美しい刃とたくましい嘘


2005/06/15(水) 01:09:27 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-83.html

ジョン・F・ケネディが暗殺された日の晩に、ある友人が涙ながらに電話をしてきてこう言った。「だがなバーナード、だからといって、本当の暴君は殺されて当然だということを断じて忘れてはいけないぞ」。


『デモクラシー』バーナード・クリック岩波書店、2004年)より。


国家の存続の為には時に一人に絶対的な権力を委ねることを認めながらも、その権力の濫用と地位への固執を何よりも憎んだローマ的共和主義の信念が求めるものを説明して。


たとえ自らと相容れない考えではあっても、独自の信念に基づいて徹底的に磨きぬかれ鍛え抜かれた正義は、あたかも鋭利な刃のような危ういながらも確かに眩い光を放つ。
誇るべき英雄(であったのだろう)を失う凶事に落涙を禁じ得ないとはいえ、同時に、その凶事に目を奪われて自らの正義の刃の光を曇らせることは断固として拒もうとする。その態度は一定の尊敬に値するものであることには、疑いが無い。


さて、私がこの本を読んで思ったのは、やっぱり前回のエントリでのデモクラシー理解は、いささか共和主義を混入させていたり、ルソー的側面に偏りすぎていたりしたかなぁ、ということを改めて。
実は、そういうご指摘をいただけたらありがたいなぁと、待つ女を密かに演じていたのだが、そんなことに気付く人がいるわけも無く、優しい老婆心を発揮してくださる方がいるわけでもなく。言葉で伝えることの必要性を再認識するのである。老婆心のありがたみに気付くのである。
とはいえ、別に自論を撤回するわけではない。


ところで、「私ではないものこそ、私は志向する」という態度は全く正当なものだと思う。対象が神聖なるものであれ、こいびとであれ、理想の自分であれ。むしろそれが自然な態度であろう。
私が「私は私である」と高らかに同義反復的な自己肯定を叫ぶとき、私は事実性(「〜である」)を強調しているのであって、規範性(「〜べきだ」)を求めているのではない。私は事実性の次元で「私=私」という確信が得られることが望ましいと考えているが、私がそれを規範性の次元で他人(あるいは自分)に強いた瞬間に、私は虚構を求めようとしていることになり、シュティルナー的意味での「精神」を掲げるものとなるだろう。私はできる限り事実性に寄り添って行けるところまで行きたい。
もとより、同義反復的自己肯定を確かにした上で理想の自分目指して自己研磨を図る、という態度は有り得るものであって、望ましいものでもあると思う。私自身はこの態度を採るのだが、あくまで事実性の問題、自己否定から始まる自己研磨の存在も蓋然。ではあるものの、自己研磨の為の参照先となる「私ではないもの」に服従することとなってイニシアティブを奪われてしまうのはやはり問題ではないかと思う。イニシアティブとか主体性という言い方が適切かどうか迷うが、「私は志向する」と語りうる段階は許容できるんだと思う。しかし、そのレベルが失われる分かれ目が、必ずある。その分かれ目が、「精神」を所有しているのか「精神」に憑かれているのか、「私ではないもの」を志向しているのか「私ではないもの」に規定されているのか、酒を飲んでいるのか酒に飲まれているのか、その分かれ目である。


わかるようなわからないような話をしてしまったが、付け加え。
自己肯定から始まる自己研磨ができればいいが、自己否定から始まる場合、虚構をハリボテとして前面に出しておいて当面をしのぎ、その間にハリボテの裏で実質を作り上げる努力をする、という戦略は現実には有効で許容しうるものなんだろうと思うし、それがプラグマティズムかとか思うわけで。要するに私の態度はまだ保留されているってことか。なぜなら私は以下の態度を好ましく思うから。


ねぇ、正吾くんボクはどんなふうに見える?
こういう顔だからやさしそうとかみんな言うけどね
でも本当はけっこう意地悪なんだよ
だけど やさしいフリしている
(どうして?)
そりゃねやさしくなりたいから
それが本当のボクじゃないことも事実だけど
そんなふうになりたいと思ってるのも事実だろ?
だったら
ボクはそれはそれでいいんじゃないかって思うんだ
きっといつかそれが本当になるさ


『晴天なり。』藍川さとる新書館)所収「WINTER GARDEN」中の藤井まことの発言より


デモクラシー (〈一冊でわかる〉シリーズ)

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コメント

わかりあえやしないってことだけを
今回もわかりあうことになってしまうのかと思いつつの老婆心。
「私でないものを志向する」運動の中において、「主体性」を確保することに、いかほどの意味があるのかしらん。「私」が「私でないもの」に変化する中で、「私」の「主体性」も変化せざるを得ないような。それとも「主体性」とは「変化し続ける意思」のようなものでしょうか。

蛇足ですが、とっくにわかっていたかも知れませんが、内田樹氏の「ニーチェオルテガ・・」は「努力論」なんですね。そこでは、デモクラシーの担い手として、きはむさんの言う「強い個人」でも「弱い個人」でもなく、「弱い個人」でありながら(それゆえに)「強い個人」を志向し続ける人物が構想されているように思いました。ソクラテスだったかの「知への愛」風に。
2005/06/16(木) 02:35:18 | URL | 458masaya #- [ 編集]


ぼくもそれでいいんじゃないかって思う
志向そのものが私であれば、私には、「主体性」も「自己同一性」も、ひょっとしたら、必要ないかもしれない。

私でないものを私に教える、見えない機構はなんだろう?わからない。

ただ、「きっといつかそれが本当になるさ」のメカニズムは信じていい気がします。


2005/06/16(木) 09:32:38 | URL | サモッチ #- [ 編集]
むずかしい
難しいです。私はどう答えるべきなのだろう。わからん。保留させてください。
ただ、お2人のご意見は大変もっともである事と、やっぱり「主体性」という語は適切ではないんだろうなという事はわかります。

内田氏の議論が「努力論」(というか「根性論」?)であるというのはその通りであると思います。それが事実性に留まればいいですが、規範論になって「人間とはかくあるべきだ」という本質主義になるのなら私は抵抗を覚えます。志向し続けられなくなった瞬間、彼は人間ではなくなるのか。道徳が私たちを追い立てます。その時志向しているのは私なのか、それとも見えない何かなのか・・・。

保留と言いつつ先走りすぎました。
2005/06/16(木) 20:57:19 | URL | きはむ #- [ 編集]