祭にまつわるエトセトラ


2005/08/11(木) 19:18:05 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-117.html

政治的・人間的センスを疑うのは自由だが、興味を持てないものは持てないのだから仕方がない。という話はどうでもよくて。


「具体的なビジョンによって構想されるマクロな変革さえあれば事足りる思っているとしたら、それでは片手落ちだ」、「いくら制度に大手術を施したところで、それを支える人間の意識(欲望)が変革されていなければ、制度はうまく機能しないどころか、抑圧的に働きかねない。つまりマクロな政治的変革は、ミクロな意識の変革にささえられていないと意味がない」と、以上の認識をお持ちであれば、以下の認識も当然お持ちであろうと考えるが如何だろうか。


人間の意識を問題とするミクロな変革さえあれば事足りると思っているとしたら、それでは片手落ちであり、いくら意識を変えようとしたところで、それを規定している制度や慣習が変革されていなければ、そう簡単に成功するものではない。つまり、ミクロな意識の変革はマクロな政治的変革が伴わなければ意味がない、ということだ。


別に、ミクロな意識変革やミクロな権力の問題視に私が低い評価を与えているということは最初から無い。「それではダメだ」ではなく「それだけではダメだ」と言っておくべきだったか。この点は私の言葉足らずだったかもしれない。


それで、「戦略の価値を結果で判断するのではなく、闘争への意志において」判断する、とのことだが、まぁそれも一つの選択でありましょう。私はどうもその類の「結果は問題じゃない、プロセスが重要なんだ」という言説をあまり好かないが、他人がその道を選ぶこと自体を批判する気は無い。鼻で笑う気も無い。ただ、愚痴や八つ当たりとは言い過ぎであるとしても、それが「自足に留まるだけの議論であることは自覚されていいし、読者もそう思って読んだ方がいい」という考えは誤っていないと思う。こういう言い方はきっと気に障るだろうと思うが、「自足に留まるだけ」でないなら、結果でそれを証明してくれればいいだけのことだ。あれ、何か逆説的だな。


私が一番気になったのは、araikenさんが掲げる「祭り」という概念が、私のイメージと随分違っていたことだ。「祭り」とはドンチャン騒ぎとは違うと言う。そうなのか。
でも、やはり一般的なイメージからすると、祭りというのは非日常的なものであって、祭りごと=政とする場合であっても非日常的なニュアンスを持っていて、一年に何回かあるとしても何十回も無く、まして持続的ではないものとしてイメージされているのではないか。こういう祭りの素朴なイメージをそのまま持ち込んでいる私にしてみると、「終わらない祭り」など有り得ない、というのが自然な立ち位置である。「まつりごと」とは違うニュアンスであったとしても、政治自体は日常的・持続的に存在するわけであるし、ま、より包括的に捉えようとすれば、「祀り」も加えた三つの関係を考えるべきかな。
実際、araikenさんが推奨する、「日常生活の中に侵入しているミクロな権力と闘争し、それぞれの多様な価値を可能性の限界まで追求して生きる」という営みからは「祭り」という言葉が今ひとつ連想しにくいのは私だけなのだろうか。前近代のことを考えるなら、「祝祭」と「祭祀」との違いとか、どうなんだろうか。と、あまり厳密な話でもないか。


あと、これは確認なんだが、araikenさんは祭り=浪費=無目的と結んでいる感があるが、とりあえず祭り自体はふつう無目的ではないはずである。現代はともかく、ルーツに遡れば当然意味があるはずで、前近代のことを言うなら当然そうだろう。無目的でない消費を浪費と言うのかどうか微妙な気がするが、まぁこれは生産主義、生産力主義というものにぶつける意図がメインで、あまり突っ込むところではないのかもしれない。
これは余談の雑感に過ぎないが、労働至上主義、労働偏重へのカウンターとして「遊び」や余暇による公的活動を別の価値として持ち出す人が結構いて、それが過ぎると逆に「遊び」主義や公的活動主義みたいなことになって個人を圧迫しかねないんじゃないかな、と以前から何となく思っている。


最後に、こちらにもコメント頂いたGilさんのコメントを検討しようかと思ったが、別に言うことがない。なげやりなわけではないが、大筋でまっとうなことをおっしゃっていると思うし、いいんじゃないか。
こんなことを言うともの凄く無責任に思われるだろうが、araikenさんとの議論にしても、何だか対立点が何だったのかよくわからなくなった。「祭り」という前提の概念からして理解が違っていたし、ミクロの政治を問題にすること自体に私は異論が無いし、araikenさんがこだわる内田氏の「おじさん的思考」とやらに私はそもそも興味が無いし。と言うわけで今回はだらりとしたテンションでお送りした。


このまま終わるのもあまりに無責任に見えるだろうから、改めて私の立場を確認させてもらおう。
再帰・統合派の議論にある程度の説得力を覚えながらも完全に支持を与えることはできず、感情的には祝祭や逸脱を推奨したいが、祝祭・逸脱だけでは立ち行かないだろうという見通しに基づいて、その補完策を含めて祝祭・逸脱派の洗練を目指す。また、ミクロな政治とマクロな政治のどちらかを偏重するのではなく、両者を同時並行的に扱っていくこと、あるいは両者を繋ぐ論理の構築を重視する。といったところだ。

コメント

きはむさん、こんにちは。
私がなぜ、荒井さんときはむさんの論争にあえて首を突っ込んだかといえば、よく読んでみると、お二人の主張は必ずしも全て対立しているばかりではないと思えたからなのです。ですから、「対立点が何だか分らなくなった」とおっしゃるのは私にはうなずけます。要は、「逸脱」にせよ「再統合」にせよ、あまりに単純化して論じるのはいずれも危険である、ということではないでしょうか。またその限りにおいて、お二人の問題意識に、いろいろと接点は見出しうるのではないでしょうか。
もちろん、何を論じるにせよ、批判し切磋琢磨しあうことは意味のあることであると思います。これからも、独自の立場からぜひ問題提起を行なっていただきたいと思います。
2005/08/11(木) 20:42:29 | URL | Gil #- [ 編集]

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祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1