共同性の社会学、あるいは祭りと日常


2005/07/31(日) 16:35:42 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-111.html

「祭り」というテーマに関しては、まだまだ思うところはある。
藍川さとるの「晴天なり。」シリーズ第三巻『サンクス・ア・ミリオン』から少し。


小さな頃には
よく あったよな


たとえば祭りの前なんかの
あの ワクワクするような感じ


何かとてつもなく
ものすごい事が待ってる気がして――――――


でも それは
すぐに消えてしまうんだ


あの うそくさい
夜店の灯りと一緒に


新尾正則の、「何で? がっかりするの分かってるのに何で行くの」という問いかけに対し、藤井たもつは「そりゃ楽しーから がっかりすんの分かっててもさ そん時わくわくしてんだからそんでいーじゃん」と答える。


思うに、うそくさい夜店の灯りの下に何かとてつもなくもの凄い事が待っているような期待が、祭りの終わりとともに裏切られても、その時感じたわくわくをそれとして味わえるのは、祭りという幻想空間から帰っていく元の空間が確かに存在しているからではないか。元の空間も肯定し、そこに確かな足場が約束されているからこそ、幻想を幻想として楽しめるのではないだろうか。
現に、「サンクス・ア・ミリオン」では、祭りの浮き足立ったような空気に馴染めずつまらない顔しかできなかった新尾は、はじめて自分だけを愛してくれる女性を得たことで、祭りのどきどきを素直に味わえるようになり、物語は終わる。


ここに示されているのは、祭りという非日常的空間と日常空間との距離・バランス・相互関係であろう。祭りが祭りとしての性質を全うする為には、より確からしい足場、日常空間が必要なのである。なぜなら、いつかは終わる祭り、所詮幻想でしかない祭りには、それが終わってしまった後の喪失感と虚無感に押しつぶされない為に、祭りから帰っていく場が必要だからである。自分の存在を肯定し保障してくれる、幻想でない(と思える)何かが不可欠なのである。新尾にとってのそれは、「オレの事だけ見てくれる女」だった。


さて、祭りといえば、『カーニヴァル化する社会』鈴木謙介がすぐに想起される。
ということで、少し引用。


 しかしながら、バウマンも指摘するとおり、蓄積や一貫性を維持することが困難な後期近代においては、共同体への感情は、アドホックな、個人的な選択の帰結から生じるもの以外ではあり得なくなる。そうした点を踏まえて彼が考えるのは、いわば「共同体」から「共同性」への転換だ。すなわち、ある種の構造を維持していくことではなく、共同性――<繋がりうること>の証左を見いだすこと――をフックにした、瞬発的な盛り上がりこそが、人々の集団への帰属感の源泉となっているのである。
 このような瞬発的な盛り上がりこそが、ここでいう「カーニヴァル」にあたる。カーニヴァル型の近代とは、アドホックな共同性への選択の契機となる、感性の水準へのフックを駆動原理とするような近代だと、さしあたり見なすことができるだろう。
(138〜139頁)


カーニヴァルと共同性の関係を考えるに、その因果、あるいは目的-手段性が重要なのかな、と思う。
例えば、araikenさんが言うような、他者を排除しない祝祭の場合には、他者が到来する-他者を歓待し祝祭的コミュニケーションをとる-そこに共同性が生まれる、といったプロセスが想定されているように思う。それはアドホックな共同性であり、祝祭によって共同性がもたらされる。


ところが、鈴木が考察する「カーニヴァル」の場合は、「繋がりたい」という共同性の希求がまず先にある。そして繋がりうる手段としてカーニヴァルを催し、絶えず繋がりたい為に絶えずカーニヴァルを必要とする。ここにおいては、カーニヴァルへの依存性が顕著であり、他者遭遇によるアドホックな共同性ではなく、共同性渇望からくるカーニヴァル中毒だけが存在する。


ここで先の祭りと日常生活の関係について思い直してみる。日常に確かな足場が得られない者は祭りの幻想性をそのままには味わえない、と言った。ゆえに新尾は祭りへの積極的コミットをためらい、拒んでいた。
しかし、確かな足場なきゆえの祭りへの態度には、祭りの拒絶以外にもう一つ、祭りの渡り歩き、というケースが有り得る。いわゆるお祭り男だろうか。つまり、祭りへの拒絶的態度は祭り後の喪失感・虚無感に耐え難い為にはじめから関係を断つわけだが、反対に渡り歩き的態度は、祭りの中身=幻想性だけを享受し、喪失感・虚無感を引き受けることなく別の祭りに移って行く。あるいは、「終わらない祭り」を求めて、この祭りもダメか、この祭りもダメか、と祭りへの参与を繰り返していく。彼は祭りの中でしか生きられないのだ。


このお祭り男、祭りの渡り歩き的態度は、共同性渇望ゆえのカーニヴァル反復に相似している。いつか必ず終わる祭りを渡り歩く、あるいは反復することで共同性を絶えず補給していくことが、果たして耐え得る生き方だろうか。評価は難しい。
本来祝祭という言葉でイメージされる、祝祭からの共同性ではなく、共同性のための手段的祝祭。アドホックな共同性に関してはそれを評価したいが、祭りの非継続性ゆえの恒常的な流動と変化を、単にノマドだなんだと言ってナイーブに肯定できるだろうか。なかなかに難しい。
アドホックな共同体、アドホックな連合の重層と開かれた流動的な共同体、というイメージは好ましいが、それ程簡単なことではない。どう考えていったらいいか。やっぱり共同性は難しい問題だと思う。


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

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