ぎないのである、ということになる。もしその分析が的を射ているのであるならば、内田氏のその立場は、近代を支えている虚構を相対化すると同時にその必要性を説き、近代を徹底させようとする宮台の立場に近いものがあるのではないだろうか。


こうして、「外部」を強調することの危険性を自覚すると、それ程単純には考えられなくなる。araikenさんがカルスタ・ポスコロ系の左翼かどうか十分な判断材料を持たないが、少なくとも「外部」の語り方に限っては共通の様式があると思う。そして、それは私にとっても他人事ではないのだ。
私もまた宮台が厳しく批判する「近代の外部を夢見る者」に位置しているわけで、宮台の批判を真正面から受け止めなくてはならない立場である。宮台の指摘(実際は仲正の指摘も混入しているのだが)はかなりの説得性を持っており、私も、近代の超克とか近代の外部などと単純には言えないと思い始めた。それで、宮台の批判対象に近いaraikenさんにボールを投げてしまって、もし返答を頂けたら参考にできるだろう、と目論んだ結果がこのエントリである。araikenさんの敵をすり替えてしまおうという…。araikenさん、敵は思ったより強大です、一緒に戦いましょう(笑)。


しかし、私自身は、宮台の主張に見るべきものを多く見つけながらも、やはり近代の外部への志向性を捨て切ることはできない。イズムが各自の定義に基づいて名乗られる立場に過ぎないと仮に認めるならば、あらゆる虚構・必要悪の必要を疑い、それを突き崩していこうとするアナーキズムの精神に則って、私は近代を攻撃していこうと思う。ただ、もし仮に、その虚構が本当に必要であるならば、相対化の上でそれを残存させることを全く許容しないものではない。その点、宮台がリチャード・ローティーを引き合いに出して語る「五十歩百歩」の精神とそれ程果てしない距離を置くものではないだろうと考えている。


ただ、宮台には内田氏同様の「強い個人」志向があるように思われ、私はそこに関しては批判して譲らない。もちろん宮台が民度を上げるとかエリートが必要だとか言っているのは、虚構としての近代的な権利主体、近代市民を「つくりあげる」ことが重要であるというもので、無自覚な近代主義ではない。しかし、それでもやはり、その虚構はあまりに虚構過ぎるであろうと思う。
いみじくも彼のお弟子さんが批判しているように(「思想のマチズモ」@SOUL for SALE)、現実を生きる我々は、その「タフネス」志向に耐えられないだろう。では、どうするのか。きっとこの問いこそが、ポスト宮台のアカデミシャンに与えられた課題なのであろう。


最後に余談だが、以前にも軽く触れた『嗤う日本の「ナショナリズム」』北田暁大で北田が分析しているクボヅカ的心性というのは、宮台が解説するネオコン的心性とつながりを持っているように感じる。つまり、現代の若者とネオコンとはニヒリスティックな居直りから来る純粋さを共有しているということだろうか。すべてが虚構であることを知ってしまった結果、全てを拒絶しようとする、あるいは都合のいい虚構だけにコミットしようとする彼らに、虚構の必要性をいちいち教え直せるだろうか。もちろんわざわざ教え直す必要もないのかもしれない。ただアーキテクチャーを上手く設計するだけの話なのかも。だが、その道の果てにあるのはやはり、これまでにない強大さを誇るネオ・リヴァイアサンの出現でしかないのではないか、という警戒を、私は決して忘れたくない。


日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

コメント

そうでしたっけ
宮台さんはコロコロと戦略を変えるのでフォローしきれていないかもしれませんが、いわゆる「タフになれ」戦略は下火ではないですか?
最近は「仕事と消費以外での自己実現を」とか言ってるので、だとするとaraiken さんに近い位置ではないでしょうか。
2005/05/29(日) 03:37:06 | URL | sivad #qx6UTKxA [ 編集]


なるほど。いや、今回のきはむさんのエントリー………勉強になりました。宮台氏に関してはほとんど何も知らないのですが、きはむさんのエントリーを読むかぎり、私は宮台氏のいわゆる「馬鹿左翼」に該当するのは間違いないと思います(笑)。宮台氏の主張がどのようなものかわからないので迂闊なことを言えませんが、「外部」というものと「居直り」が結びついているとするなら、内田氏と宮台氏の思考は近いものであるということも、多分きはむさんの言う通りでしょう。
「馬鹿左翼」呼ばわりはともかくとして、「近代の外部を夢見る者」を批判する宮台氏の言葉は聞き捨てならないな、と正直思いました。ただ、このへんのことを考えるにはやはりまずこの本を読んでみないとどうしようもなさそうですね。


きはむさんの今回の問題の投げかけはしっかり受け止めなければならないと思います。まあ、時間がかかりそうではありますが、この宮台氏の批判にきっちり答えておくというのは、なんて言うか一つの課題だと感じました。
2005/05/29(日) 03:45:06 | URL | araiken #- [ 編集]


>sivadさん
私は多分もっとフォローしていないのでよくわかりませんが、自己実現どうこうも一種のタフネス戦略の一環なんではないでしょうか。宮台氏は流動性や代替可能性に人々が耐えられなくなる状況を危惧するので、自己実現、代替不可能性を確立する必要があると言うのは「タフになれ」と同義では?タフ=耐える戦略中の一戦術としての自己実現ですかね。


>araikenさん
もしお読みになるのであれば、仲正氏の『「不自由」論』も併せて読むことをお勧めします。個人的には仲正氏の方に、より親和性を覚えますし、勉強になったので。両者の相違は今ひとつはっきりとつかめていないのですが、何となく仲正氏の方が可能性を秘めている気がします。
araikenさん同様、違和感は感じつつも簡単には答えられないというところで、私にとっても大きな課題の一つであります。


2005/05/29(日) 12:52:28 | URL | きはむ #- [ 編集]


はじめてコメントさせて頂きます。


宮台氏の議論は「使い道のある虚構」と「使い道のない虚構」を線引きしているようで、ともすれば、自己欺瞞的な議論にもなりがちだという気もしているのですが、やはりそれなりの説得力を持つものであると思います。


それは、私たちが、あるいは私たちの社会がある種の規律=虚構によって支配されているものだとしても、その虚構性を暴いたところでオルタナティブな社会が現れるというわけではないからです。観念は観念として、つよく現実化してしまうということともある一方、また、きはむさんのご指摘の通り、観念であることを暴くだけの議論は、ある種の居直りと無意識下で共鳴してしまうだけでしょう。


漠然とした雑感ではありますが、既存の枠組みをずらす企てーーつまりはデリダの「脱構築」ーーにこそ、可能性はあるのかなと思っています。


あと、仰るとおり、敵は思った以上に強敵です(笑)。僕も実は「近代の外部を夢見るもの」なので(笑)、頑張りたいです。


ながながと失礼しました
2005/05/29(日) 21:58:48 | URL | マサ徒 #- [ 編集]


「外部」>>>オルタナティブ
マサ徒さん、はじめまして。
思うに、仲正氏は「ずらす」「脱構築する」方向を見ている気がします、多分。何かテキトーなことばっかり言っていて申し訳ないですが。
改めて考えると、「外部」を叫ぶのも否定するのもスローガンというかレトリックとしては意味はあるんですが、あまりこだわることもないかな、という気もします。と言うのも、宮台氏は近代の限界は近代を徹底することで超えろ、近代のオルタナティブは近代の貫徹の後に見えてくる、と吠えているわけで、近代のオルタナティブが「有り得る」ということに関しては(一応、論理上は)否定していません。彼が忌み嫌うのは、「外部」(=オルタナティブ)が「(すでに)ある」と思い込んでいるか、あるいは、とりあえず近代を壊せばオルタナティブが自然に現れてくると楽観している「馬鹿左翼」なんでしょう。この批判は大分もっともなので、オルタナティブを目指す側はかなり体系的で信頼性の高い対案を、近代からスムーズに移行できるものとして提示する必要がありますね。「(すでに)ある」わけではなくとも、「有り得べき」蓋然性を持ったものとして。
そう考えるとやはり「外部」に跳ぶと言うより、内発的な変革、内部から突き崩していくと言う方が、しっくりくる気がしてきました。個人的には「近代の内部」よりも「近代の徹底(再帰)」、「近代の外部」よりも「近代の超克(オルタナティブ)」という言い方をしようかと。しかし、徹底した結果に非合理、限界が来ることがわかっているのに徹底することもないと思うんですが。どうもそこら辺、妙に直線的な印象がします。「これ以外有り得ないんだっ!」ていう。意識的にやっているのかな。
2005/05/30(月) 15:56:14 | URL | きはむ #- [ 編集]


近代の超克といえば・・・
どうしても太平洋戦争開戦直後の「近代の超克」を思い出してしまいますね。「近代」=ヨーロッパと位置づけて、それを克服するための戦争なのだ、という。(かなり乱暴に簡略化してしまいましたが、竹内好の『日本とアジア』に詳しい議論がありますので、ご関心があればご一読を。老婆心かもしれませんが;;)


それは余談として。


単に「徹底」といっても難しいですよね。単純に「再生産」に収斂されてしまう可能性もあるわけで。そういう意味では、宮台氏の議論も、やはり多分に問題含みのものかと思います。


デリダの議論も「脱構築」と勢いよくいいながら、結局、具体性の次元においては弱さをもっている、と批判されたりもしているようです。しかし、「自分たちの持っている枠組みの問題性をひとまずは認識して、あくまで内部から問題性を自覚しつつ、ゆさぶっていく/ずらしていく。そうすることで真の「外部」へ到達する」というのは、哲学としてだけでなく、思考の枠組みとしても(社会の枠組みを変える)可能性を持っているのではないかと思います。


なんてことを考えていたら、またデリダの事が気になりだしたので、これから再読してみます。またちょくちょく覗かせて頂きます。
2005/05/31(火) 17:51:24 | URL | マサ徒 #- [ 編集]


「動員」をどうするか
自明のことではありますが、「徹底」の仕方も「「超克」の仕方も「脱構築」の仕方も、またその方向も、人それぞれ考えることが違いますから難しいですね。だからリベラリズムコミュニタリアニズムリバタリアニズムも内包できるメタユートピア的なデザインを志向するのでしょうが、私としてはメタユートピアの魅力は魅力として感じながらも、もう少し違うものが考えられないかとぼんやり思っています。


宮台氏の「五十歩百歩」の違いを絶えず問い直し続けるような、単純に割り切ってしまわない態度というのは、学問的には非常に誠実だと思いますし、それ自体として十分尊敬に値するとは思うのですが、その態度を現実具体的に適用しようと思えば大きな壁にぶつかるでしょうね。


このエントリを書いてから漠然と考え続けているのですが、徹底にしろ超克にしろ、なんらかの方向性を実現しようと思えば、「動員」が必要になって、そこが分厚い障壁になると思うんです。
緻密すぎる作戦は用いるべきでない、というのは兵法の基礎中の基礎で、部隊を動かすのには「進め」「止まれ」「突撃」「後退」以上の指示は必要ないしするべきでない、と聞きます。
「五十歩百歩」の違いにフォーカスするような複雑な方針が現実に適合できるでしょうか。


そこでエリートの出番になるのかもしれませんが、そんなにエリートを信頼していいんでしょうかねぇ。宮台氏のトータルな戦略を大して知らずにあまり深入りしたくないんですが(もう遅いか)、「敢えて」やっていたはずのことが次第に「それなしではいられなくなる」危険を熟知しているはずの氏であって、それはエリートにも当てはまると思いますが。「敢えて」コミットしていた虚構に呑み込まれてしまう危険は大です。


じゃあ、お前はどう「動員」するんだと。あまり「動員」の思想は好きではないのですが、多少は考えないといけないでしょうねぇ。複雑な戦略はエリートがコントロールする手法にも、単純な体制スローガンに単純な反体制スローガンをぶつける手法にも与したくないとすると…。そこで創発なんかに興味があるんですが、甘いですかねぇ。
2005/05/31(火) 22:09:44 | URL | きはむ #- [ 編集]


盛り上がってるとこにどうも
お初です。
きはむさん、お若いのにというかお若いからというか、
いろいろ勉強してらっしゃいますね。
araikenさんには、この視点については私からは言うことがなくなっちゃいましたよ。
話が動員とかいう事になってきて、盛り上がっているところに水を差すようですいませんが、
皆さんが「超克」したり「外部を夢見」たり「徹底」したり「脱構築」したりしようとしている「近代」ですが、
「近代」とは何で、皆さんその「近代」の何が気に食わなくて「超克」したり「外部を夢見」たり「徹底」したり「脱構築」したりしようとしているんでしょうか?
今さらすいませんどうも。前提がわかんないと議論に乗れなくてさみしいんで。
2005/06/01(水) 15:48:07 | URL | 458masaya #- [ 編集]


差し水で丁度いい温度です
458masayaさん、どうも、はじめまして。
まぁ、確かにお題目ばかり弄んで中身のない議論だと思われても仕方がない部分はありますし、「超克」とか「動員」とかは自分でもどうなんかなと思いながら書いていたので、水を差してくれてありがたかったかもしれません。
「近代」とは何か、ですが、わかりません。教えて欲しいくらいです。前提が共有されているかも不明です。ですが、乱暴に言ってしまえば、重層的で流動的で多様な現実を、恣意的に囲い込むことです、線引きすることです、統一することです。「国民」とか、「領土」とか、「主権」とか。
何が気に食わないって、ウソだからじゃないですかねぇ。それでウソによって苦しむヒトがいるからじゃないかと。少なくとも私はそうですね。
ま、元々のaraikenさんの議論からは随分遠い所に来てしまった感を覚える方もいると思います。あまり具体的な話もできず、その点は申し訳。
2005/06/01(水) 19:39:51 | URL | きはむ #- [ 編集]


さらに肉・・・じゃない 水
なるほどなるほど。
>重層的で流動的で多様な現実を、恣意的に囲い込むことです、線引きすることです、統一することです。


これを超克とかするというのは、重層的で流動的で多様な現実を、恣意的に囲い込まず、線引きせず、統一しないというやり方で、いかに思考し、言語化できるかということになるんですかね。でもこうなっちゃうと、文学とか哲学の話に見えてきますね。


>何が気に食わないって、ウソだからじゃないですかねぇ。それでウソによって苦しむヒトがいるからじゃないかと。少なくとも私はそうですね。


ここらへんは、論点にレベルの違いがありそうですね。
ウソだからいけない、というレベルでは、ではウソを言わずにどう思考するか、そもそもウソと本当の判定はどのように下されるのかというフレームワーク論が導き出されそうですし、
ウソによって苦しむヒトがいるからいけない、というレベルでは、人を苦しませる「ウソ」とは何か、それはどのように人を苦しませるのか、それをいかに打破するか、という、個別具体的で社会的政治的な論に進んでいきそうです。
しかしこういう風に整理するのもいかんということになるんでしょうか?


araikenさんとの議論で、多分私が意識している射程も、結構遠いところにあるんで、面白く読んでますよ。
2005/06/01(水) 23:11:58 | URL | 458masaya #- [ 編集]


>これを超克とかするというのは、重層的で流動的で多様な現実を、恣意的に囲い込まず、線引きせず、統一しないというやり方で、いかに思考し、言語化できるかということになるんですかね。でもこうなっちゃうと、文学とか哲学の話に見えてきますね。


それをいかに政治で語るのかに主眼があります。たぶん。
学問の為の学問を否定はしませんが、私個人はあくまでも現実への適用を視野に入れて考えたいと思います。おそらく。
2005/06/02(木) 20:27:04 | URL | きはむ #- [ 編集]


>それをいかに政治で語るのかに主眼があります。たぶん。


すみません。なんだか一気にわからなくなってしまいました。
ではきはむさん考える政治とは何ですか?
その「政治」に、「超克」は、どのように適用できると思っていますか?
2005/06/02(木) 22:45:56 | URL | 458masaya #- [ 編集]


たぶん、文学や哲学でない何か
何か話が微妙な齟齬に終始している気が。私のせいか。
話すのはもっと苦手なんですが、最近文字で会話するなりの困難も感じてます。ともあれ。


えっと、何が政治か、何が政治的な問題であるか、という問いへの答えはきっと煩瑣に過ぎるだろうと思いますので、三十六計逃げるに如かず。あしからず。
どのように適用できるか、というのも具体的なイシューに入り込んでしまいそうなので、ここで答えるのは避けさせていただきます。
ただ、別にやり方として目新しいことはないですよ。既存のものが気に入らないから、より良いと思う別の思想ぶち上げて別の制度を考えて移行を説得するというだけのことです。陳腐な陳腐な若気の至りです。
2005/06/03(金) 13:58:06 | URL | きはむ #- [ 編集]


すんまへん
次々と繰り出される抽象的な言葉を、身をかわすための身振りだとは思わずに「???」のまま詳しく聞こうとしてしまって申し訳ないです。
若気の至りは後から思い出すと身悶えするほど恥ずかしいですが、
「後から思い出すと身悶えするほど恥ずかしいだろうな」と予想するほど恥ずかしくはないので、ぜひ至ってください。
おじゃましてすんまへんでした。
2005/06/03(金) 23:38:59 | URL | 458masaya #- [ 編集]

TB


私たちはどこにいるのか http://tamanikan.exblog.jp/846467


「居直り」という問題 その2 http://araiken.exblog.jp/2024035


祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1