「強い個人と弱い個人」の語り方


2005/06/11(土) 01:12:32 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-82.html

「強い個人」と「弱い個人」については、何回か断片的に書いてきた。個人的に改めて少し整理する必要を感じたので、現時点での考えをまとめてみたい。


強い個人というのは、近代的個人と同義である。自由意志を持った理性的で合理的な人間であり、権利主体として近代社会の基本単位となる。彼は自由な意志と理性によって自己決定が可能であり、その行為の責任を負う。
この個人像から合理的経済人(「ホモ・エコノミクス」)という経済学理論上のモデル個人がつくられる。あらゆる情報を見通して自分にとって最も便益が大きい合理的行動を常に、単独で、とることができる利己的個人像である。


また、特に政治・社会面では、倫理的・道徳的性格も強い。
近代国家の理論的支柱となったのは一連の社会契約論であった。自由意志を持った各個人が自由契約によって国家樹立に合意し、各人の権利を譲渡なり委任なりをする。各国民は「抵抗権」を手に国家権力を監視するなり、「一般意志」を形成する為に合意形成を図るなりしなければならず、常に何らかの政治参加・公共的関与を求められる。それがデモクラシーの理想像ともされている。デモクラシーはその性質上、政治や公共的活動への高いコミットメントを要請するのである。


デモクラシーは人民主権を旨とする。この際重要なのは、「人民」とは個別的な各個人のことではなく、一体としての統合的「人民」であるということだ。先生が生徒達に「あなた方一人一人がこの国で一番偉い、主権者なんですよ」と言うとすれば、それは嘘だ。私たち一人一人が主権者なのではない、私たちをすべて一括りにした「人民」こそが主権者であるだけだ。注意すべき点だが、「人民」は集合体ではなく、一体、統合体である。ゆえに、一般意志は私たち一人一人やその集合の利益ではなく、それらを超えた統合体的な何かという存在の利益に適うものでなくてはならない。もちろん、その何かとは虚構に過ぎず、実際には集合的なレベルでしかないのであるが。


付け加えて論じておくとすれば、いわゆる政治的自由(「〜への自由」、または積極的自由と呼ばれるもの)は進歩的で高い価値を有しているような語り方をされることが多いが、それを強調する人達の間には、一般に、その「自由」を存分に行使することへの期待が共有されており、政治的・公共的課題への関与を国民一般に強く要請する圧力めいたものが「自由」の内に含み込まれているように思う。この要請者達(「民主主義派」と仮に呼んでおく)は「自由」の名の下に政治参加・公共的関与を押し付けようとしているようにしか見えず、私はこうした怨念めいた圧力を内に含んでいる以上、この「自由」は自由の名に値しないと考えている。


強い個人に戻ろう。
民主主義派の人々は、デモクラシーの精神に基づいて政治参加や公共的関与を奨励する。この際念頭に置かれているのは、自由意志と理性を持った近代的個人であり、権力を監視するとともに、多元的価値を抱きながらも不断の討議によって合意形成に努める政治的人間、近代的な「市民」である。「市民」はそれぞれ自由かつ主体的に各自の政治的運動や公共的活動を行うのであって、帰属集団の利害に強く影響されたり、他人に引きずられた判断・行動をしたりすることはない。


この個人像が虚構であることには疑いがない。
近代西欧民主政は、如何にアテナイ民主政をルネッサンスさせるかという試みでもあった。デモクラシーの一つの理想像とされる古代ギリシアアテナイ民主政においては、奴隷労働などによって生活基盤が保障されている限られた「市民」同士で討議を行った為に、議論は自然に公共的性格を強く帯びることになった。このように、私的生活に不自由がない階層の人々だけで公共的議論を行えば良いという考え方はそれ以後も各所で継続して見られるが、近代民主政が採ったのはそうした退行的手段ではなかった。民主政の構成員が拡大し、すでに各人の公共心は望めない中で、解決策として導入されたのが、フィクションとしての近代的個人と社会契約説であった。自由意志を持った各個人が自由契約を交わして国家が成立したというフィクションを語ることで、各個人の責任と政治的・公共的コミットメントを一定程度に確保することができる。
そこでは、利己的な個人への権利保障から抽象的な人民全体の普遍的原則への合意を引き出す技術も見られる。契約論的言説の要領は、フィクションとしての立場可換的状況(自然状態、「無知のヴェール」など)を提示して、自分がどの立場であってもこれを選ぶであろうという、一般原則(国家への支持・帰属、正義の二原理)を呑み込ませる点である。自分がどの立場になるか分からない限り、人は誰にとっても望ましいルールをつくろうとするだろうということで、利己的だが合理的な個人によってからも公共的な判断が得られる。
自由意志と理性を持った合理的人間である限り、各人は一般意志を形成すべく尽力し、その命令に従うであろう。


もちろん、自由で合理的な近代的個人が現実にはいないことは最初から明白であるので、現実のレベルで語る限り、近代的個人の前提はほとんどあてにできない。ゆえに民主主義派の人々の涙ぐましい労苦が積み重ねられてきたのである。
近代民主政においては、各個人は積極的な政治参加と活発な公共的活動によって社会全体をより良い方向に変えるべく努力するものだ、ということになっている。しかし、その前提となっている近代的個人=強い個人は虚構であるので、現実にはそうならない。虚構の上にのった理想であるのだから実現しないのは当然なのだが、理想を実現しようとする人々は、逆に虚構を現実にしようとする。つまり、現実の弱い個人を近代的な「市民」に育て上げようとして四苦八苦することになる。徒労である。
もちろん、この近代数百年は、その虚構をある程度柔軟に適用しながら何とかやってきたのであって、虚構である近代的「市民」を育成する課程は社会のいたるところに装置されている事、およびそれが一定の効用を発揮してきた事は認めなくてはならない。
しかし、その事実を考慮した上で、再度強調する。弱い個人しかいない現実世界に盛んに介入して、強い個人という虚構をせっせと彫り上げようとする行為は、徒労である以上に、迷惑でもある。


人間は皆、弱い。
利己的で、公共心は無い。非主体的で、他人の影響をすぐ受ける。保身的で、できる限り権力に反抗したくはない。別に社会全体が幸せでなくてもいいし、とりあえずそれなりの生活ができていればわざわざ政治に口を出す必要もないし、できれば出したくない。面倒なことには参加したくないし、別に好きでもない人とは関わり合いたくもない。エゴイストだ。人間はエゴイストだ。そして、弱い。愚かだ。醜い。だから美しい。いや、醜い。どっちもだ、いや、どっちでもない。
ともあれ、弱い個人像に立脚していない理論も論理も、その実効性は知れたものだし、どこかで必ず歪みをきたす。もちろん、永続的に効力を持って歪まない理論や制度など、およそ有り得ないが、それでもやはり現実により確かに裏づけされた理論がより望ましいであろうことは自明ではないだろうか。


さて、ここまではむしろ話の前提である。今日話したかったことは別にある。それは、上のように弱い個人を主張する際の語り方の問題だ。それは一見些細のようでいて、意外に重要な問題である。


強い個人と弱い個人が「いる」と言ったときに、多くの場合誤解が起こる。それは、「いる」の意味しているレベルが違っているからである。現実に存在して「いる」のは弱い個人のみであって、強い個人は理論上想定されて「いる」に過ぎず、個人像・個人観としては有り得るが、現実には存在していない。
つまり、現実に、強い個人であるAという人間と弱い個人であるBという人間が、並列的に存在しているわけではない。人類を強い人間と弱い人間の二種類に分けられるわけではない。先天的に強い/弱いという違いがあるわけではない。


ここで異論があるだろう。いや、しかし、現実に強い個人と思えるような人間はいる。彼はすごく合理的だし主体的に行動していて、しばしば積極的な政治参加や社会奉仕もする。強い個人は少数ながら確かにいるわけで、そういった一部の人間を前提とした理論や制度がまかり通ることが問題なのではないか、と。
それは、違う。こういう考え方で弱い個人を主張する方法の問題を以下で述べる。


まず、よりわかりやすい面から。上に示したような語り方で強い個人観に問題提起する場合、多くが結果に依存した判断を行っている。最初に強い個人と弱い個人を分けてしまって、強い個人は合理的だから成功するが多数派である弱い個人はそう上手くいかないので強い個人を前提にするのは問題だ、と言う。しかし、この場合、強い/弱いの分類は、結果の(多くは経済的な)成功/失敗、勝ち/負けを見て判断されており、ほとんど「勝ち組」「負け組」の分類と重なっている。つまり、ここでは結果に依存して判断材料を得た上で、前提に遡って、彼は強い個人だから勝てたのだと言う。この語り口の問題性は明らかだ。勝ち組が怒るのも無理はない。
論理上は、誰でも勝ったり負けたりするわけであって、勝負の分かれ目は合理的判断の有無に限定されるわけではない。しかも、論理上は勝ち組も明日にでも負け組に転落する可能性があるわけであって、負け組もいつ勝ち組になるかわからない。両者の入れ替えが起こったとき、強さと弱さはどうなったのだろうか。ほとんど先天的・宿命論的に割り振ったはずの強い個人/弱い個人としての性質は、何だったのだ。勝ち負けの変化とどう関係するのか。ホリエ君は強いからね…、と言っていたヒトは、明日ホリエ君が負け組に転入したら、ホリエ君は弱かったのか…、と判断しなおすのだろうか。結果に頼った強い/弱い分類が無意味なことはもはや明らかだろう。


次に、根本的なレベルから。強い個人はいないのである。それは、近代的個人としての強い個人と言った場合に意味している強さの質が、何時いかなる時にも何処であってもどんな場合でも、理性的で合理的で自由な自己決定ができて公共的で道徳的である、からだ。一般に合理的だと思われている人であっても、常時すべての場合に合理的であれるわけではない。ここに感覚的に言った場合の強い個人と理論的に意味している強い個人の違いがある。時と場合によって合理的に振舞えなかったり公共的な言動ができなかったりする人間は近代的な強い個人とは言えない。よって、強い個人は実在しない。
現実に、「やや強め」の性質を持った個人はいるだろう。そして、それは時と場合によって変化する、流動的な性質である。会社内では強い個人が、家庭内では弱い個人になる場合もあるだろう。強い個人が実在しない以上、基本的に万人が弱い個人であると考えるべきだが、便宜上、強い/弱いを分けることもできるだろう。しかし、その場合には強い個人と弱い個人が明確に二分できるわけではなく、時と場合によって流動的な程度問題であることを認識しなくてはならない。


以上の認識がなぜ重要なのだろうか。
まず、いかにも先天的に強い個人と弱い個人の二種類の人間がいるように語り、その上で、弱い個人に合わせろ、といった訴えをするのであれば、その訴えはルサンチマン的感情を主な原動力とするであろうし、結果として弱い個人としての卑下と居直り、あるいは無責任な態度を呼び込みやすくなる。
例えば、以下に引用するこちらの問題意識などがある。

今や誰もが、「弱い個人」であろうとしている。「弱い個人」を救済してきた時間は決して無駄ではなかった。だが、国民全体が「弱い個人」になってしまったとき、誰も責任を取らなくなって世間は崩壊してしまう。

これに類する問題は多くの人が指摘しているところではある。「弱者」なる概念自体のはらむ罠として、井上達夫も利益政治における中間共同体の権力性を問題にしている(『思想』904号、23頁、1999年10月、金子勝との対談「市場・公共性・リベラリズム」)。
さらには、強い個人と弱い個人に人間を二分させた上で後者を優先させようとする言説は、かつての安易な階級対立的構図を再度描きかねないものとして危惧される。

ただし『思想』10月号の対談で井上達夫さんとも意見が対立したように、これまでの社会科学は「強い個人」を仮定しているが「弱い個人」を前提に理論を構成すべきだ、という金子さんの論点については、政策論として言いたいことはわかりますが、やはり納得できません。丸山真男の「自立した個人形成=永続民主革命」とも関わりますが、「デモクラシー=デモスのクラティア(人民の権力!)」を原理的に構成するさいには、強いも弱いもなく「シチズン(市民)」を想定せざるを得ず、むしろその範域を国境をも越えて普遍化し、「市場」を超えた生産過程や生活世界に深化するところでこそ、「セーフティネット」も「自分たちのもの」として機能するのではないでしょうか? 「強い個人vs弱い個人」の理論設定が、かつてのレーニン風「ブルジョア民主主義vsプロレタリア民主主義」のようにならなければいいのですが……。

確かに、はっきりとはわからないものの、金子勝の主張(『市場』、1999年、岩波書店)にここで問題にしているような強い個人/弱い個人の先天的二分構図の性格が多少うかがえない事もない。そういった単純な図式を用いるべきではないという限りにおいては、以上の引用の主張もわからなくはない(全体的にはどうかと思うが)。


最後に、繰り返しのようになるが、一般に強い個人とされてしまっている勝ち組諸君の弱さを無視するべきではない、と改めて言っておこう。勝ち組の人々に向かって、「みんながあなたみたいにできるわけではない…」とか「あなたは強いからいいけど…」などといった言葉を吐くのは避けるべきであろう。彼らも負け組同様弱い個人である。少なくとも機会の不平等が無いという前提がある限りにおいては、勝ち負けを先天的・宿命論的な強い/弱いの存在に還元しようとするのはやめた方がいい。


これも繰り返しだが、基本的に人間はすべて弱い個人である。その中で弱さに濃淡があり、それは時と場合によって変化する。
ゆえに、私は弱い個人を前提とした立論をしたいと思う。