知られていることを知ること


2005/06/21(火) 19:39:24 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-86.html

今更このことを書くのもどうかと思うのだが、今朝の『朝日新聞』に特集が組まれていたので、個人情報保護について思うことを徒然に。


まず、「自分に関する情報をコントロールする権利」とやらを掲げる人が世の中には居るようだが、どうかと思う。
「自分に関する情報をコントロールする」欲望は、なんら問題は無いし、自然な欲望だと思う。私も自分に関する情報は、知られてもいいこと、知って欲しいことを、知られてもいい人、知って欲しい人にだけ、知ってもらいたい。
しかし、私にはその権利があるとか、その権利を政府が保護すべきだとか言うことは、どうなのだろう。


一般に、リバタリアニズムでは、狭義のプライバシー権(「一人で放っておかれる権利」)は自由権の範囲で認めることが多いが、その拡大版である「自分に関する情報をコントロールする権利」は他人の自由を制約するところが多いものとして嫌う傾向にあるようだ。(参考:『自由はどこまで可能か』森村進講談社現代新書、2001年、42〜43頁)
「一人で放っておかれる権利」なるものも適切かどうかはここでは措くとして、「他人の自由を制約する」からダメだ、と言うのはいかにもリバタリアン(特に森村進が含まれる自然権論的リバタリアン)らしい。


ここで、より反国家、反権威的な傾向が強い人物であれば、他人の自由を問題にするよりも、自己関連情報コントロール権を「認める」「保護する」「守る」という考え方の方を問題にするだろう。その権利を守る主体は、結局、政府・自治体に落ち着く。一定範囲の自然な情報共有に基づく個人間の結合は弱められ、ひとり国家権力が握る資源と権能ばかりが増大する。
このことは何も個人情報保護に関してだけの問題ではなく、狭義のプライバシー権にせよ、他のあらゆる自由権にせよ、およそ権利一般に言えることである。権利概念にべったりと寄り添っているリバタリアンのはまる落とし穴が、辺り一面に大きな口を開いて待っているのである。


私はこのブログ上で何度も繰り返しこういうことを書いていて、その度フーコーの「パノプティコン」分析を引き合いに出している。しかし、近頃の議論で焦点となっているのは、パノプティコン的監視国家よりもむしろ、企業その他諸団体および諸個人を含んだ「監視社会」であるらしく、『カーニヴァル化する社会』でも言及されているし、大屋氏も関連論文を『思想』に寄稿していた。
監視「社会」。だそうだ。確かにそうなんだろうな。しかしパノプティコンのイメージは未だ有用だ。それは変わらないと思う。監視社会についてもいつか考えてみたい。


え〜と、とにかく問題なのは、権利を国家に認めてもらう、守ってもらう、という姿勢であるわけで。
ちょっと思うように書けないから、端的に。
重要なのは、自分に関する情報の流通を操作できることを要求することよりも、自分に関する情報がどの程度どの範囲まで流通しているのかという情報を得られることなのではないか。
つまり、自分のことがどの程度知られているのか、ということを知ること。この方向こそ、より有益かつ現実的ではないか。
例えばインターネットをやっている時に、自分のネットサーフィンの内容に関する情報を誰にも知らせないということと、その情報がどの程度まで他人に知られているのかということを知ること、両者を比べた時どうだろうか。


自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)