共同性の政治学
2005/07/05(火) 00:54:39 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-95.html
「自分」と「他人」
世の中それだけっきゃねえと思うから
あんたのそばにいる正当な理由が欲しいんだよ
(「異星人交差点」『異星人交差点』藍川さとる、新書館、1997年)
世界には自分と他人しか居ない。
それならば、「私があなたと居る理由」は何なのか。
「私がこの集団の一員である理由」は何なのか。
別に、あなたでなくてもいいのではないか。この集団でなくてもいいのではないか。
私が「他でもないあなた」と行動を共にし、「他でもない彼ら」と助け合い、時にあなたや彼らの為に尽くす、その理由は何か。
この「共同性」に「正当な理由」なんてあるんだろうか。「無い」なんて答え、やりきれないじゃないか。「理由」が欲しい。「正当な理由」が―――。
最近、共同体や共同性について考える。他にも色々な課題を抱えたままでどうかと思うが、結局最後にはこの問題に向き合わなければならないのかな、と感じながら、これこそが最大の問題なのかもしれない、とさえ考える。
ちょっと前に、どこかの東アジア共同体絡みの話で、仮想敵なんていうネガティブな、否定的な根拠付け・動機付けを図る思考法から脱却しよう、みたいな話があったが、そんな簡単なことじゃないんだと思う(もちろん、スピノザの思想なんてわからんし、ポジティブな根拠付け・動機付けを求める考え方は非常にまっとうだとは思うが)。
だって、共同性の「正当な理由」なんて、そう簡単に見つかるものではないのだ。「私があなたと居る理由」が不明瞭な際、安易ではあるが手っ取り早くそれを提供するのは、「我々」の外側を貶めたり敵視したりすることで、内側の結束を強める方法である。学校や職場など、各所で形成されるよくわからない「グループ」なるものが、その結束の非常に多くの部分を悪口・陰口に頼っていることは、その卑近な証左であろう。自分がそのグループの一員であることを証明したい人ほど、自分がそのグループに加わっていることの「理由」を欲しがる人ほど、悪口のようなネガティブなコミットメントにも積極的となる。
国家同士でも同じことは言える。それ程簡単にポジティブな理由付けができるとも思えない。
加えて、そもそも共同体の性質上、内側での睦み合いと同時に、外側への障壁の設置がなされることは避けられないのであって、いくらポジティブな根拠付け・動機付けに基づいた共同体だと謳われたところで、果たしてどこまで額面どおりに受け取るべきか。悪口や仮想敵ほど攻撃的でなかったとしても、共同体の本質である外部者の排除という点は、何度でも強調するに値する注意点である。
共同性の重要性は、例えば所有と分配に関わる問題などがわかりやすいだろうか。お金持ちと貧乏人がいて、後者が困っているから前者のお金を少し貰って後者に分け与えよう、と言うわけだ。両者が何らかの共同性実感を持っていれば、これは全く問題ない。お金持ちが貧乏人のことを助け合うべき仲間だと思う限り、彼は喜んで貧乏人に自らの財産を与えるだろう。しかし、そう思っていなかったら、共同性実感が無かったら、難しくなる。お金持ちにとって貧乏人が、いくら困窮しようが知ったこっちゃない程度の存在であれば、そこまでだ。何で死のうが生きようが興味が無い存在(あるいは、せいぜい目の前で死なれたら夢見が悪い程度の存在)の為に、自分が何らかの行為を求められなければならないのか。こうした感情は、それ自体、もっともだ。
しかし、現実には、私たちはこうした行為、すなわち知ったこっちゃない人の為に何かを求められること、を日常的に経験している。
齋藤純一は、M.イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』からの引用の後に、こう述べる。全く、その通りだ。ここで述べられている非人称の強制的連帯の意義は、確かに忘れられるべきではない。ここら辺が難しいところでもある。国家が媒介する非人称の連帯のメリットはまず、人称的な関係(世話する者と世話される者)につきまとう依存・従属の関係が廃棄されるという点にある。「国家の世話になる」人びとは、特定の誰かの世話になっているわけではないがゆえに、(少なくとも権利上は)誰かへの遠慮のゆえに声を呑み込む必要はない。非人称の連帯は、その連帯の果実を享受する人びとをなおも政治的存在者として処遇することができる。さらに、この非人称の連帯は、自発的な連帯ではなく強制的な連帯であるというメリットをもっている。ある人がどれほどの嫌われ者であろうと、また「世間」から見てどれほど「異常」な振舞いをしていようと、その人は生きるための資源を権利として請求することができる。この強制的連帯は、自発的なネットワーキングが排除する人びとをもカヴァーすることができる。社会国家が、非人称の強制的連帯のシステムとして形成されたことの意義は忘れられるべきではないだろう。
(『公共性』齋藤純一、岩波書店、2000年、67頁)
このように、国家の場合は、実際には共同性実感が希薄であるような人間同士であっても、システムとしてその両者を強制的に媒介してしまうわけだ。知ったこっちゃないことなんて知ったこっちゃない、だ。
こうした機械的なシステムとしての国家の意義は確かにある。しかし、やっぱり人間同士の物事は機械性だけでは成り立たないわけで、全く共同性を無視した機械的な国家なんていうものは現存しない。幻想であっても、錯覚であっても、どこかしらに共同性を感じさせる素材がなくては、なかなか立ち行かない。だから、ネイションを語ったり、エスニシティを語ったりする。国家といえども共同体という性格を完全に免れることはできなくて、そこには前近代的な、非国家的な共同体とも通じるものは必ずある。
結局何を言いたかったのか、いつもわからなくなる。
まぁ、いいや。とにかく共同性・共同体というのは思った以上に重要だし、思った以上に容易でない、ということの確認だ。
古典としては、やはり『想像の共同体』B.アンダーソン。
最近のでは、各所で評判の『境界線の政治学』杉田敦、か。
う〜ん、共同体、排除…。この辺り、やっぱりカール・シュミットとかも入ってくるんだろうか、「友」-「敵」関係とやらで。そこからムフ、コノリーか?。微妙に違う気もするような。いや、これはこれでやるけども。
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