まず個人が存在する


2005/07/08(金) 16:12:31 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-97.html

個人情報保護についてはなかなか難しくて考えがまとまっていないが、今後の為にとりあえず内田氏の話を引っ張っておく。


個人情報保護とリスク社会内田樹の研究室


全体として首肯できるところもあるが、とりあえず誤りだけ正しておく。
以下の引用部。


私たちは個人である前に家族の一員であり、大小さまざまな規模の共生体の一員である。
「個人である前に家族の一員である」というようなことを書くと、「家父長制的イデオロギーだ」というようなこと言い出す人がいるだろうけれど、こんなことは誰が考えても自明のことである。
家族の一員である「前に」個人であるような人間はこの世に存在しない。
私は「私はウチダタツルです」という名乗りをするより先に母子癒着状態の中でちゅうちゅう母乳を吸う口唇の快感に焦点化した存在として出発した。
そもそも「自我」という概念が獲得されるのは鏡像段階以降なのであるから、それ以前の私には「私」という概念が存在するはずがないのである。
起源に自我があるわけではない。まずアモルファスな共生体があり、自我はその共生体内部で果たしている分化的機能(家族内部的地位、性別、年齢、能力、見識などなど)、に応じて、共生体内部の特異点として記号的に析出されてゆくのである。
「個人情報の保護」という発想の根本には、「まず」個人が存在し、それが周囲の共生体と主体的に関係を「取り結んでゆく」という時系列が無反省的に措定されている。
だが、これは事実ではない。
イデオロギーである。


この内、「私は「私はウチダタツルです」という……概念が存在するはずがないのである。」の部分は、確かに事実である。
しかし、最初の一文は間違いなくイデオロギーである。それが家父長制的かは措くとしても。


人間には自我概念が獲得される以前の時期が存在するとか、我々は独立した個的生命体である以前には父親・母親の一部であったとか、こうしたことは事実である。こうした時系列的あるいは成長段階上の意味で「個人である前に…」と語ることはわかる。こうした認識が個人概念、主体概念の反省に役立つと言うのも正しい。
ただ、ここで内田氏はそれ以上の意味を込めて語っているように思える。それ以上の意味とは、すなわち、個人の存立上の基盤・根拠といったレベルの意味である。この意味においては、個人は特に家族その他の共同体に属しなくても存立しうるし個人でありうるのであって、個人である前に何かでなくてはならないことはない。よって、このレベルで「個人である前に家族の一員である」と語るなら、その主張はイデオロギーであることを自認しなくてはならない。


一見したところ、「起源に自我が……析出されていくのである。」の部分は、その直前の二文と同様に完全な事実であるように思える。だが、この部分は、多くの場合そうであるところの、といった限定的な妥当性を持つに過ぎず、例外が有り得る。起源に自我が無くとも、鏡像段階で自我概念を形成し始めて以降は、たとえ孤立していても個人として存立することは可能であろう。自我の認識には他者が必要であるとしても、その他者と共生体を形成する必然性はないし、その他者が人間である必然性もない。多種多様な他者はどこにでもいる/あるのであるから、個人は個人である為に必ずしも共生体を必要としない。
ゆえに、この部分の記述は前二文と比較すると包括性をいささか減じており、部分的な事実であるに留まる。


自我概念の成長段階から周囲の共生体が大いに影響を及ぼしているのだから、アプリオリな個人が主体的に関係を取り結んでいくという構図は神話に過ぎない、という主張は妥当である。しかしながら、それは「主体的に」という部分が神話に過ぎないのであって、「まず個人が存在する」という出発点までも否定するのは、私には不適切に思われる。なぜなら、自我概念が未発達な段階であっても、その個人が存在しないわけではないからだ。
赤ん坊が自らの鏡に映った姿を見ることで、統合的な自我の認識を獲得し始めると言う。なるほど、赤ん坊に最初は自我概念は無かった。だが赤ん坊は最初からいた。統合的な自我概念を認識し始めたのは誰なのか。赤ん坊という一人の個人だ。共生体内部で果たしている分化的機能に応じて自我が析出されていくと言う。なるほど彼の自我は最初から社会的に構築されてきた。だが自らの分化的機能とやらを認識し、あるいは無意識下であっても臨機応変に自我を形成・再編してきたのは誰であるか。一人の個人としての彼である。自我概念が存在しようがしまいが赤ん坊は存在する。自我の形成に社会的作用が働こうが働くまいが、それに対応する彼は存在する。


主体的な判断でなくとも、判断をする個人は存在する。個人が社会的作用によって影響を受けてきた部分が大きいとはいえ、それが全てではない。個人は自身の社会的要素に従属しているわけではなくて、個人的要素と社会的要素の相互作用と絡み合いを経て、一人の個人が成立している。
したがって、「主体的」という言葉に疑問符を付ける事は忘れずにしながらも、「まず個人が存在する」という事実認識を失うべきではない。


どうも最後の方、上手く言えていないのだが、以前に関連するエントリ(テキスト『自己決定権は幻想である』小松美彦)があるので、以下、そこから再掲する。


前者、すなわち自己決定の「入り口」論にはあまり説得力がない。なぜなら、たとえ社会的文脈・諸関係が決定に多大な影響を与えたとしても、個人=自己が最終的に判断を下す限りにおいては、それはあくまでも自己決定である。
自己像は確かに多くの部分を他者に拠っているが、決して小松が言うように他者なしで成立しないわけではない。やはり自己の眼差しが第一に存在しており、他者の眼差しはあくまでもそれを補う役割にある。他者の視点、社会の視点が大きな意味を占めたとしても、それは自己の視点の中に組み込まれることで統一されていく。
社会的文脈・諸関係というものは、それ自体個人の個別性・固有性の中に組み込まれたものであって、個人の外部にあるものでもなければ、個別性・固有性の上位にあるものでも並立しているものでもない。


それにしても、引用部の内田氏の語り口には違和感が拭えない。引用部最初の一文がイデオロギーではなく事実だと、氏は本当に考えているのだろうか。もしそうならば、上述のようにそれは端的に誤りです、と言うだけで済む。だが、仮に、可能性は大きくないとしても、「個人である前に家族の一員である」という言説はイデオロギーに過ぎないと知りつつ、これを事実に見せかけようとしたのなら、問題である。
私は「まず個人が存在する」というのは事実だと考えているが、もしこれがイデオロギーに過ぎなかったとしても、これを支持し続ける。適切に思えるからだ。イデオロギーであることは問題ではない。イデオロギーであることを隠蔽することが問題なのだ。
こんな仮定の話をしてしまったのは、内田氏のエントリには戦略的なプロパガンダに思えるようなものが時々見られるゆえである。別にそれは構わないが、それをするのなら、イデオロギーならイデオロギーであることを言明した上で、説得の努力にとりかかって頂きたい。明白なイデオロギーイデオロギーでないと徹底的に否定しようとするのは見苦しい。お金が目当てではないと言いつつ遺産分配に口を出す親族みたいだ(無関係)。そりゃ、イデオロギーであることを自白したらプロパガンダにはならないのかもしれないが、説得力に自信があるのならイデオロギー云々は問題でないじゃないか。いやいや、仮定の話を長々と申し訳ない。邪推であることを祈る。

TB


個人は社会の前に存在する http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070112/p1