祭りの後、逸脱の果て


2005/07/31(日) 16:28:33 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-108.html

私は過去、araikenさんの内田樹氏批判について断続的に横槍を入れてきた。そしてaraikenさんのアプローチに漠然とした疑問を呈しながらも、一旦槍を収めた。あの時のぼんやりとした疑問や違和感が多少なりとも形を成してきたので、改めてaraikenさん的な言説になぜ私が同調できなかったのか、まとめてみたいと思う。


ただし、「araikenさん的」としたように、今回私が目指しているのは、単にaraikenさん個人の言説・論理立て・アプローチを批判することにあるのではなくて、そこに典型的に表れているような、ある一群の思想傾向をまとめて問題視することにある。その一群は多分宮台真司氏が「馬鹿左翼」の蔑称で指示しているよりも広範囲であり、彼らのことをここでは仮に「祝祭・逸脱派」と呼んでみたいと思う。他方、無目的な祝祭や逸脱に警鐘を鳴らしている(と思われる)内田氏・宮台氏を含む一群を「再帰・統合派」と名付けておく。これらの分類・レッテル貼りが適当なものかどうか、読者諸氏の検討と批判を期待したい。


*このエントリは過去のエントリで蓄積された議論に負うところが大きいので、事情が分からない方は、恐れながら、画面右のサイト内検索で「araiken」を検索して、議論の前提を把握する労を取って頂けるとありがたい。


**ここで言う「再帰」には社会学用語としての意味(それがどういうものか私はよく理解できていないが)は込められていない。


さて、私は一連の議論のまとめでこう述べたのだった*1


それでも、特に上記三本のエントリを読んでその印象が固まったのだが、araikenさんが、宮台真司言うところの「馬鹿左翼」(リチャード・ローティ言うところの「文化左翼」)とほぼその姿を重ねることは、どうやら確かだ。そして私は、それではダメだと思うのだ。ダメというのは、少なくとも私はその道を採れない、ということに過ぎないが、その次元にとどまる限り、内田氏や宮台氏はこれをまともに相手にすることなく、無視や嘲笑を適度に与えるだけでよしとするだろう。そこに「建設的対話」は無い。


なぜ私はaraikenさんの語り方を「それではダメだ」と思ったのだろうか。それは、内田氏のエントリに対してaraikenさんが内田氏が語っている次元と別の次元で応えていたからであり、それでは建設的対話は生まれにくいだろうと判断したからである。


詳しく繰り返すことはしないが、宮台氏の唱えるリベラリズムとは、自己決定や共同体、その他の近代的諸概念の限界や恣意性を十分自覚しながらも、その必要性の確かさゆえ、恒常的な問い直しを伴わせる限りにおいて近代的概念・立場を堅持する、というものだった。彼のスローガン(?)は「近代を徹底もできずに近代を超えるなど片腹痛いわ」であり、彼の立場は敢えて近代(=「内部」、既存社会)を選び直す、そこに再帰する、というものである。
この立場は、学びから降りる子供や社会から離脱しようとする若者を、中間共同体の復興などを呼びかけることによって、社会に再統合しよう、離脱を防ごう、と呼びかけている内田氏の立場と重なる。ゆえに私は、彼らの立場を総称して再帰・統合派と呼ぶ。


他方、再帰・統合派に反発してaraikenさんは叫ぶ。
理想とすべきなのは無目的で祝祭的な社会であり、必要なのは祝祭的なコミュニケーションである。問題があるとすれば業績主義的・生産主義的な資本主義的価値観の方なのに、内田氏は逆に多様な価値観を追い求める若者の方を問責する。氏は同時に生き方の多様性も唱えているので、これはまるっきり矛盾であり看過できない。この矛盾を説明してくれない限り、氏の戦略や議論背景などを問題とするところまで進むことはできない。
資本主義の暴走を問題視するならば、資本主義の目的性、すなわち生産主義を支配的価値の座から降ろし、異質なものを排除しない祝祭や無目的な浪費こそを価値化すべきであろう。araikenさんが目指すのは、共産主義革命のような直接的な資本主義否定ではなく、資本主義エンジンを解体するような、資本主義の土台を崩すような、資本主義を骨抜きにするような方向での変革である。


***araikenさんの複数のエントリ他、「祭りの戦士とは何か?」も参考にさせて頂いた。自分はこんなことは言っていない、自分の意図と異なる、という点があればご指摘いただきたい。


ここで、私がaraikenさんの背後に祝祭・逸脱派なるものを見る所以をわかりやすくするために、いくつかの引用をしよう。
まず、『アナキズム』というアングラな雑誌の第六号に寄稿された、DJ WATERR(TAKASHI IKEDA)名義の「逸脱の自由」という論文から。


 逸脱の自由は、「状況を除去」せず「強い自己」を求めない。自分の意志とは関係なく降ってきた不-利益は、自分が埋め込まれている「状況」に依存するという単純な認識をそのまま受け入れ、「状況のせいにするな、自分次第で何とかせねば」と「強く」あろうとするのではなく、ただ、自分に負担を強いる「権力」の空間から逸脱しようとする。それと関わりあうことを拒否する。自らも「権力」を所有しようと望み、自らをエンパワーメントして、権力と「闘う」のではない。むしろ、「権力」を「無化」するのだ。


(中略)


 逸脱を繰り返す、無限に繰り返す、権力を脱し続ける、無限に権力を無化する。逸脱の自由は何かを達成することを目指さない。何かに向かって集団で団結しない。ただ、自分自身が権力の担い手になることも含めて、ひたすら脱権力する。これだけが、「脱権力のムーブメント」だけが、強いて言えば「逸脱の自由」の目的であり、「逸脱の自由」が「やっていること」だ。
 あるいはむしろ、「何もしない」と言ったほうが良いのかもしれない。脱権力のムーブメントとは最終的にはただ「共に生きる」ことを意味するだけなのだ。逸脱者の群れは、何も目指さず、何も達成しない。ただ、生きることだけのためだけに共に生きる。これを追求することは、まさに脱権力の極みの追及であり、おそらく非常に困難なことだ。なぜなら、そのような群れは言葉の最も重要な意味において「反社会的」であり、「無法」だからだ。
(35〜36頁)


どうだろう。araikenさんの主張と多くの類似点を見出せないだろうか。もしかしたらaraikenさん本人は、これは自分とは違う、と言うかもしれない。だが、私自身は、この「逸脱の自由」とaraikenさんの「無目的な祝祭」とはかなりの親和性を有していると思う。ついでに言うと、実は、こうした主張は私自身の考え方ともかなりの部分共通している。何せ「政治的不参加の自由」や「社会的孤立の自由」を積極的に唱道しようとしていたぐらいで(今も基本的には変わっていないが)、逸脱の自由なんて言われると激しく賛同したくなる。ただ、それだけではダメだと考えているのも事実で、だから祝祭・逸脱派とまとめて批判しようとしている。
細かいが重要な点なので指摘しておけば、著者が「反社会的」と述べているところは、「脱社会的」とした方が適当だろう。「反」は権力「奪取」や権力への積極的な「抵抗」を志向する人々に適合的な表現であり、権力へのコミットや積極的抵抗から逃れようとする著者の意図からして「脱」がふさわしい。


もう一つ引用しよう。多分araikenさんがより賛同しやすいのはこちらの方ではなかろうか。
引用元は講義レジュメなのだが、篠原洋治氏担当の社会思想史各論、「ジル・ドゥルーズ、欲望と権力」というレジュメから。


 たとえば資本主義機械は、欲望を一見多様な形で実現するかに見えて、貨幣によってこの欲望を一元化する。「分裂病的」な多様な欲望の流れは、貨幣への「パラノイア的」な欲望へと還元されてしまう。欲望は本来は生産的で多様なものである。しかし資本主義機械においては、欲望の対象は貨幣の獲得に画一化され、そのため労働によって、人々はいつでも欲望の実現を延期させられており、負債=返済の無限循環に巻き込まれている。


上記「祭りの戦士とは何か?」というページには、類似の記述が見られる。「負債=返済の無限循環」についてはこちらの方が解り易いと思う。


 貪欲に「生き延び」のみを追い求めた報いなのだろうか………近代資本主義社会のもとで人間は利潤の追求という至上の目的のために生産の道具と化してしまった。私たちは働くために生まれ、死んでゆくのだ………。肥大化した生産力が生み出した文明の恩恵を受け、快適な暮らしを享受しているかに見えるが、私たちは道具としての隷属的な生の虚しさを味わい続けているのもまた事実なのだ。生産工場と化した地球の家畜のように管理された労働者の群れ………、それが私たちの自画像である。坦々とした生産のリズムを覆い隠すかのようにスペクタキュリーな商品が日常にあふれ、私たちがその書割りのような見せ物に夢中になっているうちに、大空に輝いていた太陽は厚い灰色の雲の向こうへ消えてしまった。


これら二つの引用は、araikenさんをポストモダン系左翼に位置づける意味と祝祭・逸脱派を一群として明示化する意味が大きく、本筋からはあまり重要でなかったかもしれない。重要なのは、こういった認識から彼らがどこへ向かうかということである。そこで、同じレジュメに引用してあるガタリの言葉を孫引きする。


このような権力のファシズムに、僕たちは活発で積極的な逃走線を対置する。逃走線は、欲望とか、欲望の諸機械につながり、欲望の社会的領野を編成する。それは自分から逃げ出したり、「個人」の逃走を実践することではなくて、水道管を破ったり腫れ物をつぶすのと同じように逃走の水漏れをひきおこすということである。流れを一定方向に誘導し、せきとめようとする社会的コードがあったなら、それをくぐりぬけるような流れをつくること。抑圧に対抗して欲望の措定をおこなえば、その措定がいくら地域的に限定され、微細なものであったとしても、やがては資本主義システム全体を巻き込み、システム自体が逃走の水漏れを起こすようにしむけることができるはずだ。
(『記号と事件』36、と書いてある)


むぅ。何度読んでもよくわからない。私はドゥルーズガタリもその他のポストモダン思想も詳しくないし読んでもいないので、全体像を理解していないし深く突っ込まれてもわからない。だが、とりあえずこの引用に関しては、「水漏れ」とか、一定方向の流れをくぐりぬけるとか、微細な抵抗が積み重なってシステム自体が崩壊に向かうとか、そういったイメージだけを受け取れば十分だと思う。


つまり、araikenさんと引用の限りにおけるドゥルーズ=ガタリをまとめた祝祭・逸脱派は、一元的な価値に抵抗し、支配的なコードの逸脱を推奨し、多様な価値と欲望を解放すると同時に、あるいはそうすることによって、「水漏れ」やら「骨抜き」やらの、ゲリラ的運動であったり内部からの切り崩しであったりする非正面突破的対抗策を志向する、という点において共通する。
祝祭せよ、歓待せよ、欲望せよ、浪費せよ、逸脱せよ、離脱せよ。彼らはこう語る。異質なものを排除せず、多様な欲望を解放し、支配的社会コードから逸脱する。それが権力や資本主義への対抗策として有効であり、そこに自由と幸福がある。


では、彼らの何が問題なのだろうか。
彼ら、祝祭・逸脱派の主張が持つ有効性を限界付ける、明白かつ主要な欠陥は、祝祭後・逸脱後の具体的なビジョンを準備できていないことにある。
祭りを叫ぶのはいい。逃走・逸脱を勧めるのもいい。しかし、祭りはいつか終わる。祭りの後に、ただ空虚感だけが残されない為の、一体何が準備されているというのか。逃走の果てには足場が用意されていなければ、ただ谷底へ落ちるだけである。逸脱しても生きていけるだけの環境がスペースがどこに用意されているというのか。


具体的ビジョンがないということは、どういうことであり、どういう結果を招くのか。それがわかりやすいのはやはりaraikenさんの内田氏批判の仕方である。基本的にaraikenさんは、多様な価値を追求していれば、オンリーワンであればいいじゃないか、と繰り返すのみで、内田氏が問題視する「夢見る若者」の搾取構造をどうしたらいいのかについては、結局具体的には何も答えてくれない。むしろ、学びや競争から降りたっていい、「負け」も違う尺度から見れば「勝ち」だ、と語ることでそもそも問題自体の存在を否定する。
その主張自体は別にいいとしよう。しかし、その主張が何を招くのか。多様な価値を追求した結果として搾取されようが、困窮しようが、それは自分で選んだ価値なのだから問題にはならない、と言う。それはそうかもしれない。しかし、これがもう少し進むと、抑圧されようが、排除されようが、差別されようが、それがあなたが選んだ価値なんだから文句はないはずですよ、とはならないか。逸脱は結構、いくらでも祝祭しましょう、しかし、その結果は保障しませんからね、とはならないか。


現にaraikenさんは資本主義社会においては搾取も収奪も必然であるとして、「夢見る若者」を特別に問題とする意味を否定する。これは間違ってはいないかもしれない。だが、こうして部分問題の存在を否定して全て全体問題に還元し、さらにその全体(資本主義社会)への具体的代替案も示されない場合に何がもたらされるか。現状肯定である。全否定による現状肯定。全てが問題なのだから部分を変えても意味がない、ということで変革は先送りにされる。
araikenさんは業績主義的価値観を相対化する社会を目指すと言うが、その結果がどうなるかと言えば、多様な価値の内の一つの価値である業績主義的価値を選択した人は富み栄え、別の(今現在マイナーな)価値を選択した人は貧窮を味わうことになる可能性が高い。階級格差はますます進むだろうが、夢を追求し自らの価値を信じている彼らは幸せなはずだ、ということで経済的・社会的格差は温存される。多様な価値は承認される。これまでの支配的価値から離脱した彼らは祝祭される。しかし彼らの生活や生存が保障されることはない。だって彼らは幸せなはずだから。祭りを楽しんでいるはずだから。そして、祭りが終わって、彼らは途方に暮れる。


ここに至れば、araikenさんや祝祭・逸脱派の元々の意図とは裏腹に、彼らの主張はただ現状肯定を意味し、あるいは状況の悪化、体制の強化をさえ助ける危険が高いことは明らかである。多様な価値が承認されながら、むしろ承認されることによって、厳しい搾取と過酷な競争にあえぐ。社会や政治からの逸脱の自由を手にしながら、むしろ手にしたことによって、貧窮と弾圧がのしかかる。
これが、具体的代替案なき祝祭・逸脱派が招き入れるものである。これを危惧するがゆえに、再帰・統合派は祝祭・逸脱派のナイーブな主張を容れない。思えば、内田氏の主張には、最初からこうした問題意識が埋め込まれていた。


ここまで書いてくると、内田氏は味方面したバックパサーであり保守主義者であるというaraikenさんの揶揄にもかかわらず、実はaraikenさんこそバックパサーであり新自由主義の刺客であったのではないか、とさえ思ってしまう。まぁ、実際そんなことはないだろうが、少なくとも自らの主張が何をもたらしかねないのか、ということにはより自覚的になるべきだろう。現実に新自由主義ポリシーに親和的なのは、明らかに内田氏よりもaraikenさんの主張の方なのであるから。


再帰・統合派と祝祭・逸脱派の議論がなぜかみ合わないのか。あるいは、前者が後者に無視か嘲笑しか与えないのはなぜか。それは、再帰・統合派が以上に示したような祝祭・逸脱派の欠陥を十分認識しているからであり、それを踏まえた立論をしているからである。
祝祭・逸脱派の主張は、無自覚な近代主義者や旧来のマルクス主義者などを批判する為にはかなり有効であったろう。近代的なシステムの前提を疑い、ひっくり返そうとする祝祭・逸脱派のやり方は、その前提を盲目的に信奉している人々には衝撃であったであろうから。
だが、同様の批判を盲目的でも無自覚的でもない再帰・統合派に浴びせかけても効果はない。つまり、再帰・統合派は、無自覚な近代主義とそれに対する祝祭・逸脱派の批判および欠陥を踏まえた上での議論、二次的な議論をしているのであって、ここに祝祭・逸脱派の一次的な議論をぶつけても実りないことは当然である。


それにもかかわらず一次的な批判を繰り返すのであれば、それは議論の後退をしか意味しない。祝祭・逸脱派は、祭り後・逸脱後の具体的な代替ビジョンを持たない事をむしろ積極的な価値と見なしているふうでもある。しかし、何らかの変革を望むのであれば、具体的ビジョンなくしては話にならない。少なくともそれを模索しなくてはならない。祭りの後も見据えたビジョンを。その模索さえ無いのであれば、再帰・統合派への一次的レベルでの批判は自足以上のものをもたらさない。おまけに現実状況も好転しない。愚痴や八つ当たりをぶちまけあってストレス解消を図る目的なら、まぁご自由にと言うほかないが、それが自足に留まるだけの議論であることは自覚されていいし、読者もそう思って読んだ方がいい。
araikenさんも、内田氏の主張に対して別の次元で応える、ということをよしとしている風である。しかし、そのやり方が結局(自足者同士の連帯感強化以外に)何も生まない以上、オルタナティブの有効性は現実戦略の文脈で語る必要は無い、という言葉、あるいは、「人を変え、社会を変えることは目的ではない」という言葉は、私には負け惜しみ混じりの敗北宣言にしか聞こえない。


再帰・統合派の主張・もの言いに違和感を覚えるとしても、今私達がすべきことは、従来からある一次的な批判を彼らにぶつけて、一方的に勝利を宣言することではない。もちろん、具体的代替案を模索することもないまま、ただ一方的にエスタブリッシュメントを批判して自足しているような人間であることを選択するのであれば、これ以上私から言うことはない。ただ、もしそうでないのであれば、私達に必要なのは一次的な祝祭・逸脱派の言説を繰り返し続けることではなく、再帰・統合派に実効性ある批判をなし得るだけの二次的な論理立てを構成するべく模索することである。
araikenさんは内田氏の「矛盾」に終始こだわったが、私は終始それに興味が無かった。その矛盾とやらにこだわっても何も出てはこない。内田氏にとっても痛くも痒くもないだろう。araikenさんは内田氏の二次的な議論につきあうことなく、その一次的なレベルだけを問題とした。問題意識は理解できるにしても、そのやり方は結局あげ足取り以上のものにならないのではないか。議論の過程にいちいちこだわるよりも、議論を進めることで相手の主張の欠陥を明らかにする方法もあるだろう。


そろそろこの冗長なエントリを終えたいが、私が祝祭・逸脱派の主張の有効性を限界づけていると考える欠陥は、実はもう一つある。それは現状認識の甘さである。これについては、ここでまとまった議論をする余裕も準備も無いのであるが、とりあえず以前私はこう述べた*2


新自由主義と個的社会の性格を兼ね備えたメタ・ユートピアは、民間活力の重視や個人の多様な権利・価値の承認によって、表面上は著しく自由で快適な世界をもたらすであろう。
しかし、その「自由」は、それこそオーウェルフーコー的権力によって、監視・管理を受け、丁寧に整備・配慮された果実である。ここで過去の福祉国家時代と異なるのは、その管理権力は表面上の自由の背後に隠れたそれこそ「メタ」の存在として不可視化されてしまう。まさしくパノプティコンである。ここではメタ・ユートピアの基盤をなす価値、基底的価値に賛同しない者はそもそも排除されてしまうであろうことも重要である(こうしたメタ・ユートピア的なネオ・パノプティコンを考える上で、実体的には東浩紀などの議論、より抽象的・感覚的には森岡正博の『無痛文明論』が参考になる)。


表面上の自由と多様性にもかかわらず、実態は誰かに制限された自由の範囲があり、誰かに規定された欲望を持ち、見えないところで許可を与えられた多様性だけが表を歩く。大体こうした認識がいまや普通の権力観ではないか。こうした中でただ祝祭や逸脱を訴えていても上滑りするだけだろう。他者を排除せず祝祭しているつもりでも、自由に逸脱・逃走しているつもりでも、その実は気付かれないうちに型をはめられているだけなのであるから。この点については、再帰・統合派が十分な認識を有しているかは必ずしも自明ではない。であるから、これについて認識を深めることが、祝祭・逸脱派を洗練させる為にも重要となってくるだろう。


さて、散々批判を撒き散らしておいて何だが、以前から繰り返しているように私が感情的に親和しやすいのは内田・宮台両氏よりもaraikenさんの方である。しかし、論理的にはaraikenさんは完敗していると見る。と言うより議論が成立していない。だから、「それではダメだ」と思うのだ。
必要とされているのは、祝祭・逸脱派の二次的レベルへの洗練である。だからこそ私は、一次的レベルに留まり続けることに疑問を抱かない祝祭・逸脱派との馴れ合いを拒みたい。
冗舌に過ぎた上に、自らのことを棚に上げているようで心苦しいが、ここら辺で切り上げたいと思う。
私が書き散らしたこの文章が、araikenさんが内田氏批判によって果たせなかったような建設的対話に資するものであることを願ってやまない。

コメント

きはむさん、こんにちは。araikenさんのブログに時々コメントしているGilと申します。上のきはむさんの荒井さん批判に対するコメントを〈祭りの戦士〉のコメント蘭に欠き込みましたので、ご参照いただければ幸いです。
2005/08/09(火) 10:30:16 | URL | Gil #cmbYiIsE [ 編集]


具体的代替案がないことが、「祝祭・逸脱派」への批判になるでしょうか。きはむさんが引用した文章にあるように逸脱者は「何かを達成するのをめざさない」のです。内田氏や宮台氏にも、そして、きむはさんにも感じるのですが、言論によって、何かが達成できる、達成したいという、幻想や願望があるように思えます。


思想、言論は確かに人々の行動を大きく左右します。しかし、それは思想や言論を語る人の思惑を必ずといっていいほどうらぎります。そのこととうらはらに、宮台氏や内田氏の議論の動機に設計どおりに世の中がうごかしたいという欲望を感じます。


しかし、設計されたとおりの世の中にならなくても、なんの設計図がなくても、我々は生きていけるのです。悪い設計や計画ならないほうがよいのです。なくても生きていけるのですから。


私がaraikenさんの文章から感じるのは「てめーの書いた絵じゃ、みんな、つらいんだよ!」ということです。そして、とりあえず、今、その絵を捨てることを内田氏にいっているのだと思います。araikenさんも、もっといい設計図を書こうとは思っていないはずです。それどころか、もう設計図をかかないと決意しているのかもしれません。そういう人に設計図が無いことをいってもそれこそ「何もうまない」と思います。くだない思想が具体的代替案さえない無思想におとることを内田さんがさとらないかぎり、たしかに、araikenさんと内田さんは生産的な対話ができないかもしれません。
2005/08/12(金) 10:42:20 | URL | osakaeco #- [ 編集]


osakaecoさん、はじめまして。
おっしゃっていること、感情的にはわかりますが、どうでしょうかね。設計図どころか見通しすら持たない人々と現実を共にできるか、というとなかなか厳しいと思いますが。


それから、araikenさんもミクロの闘争と言ってますし、あるいは権力の無化なんて言っている人も含めて、何の達成も目指さないと言うのは虚言だと私は思います。
2005/08/12(金) 18:48:28 | URL | きはむ #- [ 編集]


我々の社会ができあがっているのは設計図なり、達成しようとしている目的があるからではありません。つまり、設計図がなく、無目的であっても我々は他人と「現実を共にでき」ているわけです。


それでもわれわれはすでに達成された社会に違和感なり、不満をもち、それが我々を設計図を書いたり、何らかの目的をつくりあげることに向かわせるのです。しかし、それが我々の違和感や不満を生み出したものをなくすことができるかどうかは別の問題です。その設計図が作り出された目的自体が、不満や違和感を作り出したシステムの一部であることさえあります。


われわれは自分がいまいるところに違和感なり、不満をもち、今のままではいやだというところからはじまるわけですから、その意味では、ある達成を目指しているわけです。


にもかかわらず、「達成を目指すものではない」という理由の一つは、われわれがいったんつくった目的を追求するあまり、そもそもの違和感や不満に無自覚になることです。だから、設計図や目標をどうするかということ以前に、自分のいる状況、それから湧く感情を憶えつづけることのほうがおそらく実践的には重要なのだろうと思います。そのことを助けるのはかならずしも社会理論ではないのでしょう。
2005/08/13(土) 18:45:48 | URL | osakaeco #- [ 編集]


ということは、設計図など捨てちまえという言説に固執しすぎて「そもそもの違和感や不満に無自覚になる」ことも許されないわけですね。


私は別に理論にこだわるわけではないですし、おっしゃっていること全体として必ずしも誤っておられないと思いますが、もうそのレベルの議論はいいんじゃないか、と思うのも正直なところです。
で、結局、現状肯定や悪化はどうしますか、というところは誰も答えてくれていないわけで。


生産的対話にしても、内田氏の足を引っ張って一次的な平面に引きずりおろしたフィールドで「対話」を行おうとするか、内田氏の「一次的な問題」も憶えてはおきながらも自分達を磨いて二次的なフィールドでより実りある対話を行うか、という選択。
究極的には趣味と志の問題でしょうか。
2005/08/14(日) 15:08:12 | URL | きはむ #- [ 編集]

TB


終わりなき祭り、果てなき逸脱 http://araiken.exblog.jp/2147674


祭り・逸脱・資本主義 http://d.hatena.ne.jp/sivad/20050809


祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1