聖性再考、そして、私である私


2005/06/07(火) 18:30:04 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-79.html

かつて、こう論じたことがある*1


もちろん、女性に前提的に付託される、清浄で穢れを知らない(はずである、べきである)というイメージは多くの場合フィクションである。女性が社会的にこうしたフィクションを背負わされる構造には一定の普遍性がある。「聖性」の汚辱に伴う快感には、「聖性」というフィクションを破壊し、フィクションであることを暴露したことによるカタルシスも要因として存在しているのかもしれない。


「神聖なるもの」は、固定観念である。すべてフィクションに過ぎない。そこに内実は無い。
そして、固定観念固定観念として暴露することは快を伴う。直視を避けられがちであった現実や、わずかながら抱いていた疑念の確証を「信者」の眼前に突き出すことは、ひとつの快である。
「神聖なるもの」の虚構性を暴くことは何と心地よいのだろう。使命感、正義感、優越感、清潔感…。


―――――。
見よ、かの虚構の神、砂上の楼閣は我々が打ち崩した。
確かに、確かに。「信者」のある者は怒り狂うかもしれないし、ある者は呆然自失で生きる気力を失うかもしれない。
しかし、知ったことか。彼らは「解放」されたのだ。迷妄から、盲信から、邪教から、「解放」されたのである。「解放」後を自立して生きられないのは彼らの責任である。
だがしかし、彼らは所詮虚構の虚構たるところに気付くことができなかった程度の者だ。彼らがもし我々を頼るのであれば、高貴なる者の務め、力になろうではないか…。


―――――。
あなたは何様のつもりなのだ。
彼らは確かに「解放」を得たが、彼らの生は彼らのものだ。彼らは自立せねばならず、我々が彼らの父兄よろしく振舞って彼らの自主性を損なうことは避けねばならない。我々が彼らにして良いことは、あくまで「力づけ」てやることだけである。
さぁ、諸君。諸君の生は諸君で切り拓け。我々はいくらでも君達の手助けをするし、君達のやり方に口を出すことはしない。
それにしても、君達がそれを信じながらも実のところ君達を苦しめていた虚構の神よ、何と恐ろしき、そして許すまじきものであろう。しかし、今や君達は自由だ。我々は未来の主人公たる君達の陰として君達を支えよう…。


言うまでもなく、上の二つの立場も、別の新たなる虚構の従者に過ぎない。そして、言うまでもなく、後者がより洗練されているイデオローグである。
私がエンパワーメントという言葉にどうも欺瞞を感じるのは、こういうところだ。「エンパワー」されるべき相手に対してとにかく下手に下手に出て、自らはとにかく見えないところ見えないところへ潜んでしまおうとする。そこにいるはずの存在をいないものとしてしまう。まさしく虚構、虚偽である。


さて、「神聖なるもの」に戻る。
神聖なるもの=固定観念=虚構はすべて廃絶するべきものだろうか。
それを確かに必要とするヒトがいる。彼は、本来それが虚構と知っているはずでありながらも敢えて自覚的にコミットするヒトである。私は彼を批判しない。なぜなら、彼らは「神聖なるもの」を自ら選び取り、自らのものとして「所有」しているからだ。
翻って、「神聖なるもの」に奴隷として仕え、それに動かされ、規定されているヒトであれば、私は彼を批判しなくてはならない。彼は外在的な価値体系に従属し、それに合わせて自らを作り変えようとする。彼は「神聖なるもの」に「所有」されているのであって、外部を参照することで自同性を保っている。この時彼は、それを「必要とする」まで至らない。


私とは私である。私を私とするために外部を参照しなくてはならないのであれば、これはおかしな話だ。
外部を志向しているヒトとは誰なのだろう。「外部」を礼賛するヒト、それを批判するヒト。彼らはそれ程違っているのだろうか。私には分からなくなってきた。もしかしたら彼らに大した距離はないのではないか。
大人達は「大きな物語」の喪失を嘆くが、その実、「大きな物語」=虚構に左右されることなく自己を自己とみなす契機として、寿ぐべき事態なのかもしれない。
まぁ、それ程単純にはいかない事は私も分かっているつもりではあるが。


もう少し考える余地があると思うが、都合上、このぐらいにしておく。