昼間のルソーはちょっと違う


2005/07/02(土) 15:26:44 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-94.html

ルソー『社会契約論』を読むと、既存の制度や理論がいかにここから基礎付けられているかを思い知り、何だかしみじみとした気分にさえなる。誰もがいちいちルソーを参照して考えているわけではないだろうが、とにかくその存在感の大きさは再認識できた。古典が古典である理由と言うか、J.J.ルソーが中学生でも知っているルソーである理由がわかる。下手に網羅的な政治学入門書を読ませるよりも、『社会契約論』をじっくり読ませたほうが、よっぽど勉強になるんじゃなかろうか。でも古典の重要意義を思い知るまでにはそれなりの道のりが要るんだよね、やっぱり。とりあえずで読んでみてもつまらない時間つぶしに終わることが多い。本とヒトには、それぞれ適切な出会いの時期があるから、今こそと思うまで待てばいいのさ。


 それでは、古い法律に、あのように尊敬が払われるのはなぜか。それは、古いということそれ自体のためである。昔の[人々の]意志がすぐれていたのでなければ、古い法律をそんなに長く保存はできない、と考えなければならない。もし主権者が、それをたえず有益なものであると認めなかったならば、彼はそれを千回も取り消したであろう。よく組織されたすべての国家で、法律が弱まるどころか、たえず新しい力を獲得しつつあるのは、このためである。古いものをいいと思いたがる心が、日に日にそれを一そう尊重すべきものたらしめる。これに反して、法律が古くなるにつれて、力を失うようなところではどこでも、そのこと自体が、そこにはもはや立法権が無く、国家が生命を失っていることを、証明している。
岩波文庫版、126頁)


これは立憲主義


 すべての真の民主政においては、行政官の職は利益ではなくして、重い負担であって、これをある個人にではなく他の個人に課するのは正当なことではありえない。ただ法だけが、クジにあたった人にこの負担を課することができる。なぜなら、この場合には条件はすべての人にとって平等であり、誰が選ばれるかは一切人間の意志と無関係であるから、法を特定の人に適用しても、それは法の普遍性を決してそこなわないからである。
(152頁)


 抽籤による選挙は、真の民主政のもとでは、ほとんど不都合を生じないであろう。そこでは、すべて、習俗や才能においても、また格律や財産においても、平等であるから、選挙ということは、ほとんど関心をひかないだろう。しかし、すでにのべたように、真の民主政は、決して存在しないのである。
 選挙と抽籤とが混用されているときには、軍務のような特有の才能がいる地位には、前者をもってすべきである。裁判官の職のような、常識、正義、潔白だけで十分な地位には、後者が適している。なぜなら、よく組織された国家においては、このような資質は、市民全部に共通だから。
(153頁)


これらは陪審制・裁判員制などを想起させる。


なるほどなぁ、と思うよね。いや、それで終わっちゃだめなんだけど。
とにかく、こうした主張を見ていくと、バラバラに現れてくるように見えるものも、かなり一貫した論理によってよく統合された、総合システムの一部なんだなぁ、と改めて思う。
当然一貫しているがゆえの難点は諸々あるけどね。だけど、数百年にもわたるシステムの基盤となるタフな論理を編み上げた功績は、やはり敬愛に値する。伊達にルソーじゃない。


社会契約論 (岩波文庫)

社会契約論 (岩波文庫)